第2話
1984年。四月も三週目。土曜日の夕方だった。兼平知毅から電話があった。
「今鎌倉駅に着いた。渡すものがあるんだ。そっちに行く」
電話が切れて、三十分ほどすると、はやインターフォンが鳴った。
「土産だ」
「どうも」
この年私は、逗子マリーナの一室で暮らしていた。部屋の所有者である生母から、破格の安値で借りていた。60㎡ほどのこの住処は、知毅を迎えると、かなり狭苦しく感じられた。
身長188㎝。場所塞ぎの男を玄関で見上げた私は、思わず言った。
「そろそろ髪を切ったほうがいいぞ」
サングラスを外して、知毅は言った。
「龍にもこの前そう言われた」
中学生時代、兼平知毅は神秘の少年神、阿修羅神像の化身だった。だがその神々しいような輝きは、二十歳を超えた頃には消え失せた。
それでも国家公務員だった時代は、それなりにまともな髪型をして、髭も剃り、まともなスーツを着ていた。顔立ちも体格も良く整った男だから、まともを保っているだけで、気どらない好男子に見えた。だが三十歳で自営業者に転身。半年経つと、その印象も消えた。
1984年の春、兼平知毅三十七歳の第一印象は、威圧感のある、むさくるしい変人だ。
金に困っている様子もないのに、たいていくたびれた服を着て、くたびれた靴をはいていた。髪はたいていぼさぼさで、端正な顔は、髭とサングラスで隠されていた。
「コーヒーで良いか」
「ビール、あるか」
「ギネスしかないぞ」
「上等だ」
リビングにある二人掛けのソファを、知毅は一人で陣取った。
私はカウンターの中に入り、飲み物とつまみを用意した。昼に茹でたそら豆。三日前に漬けたピクルス。知毅が持ってきた焼き豚も切った。
「今日はどうした。シャツにアイロンがかかってる」
「少しばかり気を遣う相手と約束があった」
「そのわりに、髪も髭もひどい」
つまみとビールを運ぶと、私は一人掛けのソファに腰を下ろし、テーブルを挟んで知毅と向かい合った。
知毅は懐から封筒を取り出し、私の前に置いた。
「今日はこれを渡しにきた」
怜於の家庭教師を、龍明に頼まれた三日前。知毅から、某人物の身辺調査を依頼された。この依頼は迷わず引き受けた。定時の拘束がない、短期間で終わる仕事はありがたかった。この日の一週間前、知毅に調査書を送った。封筒の中身は、その報酬だった。紙幣を数え、私は言った。
「たしかに。だが、領収証の用意がない」
「ああ。俺が持ってくるべきだったな」
「今日は泊るのか」
「月曜まで鎌倉にいる」
「明日持っていく」
「悪いな」
「あれは、あんなもので良かったのか」
「調査員としても、おまえはかなり有能だ。また頼んでもいいか」
「引き受けられそうな仕事なら引き受ける」
私と知毅は同じ年に生まれた。私は十月。知毅は十二月生まれだ。私たちは東京都港区で、同じ中学校に通い、同じ高校へと進学した。
中学一年の五月。放課後の図書館で本を選んでいた私に、知毅が声をかけてきた。
「これ。この前読んだ。けっこう面白かったな」
知毅が指さした本は、コンラッドの『闇の奥』。私は『闇の奥』を借りて、知毅と一緒に下校した。我々の付き合いはここにはじまった。
「それ、弟が夢中で読んでたんだ。それで俺も読んでみた」
知毅は私にそう言った。小説を読み終えた日、私は弟の年齢を尋ねた。十一歳になったばかりだと聞いて、驚いた。その弟なるものに、興味を覚えた。
「名前は?」
「たつあきら。たつあきらは、龍に明るいって書く。俺は
知毅は嬉しそうに言った。
「龍はすげぇ家に住んでて、ちょっと変わってる」
「一緒に暮らしてないのか」
「ない。血の繋がりもない」
「ほんものの弟じゃないのか」
「親も違うし。姓も違う。でも夢のなかでは、俺の息子だ」
「夢?」
「時々みる夢だ。その夢のなかで、俺は海賊だ。着物を着て、昔話に出てくるようなとこに住んで、船に乗って、暮らしてる」
