第51話 終着点

 水清めの力を相当量消耗したリアは、そのあとゲルトに運ばれ、かつてゲルトの使用していた部屋の寝台に横たえられていた。

 

 リアの使っていた部屋は、短期間だがアンナが使用していたため、ずいぶん様変わりしていたのだ。一方ゲルトの部屋は、ゲルトが出たときのまま未使用だった。

 

 目を覚ましたリアは、開け放たれた窓から眩しいほどの陽光が照っているのを見た。

 初夏らしい風が吹き込み、清々しい気持ちになる。

 傍にゲルトはおらず、リアは一人だった。

 だが、寝台横に運ばれた小卓には水差しと杯がふたつ置かれ、小卓脇に椅子があるところを見ると、ゲルトはしばらくここにいたに違いない。


 リアは体が動くか確認しようと、横たわったまま腕を上げた。

 袖がするりと落ち、白い細腕が露わになる。


「あ……着替えてる」


 モルゲーン屋敷から出たときは身軽なドレスを着ていたのだが、今身に着けているのは、聖女の衣服だ。自分で着替えた覚えはない。


「まさか……」


 無意識に着替えたのでなければ、十中八九着替えさせたのはゲルトのはずだ。

 リアはかっと顔を赤らめ、掛け布団を引っ張り、顔を隠した。

 

 とそこへ、慌ただしい足音と、騒がしい一団が廊下を歩いてくるのがわかった。

 リアは耳を澄まし、取り交わされる言葉の応酬を拾おうとするが、扉が閉まっているので難しい。

 音は扉の前で一際大きくなり、遠ざかる気配はない。

 扉に手を掛ける音がする。


「リアは今——」


 ゲルトの背中が見えた。白い簡易なシャツに、黒い下衣という軽装だ。腰の剣だけは外せないらしく、軽装には不釣り合いだが、しっかり大剣と小剣を携えている。

 部屋を通すまいと立ちはだかるゲルトの前面には、見知った顔がいくつか並んでいた。


「コリンナ、アルバンさん、あら? ベーア神官長⁉」


 リアは滑るように寝台を下りると、ぺたりと座り込んだ。

 出迎えようとしたのだが、足に力が入らない。

 振り返ったゲルトが血相を変えて駆け付け、リアをすかざす横抱きにすると、優しい手つきで丁寧に寝台に横たえる。それから、キッと睨みつけるように、通せん坊がなくなって部屋に入り込んだ数人の訪問客に目を向けた。


「リアは今療養中だ! 話などできない!」


 吠えるように言い放つゲルトに、コリンナやアルバン、ベーア神官長が戸惑うように目配せし、困ったように黙り込む。


「俺の名を呼び忘れるか?」


 低い声が部屋に響いて、リアははじめて扉の脇に背を預ける黒衣の青年に目を向けた。


「クラウス!」


 他の三人と距離をとるように壁際にいたのは、黒髪黒瞳の端正な美貌を持つ青年貴族クラウス・フォン・アーレントだった。

 

