おかしな家の饗宴(シュンポシオン)
黒澤 白
第1話
十七歳の
「この家って、船みたいだな」
その日十六歳になったばかりの
「きっといつか、海に向かって走り出す」
この日から私たちは、我々のあの家を、「船」と呼ぶようになった。
我等の船は、鎌倉の谷戸に建っていた。浮かぶ敷地は千五百坪。三方を山に囲まれていた。
黒い鉄の門を押して、木立のなかを行く。楓、榊、茶の木、檜葉、沈丁花、満天星、木斛、松、柘植、槙。数分歩くと、船の姿が見えてくる。
黒白の三階建て。戦前に生まれ、もとは海浜の別荘だった。和洋折衷、茶室好みの数寄を凝らした、英国のコテージ式の洋館だ。
南方には、幾つもの屋根の向こうに、青い海が見えた。
営団地下鉄千代田線が全線開通した年の二月。我等の船に一人の子供が乗りこんだ。この年私は香港で暮らしていた。知毅からの電話で、この子供について知った。
「俺だ。今話せるか」
「おまえ、今どこにいる?」
「東京都目黒区。我が社の自席で、受話器を握ってる。成田に到着したのは、一昨日の午前十一時。明日は鎌倉に行く」
「来週日本に戻る。船にも一度顔を出すと。龍明に伝えてくれ」
「良いタイミングだ。紹介したい奴がいる」
「奴?男か?」
「御年九つの悪ガキだ」
「九つ?」
「なんと、四月一日生まれだ」
「龍明と同じ日に生まれたわけか」
「俺が育てる」
「その子の母親と結婚を?」
「あいつの母親には、お目にかかったこともない」
「おまえは目下独身だ。未成年の児童と独り者の養子縁組は、まず認められないぞ」
「とりあえず、鵠沼の養子にしてもらう」
「莞爾さんの?」
「俺が面倒をみる。嫁をもらったら、あらためて俺の養子にする」
「おまえはほとんど家にいない。経済的な面倒をみることはできても、育てることはできない。また龍明と、あの家の人に押し付けるつもりか?金魚、犬、猫、鸚鵡。今度は人の子か」
「そんなつもりはない」
「その子は今どこにいる?」
「鎌倉だ」
「もう押し付けたのか」
「成田で龍が、俺たちを待ち構えてたんだ。俺は行かなきゃならん場所があって、二時間くらいあいつを見ててくれって頼んだ。そしたら、鎌倉に連れてっちまったんだよ」
「良かったな。連れていく手間が省けて」
「そんなつもりは、ほんとにない。明日は迎えに行くんだ」
「その子の名前は?」
「レオ」
「どこから拾ってきた?日本人か?」
「今は日本人だ。オジキの子供で俺の甥だ。名前の漢字は龍が決めた。漢字は・・・。説明が難しい。会った時に教える」
「動物に喩えればどんな子だ?白いライオンの子か」
「いや。目がギラギラした子猿かな」
知毅にはそのつもりがなくても、子供好きで、知毅の忙しさを知る龍明が、その子猿を放っておくはずもない。結局、龍明が育てることになるだろう。私はそう考えて、やれやれと首を振った。実際そうなった。
龍明が定めた漢字は『怜於』。怜於は知毅の部屋に戻らず、我等の船でずっと暮らしているようだった。龍明と怜於に、知毅が押し切られたらしい。
知毅と龍明から電話があると、必ず怜於の名が出た。手紙にも、必ず怜於のことが書いてあった。
怜於を迎えてから、船の主、龍明の生活は、怜於を中心に回っている様子だった。 知毅が船に滞在する日数も増えたらしい。
知毅と龍明の結びつきは、怜於を迎えてから、一層蜜になった。そんな気がする。
1983年。九月。私は日本に戻る。足繁く船へと通い、「怜於」と知毅と龍明の生活を、身近に観察しはじめた。
十二月のある日。龍明が私に言った。
「あんたに家庭教師を頼みたい」
怜於はすでに中学三年生。高校には進学しない。そう言い張っているという。
「来年の四月から、あの子は家で勉強する」
「知毅は反対だ。あいつを負け犬にしたくないとかなんとか」
「あの子は逃げたがっているわけじゃない。知毅も納得した」
「教師の役は父親が果たすべきだと、ルソーは言ってる。君は僕より、教師に向いていると思うぞ」
「俺も教える。知毅はあの子の、体術の師匠だ。他にも数人声をかけてるが。あんたは大学時代、腕利きの家庭教師だっただろ」
「僕は何を教える?」
「英語とイタリア語の指導を頼みたい」
「イタリア語?」
「本人が習いたがっている」
