第49話 聖女の浄化
ようやく井戸の縁に辿り着いたときには、衣服全体が濡れていた。
腰までの水が徐々に染み込み、水に浸かっていない上部まで濡らしてしまったのだ。
井戸に近づくごとに悪臭は増し、今や最高潮に気分を害する臭いが漂っている。
それに、汚水もさらさらとしておらず、粘っこく、重い。
それでも、リアは極力異臭を嗅がないように配慮しつつ、折れそうになる心を叱咤しながら、どうにか目的地まで辿り着いたのだ。
生命の水を湛える井戸。
水清めの神殿の存在意義であり、全てである井戸。
リアは水の流れの速い井戸へ手を伸ばし、その縁に掴まった。
そして、ゆっくりと瞼を下ろし、水の音に耳を傾けた。
心が凪ぐイメージを浮かべ、自分の中にある全ての気を中心へと集めていく。
「《——水を統べるヴァシアの神よ、ここに在る全ての水源を浄化し、安寧をお与えください》」
掌に小さな光が生まれた。
生まれ出た白き光は、ゆっくりと水の中に落ち、そこから木の根のように、血脈のように、幾重にも枝分かれし、一気に広がっていく。
汚水の沼に根付くように走っていく光の根は、生命の間に淀んだ全ての水を飲み込み、そして廊下へと流れ出る水流の中にも先を伸ばしていった。
その光景はひどく幻想的で、まるで夢を見ているかのようだった。
瞬く間に広がった光が閃光を放ち、それから力を失ったかのように消え失せていくとき、リアは自分の中からごっそり力が抜け落ちた感覚を味わっていた。
それは、クラウスに騙されて水晶を浄化したときと似ていた。あのときの何十倍もの疲労感があるが。
光が消失すると、生命の間は急激に暗くなったように感じられた。
「リア‼」
駆け寄るゲルトの足音が響く。
あれほど溢れていた水は、光と共に消え去ったようだった。
立ち込めていた悪臭も、邪気も全てなくなっている。
水清めの儀の偉大さを改めて感じていると、体が傾いだ。
井戸の縁に手を置いているのに、その手に力が入らず、体を支えることができない。
(あ、倒れる……)
どこか他人事のような思考が過った瞬間、石床に頭を打ちつける直前に、リアの体を支える腕があった。鍛え上げられた逞しい腕と、その温かく心地良い体温に、リアはほっとする。
「聖女が憎い……」
ゲルトは膝をつき、リアを横抱きに抱き締めながら、首を垂れ、上半身でリアを覆うように背を丸め、震える声で呟いた。
「……え?」
言葉の意味が呑み込めず、リアはぼんやりした頭で問い返す。
「聖女が憎いよ、リア。リアをこんな目に遭わせる、聖女という存在が……俺は憎くてたまらない」
体まで小刻みに震え始めたゲルトの背を撫でてあげたいと思いながら、それすら叶わないほど、リアは力を消耗していた。腕を上げる気力すら残っていない。
だから、代わりに微笑んだ。
力ない微笑みだけれど。
「……私も聖女よ? 私も憎い?」
ゲルトはびくりと体と揺らし、おそるおそるという体で上体を起こし、微笑むリアの顔を食い入るように見つめ、歯を食い縛った。
それから、くしゃっと顔を歪め、揺れる瞳をリアにまっすぐ向けた。
「そう……かもしれない。俺は、リアが憎くて、それで」
ゲルトはリアの首に回した腕を持ち上げ、自分も顔を下に向けと、互いの顔を近づけるようにした。
そして、リアの目尻にいつの間にか浮かんでいた涙を掬い取るように口づけを落とす。
「誰よりも愛おしい」
温かい唇に目元を拭われ、リアはくすぐったくて目を閉じた。
ゲルトの優しさと、愛に抱き締められ、ふわりふわりと浮いているような気分だった。
いつまでもこんな時間が続けばいいと、そう思った。
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