第50話 side:響子

 何度も夢に見た。

 それは、どんなに望んでも訪れなかった未来。

 

 四月。

 入学式も終わり、新しい生活に戸惑いながらも、何とか馴染もうと努力している頃。

 家に帰ると、玄関には大きな男物の靴が二足。

 一足は乱雑に脱ぎ捨てられ、もう一足は綺麗に整えられている。


(雲野くんだ!)


 胸躍り、顔がにやける。

 けれど、何とか顔を取り繕って、深呼吸。

 そうして、平静を装い、洗面台で手洗いうがい。何食わぬ顔で、居間へと向かう。


『ただいま……あ、雲野くん』


 思った通り、壮介がいた。

 居間のテーブルの椅子に、大吾と対面で座っている。


『おかえり。あ……』


 壮介は立ち上がり、響子の姿をまじまじと見つめた。


『もう、すっかり高校生なんだね。制服、似合ってる』


 わずかに目を潤ませながら、壮介は微笑んだ。


『中学と大して変わらんだろ。セーラーでもあるまいし』


 大吾は欠伸を噛み殺しながら、響子を見ようともしない。

 確かに、高校の制服は飾り気のない紺色のブレザーとスカートで、中学時代と見た目にはそう変わらない。だが、響子にとっては全く別物だ。スカートのプリーツの数が格段に多いし、何より真新しいのだ。


『そうだ。一緒にお茶なんてどう? お菓子があるんだ』


 壮介は隣の椅子を引き、響子を招く。


『そうそう。入学祝いにホールのケーキだそうだぞ。有難く思えよ』


 大吾が踏ん反り返って、ニヤリと笑った。

 自分が用意したかのような態度に、響子はむっとしながらも、いそいそと壮介の隣の椅子に近寄った。


『わぁ……すごい。こんな豪華な』


 テーブルの上には、特大のホールのチョコレートケーキ。

 チョコクリームや削ったチョコレートで綺麗にデコレーションされている。しかも、真ん中に置かれたホワイトチョコレートのプレートには「おめでとう」の文字。


『紅茶もあるよ』


 見上げれば、壮介が優しく微笑んでいる。

 前には、さっそくパン切り包丁を手にしている大吾。


『ありがとう、雲野くん』


 ふわふわと天にも舞い上がるような心地がした。

 嬉しくて、幸せで、こんな素敵なことが起こって良いのだろうかと、思ってしまうくらいに。


『どういたしまして』


 隣には、壮介がいて、その近くにはいつもいらないことを言う大吾がいる。

 年齢を重ねても、変わらないものがそこにあった。

 一方で、確実に胸の中で変わっていくものもある。

 少しずつ、けれど確実に大きくなる気持ち。

 いつか、この想いを壮介に伝えられたら。

 響子は胸いっぱいに温かな何かを抱えて、満たされた気持ちで椅子に座る。


 けれど——こんな未来はただの幻想で、目覚めれば、リアに戻るのだ。


 考えてもどうしようもないことだ。

 それはわかっている。

 後悔しても仕方のないことだ。

 だが、飽きずに考えてしまう。


 あの日、調子に乗って、家電量販店に行かなければ——

 一本でも、電車が違っていたら——

 別の道を通って帰っていたのなら——


 無意味だと知りながらも、考えずにはいられない。

 これから育まれるはずだった想いが、訪れるはずだった未来が、今もどこかにあるような気がして、それを繋ぎ止める手立てがあるような気がして、みっともないと思いながらも、それでも過去に縋ってしまう。


(雲野くん……会いたい、会いたいよ……)


 響子の想いはどこへ行ってしまうのだろう。

 壮介に届かなかった想いは受け止められることなく、ただ消えていってしまうのだろうか。

 夢を見るたび、響子の想いに触れるたび、リアは胸をひどく胸を痛め、涙を流さずにはいられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る