「君の友人には、イギリス人もいればイタリア人もいる。子供に外国語を教えるなら、その言葉を母語とする人物に任せるべきだ。ネイティブの発音を、まだ柔らかい舌と顔の骨肉に刻むんだ」
「ジェーンに英語を、エルサにイタリア語の指導を頼んだ。だが文法の講義と原典講読の指導は、日本語に堪能なあんたに頼みたい。あとは古典、漢文、日本史、世界史。そのへんから一つ、二つ、引き受けてほしい。授業は週に三回、一回は二時間程度でどうだ」
この時私たちは、本牧のビリヤード場にいた。身をかがめ、玉を狙ってキューをしごく龍明の背筋を惚れ惚れと眺めながら、私は暫し思案した。
帰国する少し前、何かが降りてきた。帰国して住処を得ると、降りてきたものを書き始めた。物書きになる気はなかったし、なれるとも思えなかったが、それを書き上げることは、成し遂げるべき仕事と思えた。私は三十七歳にして無職の身だったが、この仕事に追われていた。書きあがるまではどこにも勤めない。そう決めていた。
とはいえ、貯金の残高は気がかりだった。授業は週に三回。一回が二時間。準備の時間を考えても、その程度の拘束ならば、我慢出来るように思えた。
怜於のことをもっとよく知る、良い機会とも思われた。知毅と龍明が関わる人間については、よく知りたくなる。この欲求は、当時すでに私の、止められない癖となっていた。
勤務地は我等の船。はじめて訪れたときから、私は船を愛していた。
雇い主は宗形龍明。この男になら使われてみたい。私がそう考えた、ただ一人の人間だった。
迷う私の前で、龍明は見事な一打を決めた。周囲の拍手に片手を折って礼をすると、困った顔で私に言った。
「ただ授業料は。月額十二万程度でお願いしたい」
その顔の可愛げに、私は降参した。
「賞与は律さんの昼食だ。授業がある日は、必ず頼みたい」
当時の船には、律さんという名の、すてきな料理人が暮らしていた。
船の主は晴れやかな笑いを見せた。
「毎日食べにこい。ただし日曜日と月曜日は店屋物か俺の手料理になる。律さんは基本休日だ」
その顔を覗きこんで、私は言った。
「授業の日だけで良い。しかし、僕はあの子にとって、小姑のようなものだ。あっちが僕では嫌だと、言うかもしれないぞ」
アップルコンピューターがMacintoshを発表、サラエボとロサンゼルスでオリンピックが開催され、ミシェル・フーコーが他界、インディラ・ガンジー首相が暗殺された年。グリコ・森永事件が印象に残る、一万円札の顔が福沢諭吉になった1984年の、四月一日から三年間、私は怜於の家庭教師を勤めた。
授業の日は、必ず昼食をご馳走になった。食卓につくのは、怜於と私と龍明。時々他の身内か、客が加わった。龍明が出かけて、怜於と私だけになる日もあった。
はじめての怜於と二人の昼食は、たしか三回目の授業の日だった。四月の良く晴れた日で、テラスの食卓を二人で囲んだ。前に広がる南の庭は、若葉の匂いに満ちていた。
この日、白いクロスがかかったテラスの食卓で、怜於は私に訊ねた。
「夢の話を、知毅から聞いたことあるか」
はじめて見た怜於は九歳。東アジアの黒髪。黒い眸。浅黒い肌。小柄で、実年齢より幼く見えた。日本人にしては覇気のありすぎる、おかしな顔をしていた。知毅が言った通り、目がギラギラした子猿だった。
中学に上がった春、その手足と背が伸び始め、顔立ちが冴えてきた。顔付と目の光は、成長とともに猛々しくなった。十六歳の怜於は背丈163㎝程度で、なかなかハンサムな、少年孫悟空といったところだった。
斉天大聖様に、私は申し上げた。
「あいつが子供の頃から見る、夢の話か」
怜於は柘植の箸を、指でくるくると回した。
「それ。夢のなかの知毅は海賊でさ」
じゃがいものグラタンを皿にとりわけながら、私は言った。
「運命の相方にぞっこん入れあげている。人は彼女を千手観音と呼ぶ」
「龍がその観音様だって。知毅はそう思ってるみたいだ」
「龍明の左肩には痣がある」
「ああ。百合の花みたいな」
「千手姫の左肩にも、あの痣があるそうだ」
口にいれた真鯛の香草焼きを飲みこむと、怜於は言った。
「おかしくないか」
焼いたアスパラを口に入れた私は、ただ怜於の顔を見た。そんな私に、怜於は強く主張した。