「その弟が、夢では息子?」
「たぶん」
「そいつ、変わってるって、どんなふうに?」
「あいつは、特別な人間かもしれない」
「まだ小学生だろ」
「会えばわかる」
そして私は船に連れていかれて、龍明に紹介された。
「あいつ、どうだ」
「なかなか面白い生徒だ」
「面白いか」
「ああ」
「高校に通わなくても、なんとかなりそうか」
「記憶力は優秀。理解力に問題なし。向学心もある。学力については、まぁ、心配しなくてもいい」
「大学には行かせたい」
「進学する気はまったくなさそうだぞ」
「ないか」
「専業主婦になりたいそうだ」
「専業主婦か」
兼平知毅の身体能力は驚くべきもので、中学校の体育祭では、毎年花形役者となった。運動部の勧誘はすごかったが、部活動には参加しなかった。道場の稽古が忙しいから、部活動に参加する時間はない。そう言った。五歳の頃から通っていたという、拳法と柔剣道の道場に、連日通い詰めていた。そのことを知る、誰かが広めたのか。あいつ、強いらしいぜ。中学校では、そんな評判がたった。実際私が知り合った年頃には、すでにかなりの猛者だった。
学業の成績は、平均すれば中の上といったところ。しかし歴史と数学は、気紛れに私を抜いて、首席に躍り出てきた。
くわえて当時は、人目を引く、実に秀麗な少年だった。
男子生徒のほとんどは、やっかみながら、知毅に一目置いていた。女子生徒のほとんどは、知毅を目で追いかけていた。教師たちは、彼を愛する陣営と、憎む陣営に分かれた。
私が知毅と一番親しい。中学校ではそう思われていた。そう思われることに、強い喜びと誇りを感じた。
入学早々教師を殴り、高校からは放り出された。それでアメリカ合衆国へと、親に送り込まれて、大学はあちらで卒業した。
知毅に殴られた教師は、頭が悪く、劣等感が強く、権力欲が強い男だった。多くの生徒と同僚に嫌われていた。私も嫌いだった。こいつは知毅とともに高校を去ったので、駆逐した知毅は、我が母校の伝説の勇者になった。
大学四年の秋、我々二人の友人が、早くも細君を迎えた。結婚式で、知毅を横目に、私の心は呟いたものだ。こいつには、こちらも惚れこめるような女と結婚してほしいものだと。
「おまえみたいな子供と付き合えるか。あの子に迫られて。おまえ、そう言ったそうだな」
「言ったな」
「おまえはあの子の求愛に鼻の下を伸ばしてたが」
「伸ばしてない」
「応える気はまったくなさそうだった」
「なかったよ」
「じゃあ、どうして婚約なんてことになった?」
彼女のことは良いのか。
怜於と婚約した経緯は知りたかったが、私が一番口にしたい質問は、そこだった。だが口にしてはいけない気がした。
「あいつが本気の本気でかかってきたら、俺は負けるしかないようだ」
「あの子は本気だと、僕はそう言ったぞ」
怜於が知毅と龍明を追いかける目は、成長ととともに剣呑な輝きを増した。怜於が求愛ダンスをはじめる前から、私は不穏に思っていた。
知毅も龍明も、私の言葉を笑った。親にかまわれなかった子供が、欲しかったものを求めているだけだ。どちらもそんなことを言った。愛猫家が猫を可愛がる甘さで、怜於を甘やかし続けた。
「不道徳で不面目なことになったとは思ってるが。恥じるべきことはしていない」
「手は出していない。そう言いたいのか」
知毅は私の顔を見て、ぼそぼそと云った。
「入籍しないかぎり、あいつに手を出すつもりはない」
私がその目を見据えると、困った顔で視線を反らした。
「おまえは一人決まった相手をつくると、他の女には手を出さない。あの子が成人して入籍するまで、禁欲生活か」
「あいつとそう約束した」
「だから」
どうしてそんなことになったんだ。私がそう言おうとしたとき、インターフォンが鳴った。