 クラウスは腕を組み、歪んではいるものの、悪意のない笑みを浮かべ、リアを見つめていた。


「俺の姿が目に入っていないっていうのが癪に障るが。まあ、いい」


 クラウスは身軽に影から身を引きはがし、軽やかにリアの元に歩み寄る。

 だが、ゲルトが主人も守る猛犬のように身を屈め、剣の柄に手を当てるので、呆れたように足を止めた。


「無事で何よりだ、リア。それに……さすが聖女殿。その力は伊達じゃない。嵐がぴたりと止まり、今や夏空だ」


「嵐は——」


「去った」


「そう、良かった……」


 微笑んで見せれば、クラウスは目を見張り、すぐに頬を緩める。


「たまらないな。本来であれば、すぐにでも連れ去るんだが……どうやら無理らしい」


 クラウスは目を伏せ、短く息を吐き、やがて諦観の混じった笑みを浮かべた。

 その手は落ち着かなげに自分の黒髪の先をいじる。


「待つよ、リア。俺はお聖女の役目を下りるまで、お前の帰りを待つ。今回のことでかなり消耗したろうし、きっとその日は近い」


 言って、クラウスはさっと駆け出し、ゲルトの立つ反対側から寝台に飛び乗り、リアの頤をつまむと、その白い頬にさっと唇を当てた。

 あまりに一瞬のことで、ゲルトも咄嗟に動けず、リアも、その場にいた訪問客たちも皆一様に成り行きをただ見ていることしかできなかった。

 燃えそうなほど熱いクラウスの口づけに、リアは目を見開いて固まった。


 すかさずゲルトは寝台を飛び越え、クラウスの首元に抜き去った小剣を突きつける。

 その目には浮かぶのは獲物を仕留めることに躊躇なく牙を突き立てる獣のそれだ。

 だが、刃を突きつけられたクラウスは、涼しい顔で、その鈍く光る小剣を指で弾く。


「聖騎士、リアが聖女である間はお前を許そう。だが、気が変わった。俺がリアを娶るとき、お前はお払い箱だ。妻に愛人など不要。俺だけで十分だ」


 試すような瞳を向けられ、ゲルト間ますますいきり立つ。


「リアがお前と婚姻を結ぶ前提で話を進めるな!」


「俺はな、今まで欲したもので手に入れられなかったものはない。妻とて同じだ」


「リアを物扱いするな!」


 睨み合う二人の話に割って入るように、コホンという咳払いがした。

 それはベーア神官長のものだ。

 白いふさふさの髪に、鼻の上にちょこんと乗った小さな丸眼鏡。恰幅の良い体に、人の良い顔。物腰も柔らかで、リアの慕っていた前任の神官長だった。現神官長に役職を譲ってからは、彼の生家で畑を耕して暮らしていると聞いていたのだが。

 

 神官長服を身に着けたベーア神官長はもう一度咳払いすると、寝台近くまで進み出て、恭しくお辞儀した。


「聖女様、ご無事でなによりです」


 リアは力の入らない体で何とか居住まいを正す。といっても、起き上がろうとしたら力が抜け、素早く伸びてきたゲルトの腕に助けられたのだが。


「ベーア神官長、どうしてここに?」


 引退したはずのベーア神官長が神官長服を着ている。

 ということは、現神官長の立場はどうなるのだろう。

 混乱する頭でベーア神官長を見つめていると、神官長はおもむろに膝をつき、首を垂れた。


「この度の大災厄をお退け下さり、感謝しかありません。あなた様がいらっしゃらなければ、この地は沈んでいた。全ての民が洪水で流され、命を落としたでしょう。この地に住まう全ての民に代わり、御礼を申し上げる」


「いえ! お顔を上げてください」


 神官長が地に額を擦り付けんばかりに頭を下げるのが居た堪れず、リアは必死で懇願するが、神官長は頭を下げたまま言葉を続けた。


「神官長アショフは姿を消しました。神官たちが言うには、生命の水が濁ったのを見、血相を変えて逃げ出したと。そして、偽りの聖女アンナ・バーレの処遇ですが、一時教会預かりとなります。クラウス様からは、この神殿に多額の献金をいただくことが決まりました」


 驚いてクラウスを見れば、クラウスは眉を上げ、視線を逸らす。


「俺なりの罪滅ぼしだ。このあと周辺を隈なく調査し、被害の出たところには相応の対処をする。約束する」


「信じられるかっ!」


 吐き捨てるように言うゲルトに、クラウスは苦笑した。


「今は信じてくれなくていい。今後の行動から、俺の誠意を感じてくれ」


 クラウスはそれだけ言うと、颯爽と皆の脇を横切り、開いた扉に手を置いて、肩越しに振り返る。


「しばらくは忙しい。だが、落ち着いたら必ず来よう。またな、リア」


 顔を前に戻すと、クラウスは手をひらひらと振ってから部屋を後にした。

 それを見たアルバンはコリンナに目配せをしてから、さっと頭を下げ、翻るようにしてクラウスの後を追った。


「聖女リア様。こんな愚かな我々を再び導いてくださるか?」


 ゆるりと立ち上がったベーア神官長が、小さな青い目でリアを見つめている。

 リアは優しく微笑み、こくりと頷いた。



 

 ベーア神官長が退出してから、コリンナはようやくリアの寝台までやってきた。

 リアの手を握り、コリンナは心底安堵したような笑みを浮かべた。その頬には涙の伝った跡がある。よく見れば、目の周りや鼻の先が赤い。泣いていたようだ。


「リア様、本当に本当にありがとうございます! でも、でも……正直に言わせていただければ、とっても寂しいですわ! リア様のお世話をするのが私の仕事でしたのに! クラウス様も、あんなに変わられて。狐につままれているような妙な気持ちです。でも、女癖が良くなり、性格さえ丸くなれば、クラウス様は有能な美丈夫で在らせられますわ。きっと幸せにしてくださいます……? あぁ、でも、リア様にはゲルト様がいらっしゃったんですものね……」


 最後の方が尻すぼみになったのは、ゲルトの凄まじい形相を見たかららしかった。

 コリンナはお休みをもらったら遊びに来ると言い置いて、クラウスの馬車で神殿を後にした。


 ふたりきりになったリアとゲルトはどちらともなく顔を見合わせ、リアは小さく微笑み、ゲルトは眉を寄せ困ったように息をついた。


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