第48話 災厄の源

 そこは永久に清澄な空気で満たされているものだと思っていた。

 過去千年間そうであったように、この先、未来永劫、人々に畏怖と賛美とを抱かせる神聖な場所であると。


 緩やかに流れる川の中に立っていた。


 否、そこは生命の間であり、本来なら水など流れてはいない。

 奥まった場所にある石造りの井戸から濁った水が溢れ出していた。

 ごぼごぼと品のない音を立てながら、黒とも茶色ともつかない水がどんどんと押し出される。

 それはまるで生き物のようだった。


 井戸から絶え間なく吐き出され続ける汚染された水の嵩は、ゲルトの背から降り立ったリアの腰のあたりまであり、それはちょうど井戸の高さと同じだった。





 ゲルトの背に乗り、ついに辿り着いた生命の間は、まるで沼のようだった。

 予想はできていたのに、その有様を見た瞬間、体が凍り付いた。


 穢れを知らず、静かで威厳に満ちていたはずの生命の間は、今や穢れた水で溢れ、邪気に満ちていた。

 差し込む外光で廊下よりは格段に明るいのだが、淀む水のせいか光に影が差すように感じた。

 鼻につく異臭と、漂う闇の気配に、思わず顔を歪める。

 聖女であるリアは、闇や邪の気配に敏感だ。

 光と闇は対を成すもの。

 光の恩恵を受ける聖女は、闇を祓わなければならない。


 ゲルトの陰に隠れていても、身は竦み、吐き気が込み上げてきてどうにか飲み下す。


「リア……」


 気遣うようなゲルトの声にはっとし、リアは怖気づく心を叱咤する。


(ここまで来ると決めたのは私)


 リアは細く息を吐きだすと、ゲルトの肩を叩いた。


「ここで下ろして。自分の足で歩くわ」


 ヴェルタの聖女としてここに来た。

 既にその役目を追われた身であったとしても、ヴェルタの聖女であった誇りがリアに力を与えてくれる。

 わずかに躊躇を見せたが、ゲルトは黙ったまま屈みこんだ。

 リアはするりと背を下り、ぼちゃんと腰まで水に入り込む。

 水は冷たかった。思わず、身を堅くしてしまうほどに。


(ゲルトはこんな中、ずっと私を運んでくれた)


 隣に立つゲルトは、形容しがたい複雑な表情を浮かべ、リアを見下ろしていた。


「ありがとう、ゲルト。ここからは一人で行くわ」


 微笑みかければ、ゲルトは目を見張った。


「俺も行く!」


「でも、いつも水清めの儀のときは席を外してくれていたでしょう? これからするのは水清めの儀なの。いつもより手間取るかもしれないけど……でも、いつもと一緒。だから」


「だから、ここから見ていろと? リアを一人で危険の真っただ中に行かせろと?」


 目を吊り上げ、声を荒げるゲルトに、リアは軽く笑っていなした。


「これは聖女の仕事だから」


「またそれだ! また聖女だ! リア、お前は——」


 リアはゲルトに抱きついた。

 両腕をしっかり彼の背中に回し、ぎゅうと力を入れる。


「ここで待っていて? 大丈夫だから」


 ゲルトは束の間黙り込んでいたが、ゆるゆると腕を上げ、片腕をリアの背に回し、もう片方をリアの頭に当てて、自分の胸に押し当てた。

 ゲルトの指先がリアの髪の中に入り込み、撫でるように動く。


「何かあれば駆け付けて、そのままリアをここから連れ出す。世界が壊れようとどうでもいい。俺は最期の瞬間まで、リアをこの腕の中に閉じ込める。それ以外何もいらない。何も望まない」


 ゲルトは腕の力を緩め、リアの頭に口づけを落とした。

 そして、優し気に細められた深緑色の瞳をリアに向ける。


「行ってこい、リア」


「うん、行って来る」


 リアはゲルトからぱっと離れ、くるりと背を向けると、水をかき分けながら井戸へ向かって進んでいった。

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