扉を開けたとき、私は軽く目を見開いた。待っていた人は、白い襟のついた、群青色のワンピースを着ていた。はじめて見る服だった。スカートを履いた姿を見るのも、久しぶりのことだった。ふだんは脂粉をつけない人が、肌に薄く粉をはたき、目立たない色だが、口紅をつけていた。短い髪もきちんと整えられていた。数秒その花やぎを目で味わってから、私は言った。
「いいね。その服。シックだ」
彼女は疑わしそうに私を見上げた。
「私には、女らしすぎる気もしたんですけど」
私は言った。
「似合ってる。でもどこに出かけたんだろう。そんなよそ行きで」
「家に戻って。この服に着替えて、ここに来ました」
彼女は照れくさそうに笑った。私はその顔をじっと見た。
「着替えて?」
彼女は頬を染め、下を向いた。抱きしめたくなった。良い雰囲気になったが、下を向いた彼女が、知毅の靴を見つけてしまった。
「どなたか、いらしてるんですか?」
リビングで彼女を迎えると、知毅の目元に柔らかく皺が寄った。
「お邪魔してる」
中学生の頃から、知毅はたいてい仏頂面だった。成長するにつれ、仏頂面の威圧感が増した。偉そう。冷たそう。知毅を嫌う人間は、そんな言葉で彼を否定したものだが、お気に入りに笑いかける顔は温かい。相手が女性であれば、幾つになっても含羞が滲み、少年めいた可愛げも現れた。
「こんばんは」
私の隣にいた人は、少し緊張した微笑みを見せた。
私は言った。
「バイト代を届けにきてくれた」
右手に持っているデパートの紙袋を、彼女は掲げて見せた。
「私、色々買ってきたんです。三人で、週末のパーティーができます」
しかし、知毅は腰軽く立ち上がり、優しい声で言った。
「心惹かれる提案だが、邪魔者は退散する」
彼女と私は、知毅の紹介で知り合った。その時私は二十二歳。彼女は十八歳で、当時は知毅の許婚だった。
「松本信乃さんだ。一昨日、結婚を承諾してもらった」
「蓮實です」
「松本です。よろしくお願いいたします」
知毅と信乃の仲人は、龍明の祖父らしい。知毅の父親は、この仲人に恩があった。知毅は、その人と父親を尊敬していた。二人の顔をたてるつもりで、会うだけだと、渋々この見合いを承知した。だが彼女を私に紹介した顔を見れば、渋々婚約したとは思えなかった。
この子と結婚?私は内心で首を傾げた。当時の大和なでしことしては、中肉中背。しかし知毅と並んだ姿は、随分貧弱に見えた。顔立ちも地味で、ポニーテールの髪型と服装が野暮ったい。どこにでもいる女の子だ。そう思った。
まぁ、紹介された日の別れ際には、挙措動作が美しい人だとは、感心していた。次に会ったときには、豊かな感性と、感性を素直に表す強さを発見した。そしてある日、その勇気と気骨に感動した。知毅の人を見る目を、それまでより高く評価する気になった。
凡庸に感じた姿も、しだいになかなかのものと見えてきた。出会って半年後には、人並みだと主張する私を、もう一人の私が言い負かしていた。小柄だが均整はとれている。顔立ちも地味なりに整っていて、表情に気品がある。彼女は十分にきれいだと。
龍明は彼女を、小さな白い花だと、私にそう言った。
「三歳児のように天真爛漫で。なんでも善意にとる。人を憎むとか疑う気持ちを、持ったことがあるのかな」
私たちから少し離れた場所に、知毅と信乃が立っていた。信乃が振り返り、嬉しそうに龍明を見て、知毅を見た。
彼女を見る知毅の顔と、二人に笑いかける龍明の横顔は、少し硬かった。
私はすでに気づいていたし、知毅と龍明も気づいていた。信乃だけが自分の心に気付いていない。そんな状態は、結構長く続いた。
婚約を解消しよう。二十四歳の知毅が、二十歳の彼女にそう言った日、信乃はようやく気付いたのかもしれない。
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