今日、ハレヤカであるように

日出詩歌

第1話

 六月の空は映らないテレビの画面みたいな色で、窓ガラスはいつまでも濡れていた。

 僕は枕元のスマートフォンで天気予報をチェックする。思った通り、朝六時から夜九時までずっと雨。『一週間後』と表示された項目を見ると、『快晴』とある。これがもし逆だったらな、と溜め息をつく。

 こんな日は、外へ出たくない。

 例え損をしてでも晴れの日に買い溜めしておけばよかった、と後悔する。雨の日になると、近所のスーパーや商店街はこぞってレイニーセールの旗を掲げて安売りをするのだ。それは、店が雨の日と知って人が外を好き好んで出歩かないのを理解している証左であり、そんな日でも売り上げを伸ばそうとする経営戦略でもあった。もはや雨の日に外を歩く人は資本主義社会に歩かされているといっても過言ではないと思う。

 分かってはいたものの、せっかくの休日が雨で台無しになったような気がした。最後に青空を見たのはいつだったか。雨雲はまだ空を手放すつもりはないらしい。晴れでも雨でも通勤が億劫なのは変わらないのだから、せめて休日くらいは晴れにしてほしい。

 外に出ると雨は土砂降りで、街の音は絶えず水音に上書きされていく。ビニール傘の柄が首に当たってひやりとする。否が応にも片手が塞がるのが何とももどかしい。僕は当たり前が無い空の下を、水の詰まった重たい足取りで歩く。それは道行く人も同じ気持ちな様で、町全体が澱んだベールで被われているかに見えた。

 すると、不意に目を引くものが視界に入る。

 紫色の和傘である。 

 その鮮やかな色合いはまるで、暗い空気をぱっと彩る紫陽花の花に似ていた。

 傘の陰からは若い女性の横顔が見える。口元を緩ませ、なんだか機嫌が良さそうだ。この和傘の君は僕が雨の日に買い出しに出かけると大抵遭遇した。今時和傘なんて珍しいものだから、雑踏の中で一際注目の的になるのだ。

 その時、びゅうと強い風が吹く。

 あまりの強さに僕が持っていた傘はぐんと引っ張られていく。目を細める中で、ばきり、と嫌な音を耳にする。

「あ」

 和傘の君が声を上げたのもつかの間だった。

目の前で艶やかに咲いていた一輪の紫陽花は、見る影もなく萎れてうなだれた。強風に煽られて骨が折れたのである。

 冷たい五月雨がびしゃびしゃと彼女の頭に浴びせられた。

 それを見た途端、頭で考えるより先に、体が動いていた。

「大丈夫ですか」

 僕は彼女に駆け寄り、安っぽいビニール傘を差し出す。

「あ、ありがとうございます」控えめな声で彼女は言った。

 彼女が立ち上がるのを待って、そろって軒先に避難する。和傘の君が傘や服の水滴を落としている間、軒下から雨のスプリンクラーを見つつ、僕はじっと思案に耽った。

 それにしてもこの先彼女はどうするか。今日の雨は長く続く。確か天気予報では九時までと言っていたか。このまま雨雲の下に女性一人を置いて行くわけにもいくまい。

 と、ふと思い立つ。

「ご自宅はお近くですか?」

 彼女は首を振る。

「あの、もしよければ近くの駅までご案内しますが。そこなら傘が売っていると思うので」

 和傘の君は少し考えた後、

「ありがとうございます。お願いしてもよろしいですか」と軽く頭を下げた。

 相合い傘など小学生以来、親以外では初めてだ。しかも縁と呼べる縁も無い女性とだなんて。なんだか緊張してどぎまぎした。

 傘を盾に人混みを縫う。彼女は手に持った折れた傘に目を向ける。

「和傘の骨って今の傘と違って真っすぐなので、風にはあまり強くないんです。大丈夫かと思ったんですが」

「さっきの風強かったですからね。折角良い色をしているのに」

「はい。私も気に入ってたんですが……新しいのが来るまでしばらくビニール傘ですね」

 段々と人の密度が増していく。和傘の君は首をゆるゆると左右に動かす。

「すごい人がいっぱい……レイニーセールって本当、商売上手ですよね」

「あなたも買い物に?」

 すると和傘の君は意外な言葉を口にした。

「いえ、私は単なる散歩です」

 思わず目を丸くする。

「散歩、ですか」雨なのに?僕には彼女の言葉が不可解でならなかった。

「ええ。他の人からは良く変わった趣味だって言われます」彼女はぎこちなく笑みを浮かべる。

「でも雨って、晴れの為にあるわけじゃないでしょう?寒くて濡れるから憂鬱っていうのも分かるけど、雨が傘を叩く音とか、暗い天気でも綺麗に咲いてる花とか、そういうちょっとした事がなんかいいなって思えるんです」

 ぽつんと心の奥に一つ、雫が落ちた気がした。

 雨が降ると、何だか憂鬱だ。濡れるのは嫌だし空気も雲もどんよりしてる。晴れやかな気分になんかちっともならない。

 それでも何かささやかな幸せを見つけて、ほんの少しだけ微笑む事が出来たなら。

 和傘の君が不意に呟く。

「あ、駅」

 道の端に、地下鉄の下り階段が見えた。

「それじゃあ、これで。わざわざありがとうございました」

 和傘の君は雨のカーテンの向こう側へ降り立つ。

「いえ、とんでもない」と僕は首を振り、忘れずにそれと、と付け加える。

「あなたの趣味、素敵だと思います」

 彼女は一瞬目を見開く。

「そう言ってくれる方は初めてです」

 和傘の君は一礼して階段を降りて行く。水が滴る和傘を持って。僕はそれを見えなくなるまで見送った。

 別れ際に見た、彼女の微笑みが脳裏に残っている。それは晴れよりも、虹よりも温かな笑みだった。

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今日、ハレヤカであるように 日出詩歌 @Seekahide

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