第61話 老人と主人

「迂遠ではあるまいか」

その老人は彼女にそう言った。


「今はまだ様子見でいいでしょう」

彼女はそう言った。


「極東に拠点を構えるのは?」

老人はその点についても訊いてきた。


「今は誰も居ませんからね」

彼女はそう言った。これは新世代庶子への対抗策ばかりではない。


東アジアはリャン・ユーシュエンという人物が取りまとめのような立場だったのだが、辛亥革命から続く国乱で彼はハワイに移住したのだ。それ以降も中国共産党が支配する中華人民共和国には戻りづらく、東アジアには連絡窓口がなかったのである。


「マルローではなくその娘か」

老人は呆れるようにそう言った。


「娘が急かせば動くでしょう」

彼女は薄く笑ってそう言った。


「あれは怠け者だからな」

老人は鼻で溜息をついてそう言った。


老人は第二世代の人間であり、新世代の庶子たちの動きを許容している訳ではない。しかし老人は彼女の判断を尊重した。さすがに彼女を主人マダムとは呼ばないが。


「ご子息の事を忘れてはおるまいな」

老人は一応念を押した。かつて彼女は息子の逸脱を看過し、その結果として大変な動乱を招いたのだ。もっともそれにより、彼らの使命である文明の誘導には大きく貢献したが。その巨大な功績により、彼女は第一第二世代からも一目置かれているのだ。


「もちろんです」

彼女は微笑みを浮かべてそう言った。かつてとは随分容姿を変えているが、その微笑みは確かにホモ・サピエンスが敬慕する聖母そのものであった。


彼女の名前はヘルガ・マウノ。かつてナザレのマリアと呼ばれた女性である。

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