「龍は男だ。200パーセント男だ」
アスパラを咀嚼して飲み込むと、私は言った。
「あれはおかしな男だ」
むっとした顔で、怜於は言った。
「どこがおかしいんだよ」
「君が小学生だったころ、あいつは君の身形を整え、送り迎えをして、おやつを用意して、歯を磨かせた。あんなふうに子供の世話ができる男は、そうそういない」
「龍が男らしくないって言いたいのか」
「心も体も頭の中身も、野放図に大きい。体格も気骨も、強靭で逞しい。あれに向かってそんなことを言える男も、そういない」
「そんな男が夢のなかのお姫様だと、どうして思えるんだ」
「姫じゃない。姫との間にできた、我が子だと思ってる。そう言った」
「二つしか年が違わないのに父親?」
怜於は眉根を寄せて、私の顔を見つめた。気難しい顔で言った。
「知毅は女好きなのにさ。あんたとも龍ともツーカーすぎるし。どっちも好きすぎる。仕事仲間の野郎どもとも仲が良すぎるし。ホモじゃないかって疑われて、時々怒ってるけど、仕方ないよな」
汁椀を持つ怜於の左手に、銀の指輪を見つけて、私は尋ねた。
「それ、婚約指輪か」
怜於は豆腐の赤だしを、美味そうに飲んだ。箸と汁椀を食卓に置くと、左手を上げて、指輪を見せた。「もらった」とえばった。
龍明と知毅を追いかけまわして、怜於は成長した。
十四歳の夏。二人に恋を求め始めた。
どちらも怜於の求愛を斥けたが、怜於の猛烈なる進撃は止まらなかった。二人はずっと困っていた。
ところがこの日から二週間前、怜於が十六歳になった四月一日。その日船に集まった家族に、知毅は言った。
(ここで発表がある。怜於は俺と婚約した。以上)
「知毅は君より二十二歳年上だ。君はほんとに、知毅と結婚するつもりなのか」
「戦争と平和。風と共に去りぬ。主人公とその相手は、みんなそのくらい年が離れてたゾ」
「どちらもかなり昔に書かれた、古い時代の物語だ」
「俺、流行はどうでもいい」
「まさか君が、結婚まで考えてるとは思わなかった」
「結婚を言い出したのはあっちだよ」
「知毅が君に求婚したのか?」
「結婚してからなら、付き合っても良い。結婚する気がないなら、俺のことは諦めろ。そう言われた」
怜於は男の子だと、私はそう思い込んでいた。自分の体は、卵巣と精巣を持ち合わせている。この年の二月、怜於からそう聞いた。近いうちに病院で処理をする。今は男になっている戸籍の性別も、女に変える。四月一日、スカートを履いた怜於は、私にそう宣言した。これからは毎日スカートだと息まいていた。
「今日はスカートじゃないんだな」
「落ちつかないんだよ。下から風が入ってくるのが、なんか頼りないっていうか。それに」
「それに?」
「なんかこう、オカマの気分になる」
「おかまか」
「まぁ、女には、おいおいなるよ」
「女になってほしいとは思っていない。知毅は僕にそう言った」
「うん。男のままで良い。結婚したつもりでいいって。そう言われてる」
「君は、女の子になりたいのか」
「なりたいって気はしない」
「なりたいと思わないなら、どうして女になる?」
「お小姓を連れてるより、若い女を連れてるほうがさ。二人への風当たりは、弱いだろ」
「二人とも、世間を気にする人間じゃない」
「男三人より、男二人と女一人のほうが、絵的にもいいだろ」
「そうかな」
「男三人組は、センセイとやってるしな」
「僕はどちらとも結婚したくないぞ」
「三人のうち一人が女になるなら、やっぱり俺だろ。女になったあの二人って。想像できるか?」
「考えたくないな」
「だろ」
「しかし君がどんな女性になるかも、想像できない」
女の演技が上達した今、装えば、怜於はなかなかの美女に見える。けれど男と見られることもよくある。背丈が180㎝あって、後ろ姿は少年のようだし。目つきと顔つきが、烈しすぎるせいだろう。おまけに腕っぷしは無敵の孫悟空だ。
十代の頃の言動は、今より百倍野蛮だった。今も昔も掠れた声は十二分に男らしい。これがどういう女になるというんだ。1984年の春、私は怜於を眺めて、何度そう呟いたことだろう。
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