第46話 side:ゲルト1
ある日、桶に張った水鏡に自分の姿を見たとき、ゲルトは妙な違和感を覚えた。
まだ幼児といって差し支えない頃のことだ。
(これが僕?)
蜂蜜色のふわふわした髪に、深い森のような緑色の大きな目。ふっくらした白い頬に、まるで女の子のような可愛らしく、天使のような子供の顔。
ついつい頬に手を持っていき、摘まんで引き伸ばしてみる。
桶に浮かべるはずだった葉っぱの船を床に置き、ゲルトは両手で顔のあちこちに触れた。
(僕って、こんなに幼かった? ふにふにしてた?)
ゲルトは眉を寄せ、頬を膨らませた。
(何だか、変だぞ。僕は……僕は)
可愛い顔をみるみるうちに険しくし、ゲルトは腕を組んで小首を傾げた。
ふと目を周囲に転じれば、見慣れた部屋なのに、どこかよそよそしい気がした。
——雲野くん、みてみて! これお兄ちゃんが描いたリンサガの主要メンバーの絵! どれが誰なのかさっぱりだよね! 絵心のなさが証明されちゃった。
ふいに少女の声が聞こえた気がして、ゲルトは背筋を伸ばし、きょろきょろと辺りを見回す。
「誰?」
——雲野くんも描いてみてよ! ここに。
部屋には誰もいない。お父さんもお母さんも窯の前にいるはずだ。
いるはずのない少女の声に、ゲルトは不安気に視線を彷徨わせ、けれど、その少女の声がひどく懐かしく響くことに気がついた。
(僕はこの声を知ってる)
それは大切な誰かの声。
目を瞑れば、届きそうなほど近くで、黒髪の少女が笑っていた。
愉し気に白い紙をひらひらさせ、もう片方の手には棒状の物を持っている。おそらく羽ペンのような何かだ。
(この子は、僕の……僕の大切な人)
そのまま手を伸ばす。
けれど、無情にも手は空を掻くばかりで、少女には届かない。
自分よりもずいぶん年上の少女なのに、妹のようにかわいいと思う。
ゲルトに妹はいないけれど。
ちょうど、村長の孫娘の、ゲルトの一番の友達のようだ。
同い年なのに、年下のように感じてしまう少女。つい守ってあげたいと、何かと手を貸してしまいたくなる、リア。
ゲルトはリアが好きだった。
みんなは不気味がるけれど、銀糸のようなまっすぐな髪も、宝石のように輝く紫色の瞳も。白くて、透き通るような肌も。桜色の唇も。柔らかいほっぺたも。笑うと花が咲いたように優しい気分になれるから、リアは春みたいだと思っていた。
ゲルトは春が好きだった。
ぽかぽかと温かくて、野原には色とりどりの花が咲いて、動物たちも動き出す。
(でも、リアと同じくらいこの子も好き)
目を瞑ると見えた、この黒髪黒瞳の少女が、とても大好きだ。
「きょう、こ……ちゃん」
口から自然と言葉が零れた。
それは、少女の名のようだった。
瞬間、ゲルトの頭の中に、膨大な量の記憶が流れ込んできた。
それは数え切れないほどの帯のようでも、波のようでもあった。
ゲルトは誰かの記憶の潮流に飲み込まれ、そのまま意識を失った。
次に目覚めたとき、ゲルトは全て思い出していた。
自分の前世が、雲野壮介であること。
壮介が、風間響子という友人の妹が好きだったこと。
彼女に告白を控えたその日に、彼女を守るために道路に飛び出したこと。
そして、そのまま命を落としたこと。
「きょうこちゃん……きょうこちゃん……」
ゲルトは胸を抱き締めるように両手を当て、泣いた。
両親が寝台に移してくれたらしく、自分の寝台の上だった。
夕刻を告げる橙色の光が、分厚く、透明度の低い窓を通して入って来ていた。
住処へ戻る鳥の声が聞こえる。
「きょうこちゃんは、無事だった?」
最期に見た響子は、虚ろな目だった。血の海に横たわっていた。
それでも、希望はある。
奇跡的に命を繋いだ可能性はあるのだ。
「きょうこちゃん……」
会いたかった。
好きだと、大好きだと伝えて、この胸に抱き締めたかった。
その柔らかそうな頬に触れ、唇を重ねてみたかった。
他の誰にも彼女を渡したくはなかった。
けれど——それは叶わぬ夢なのだろう。
ゲルトは明らかに日本でない場所で、三歳児のゲルトとして生きている。
エデルの村の、嫌われ者のパン焼き職人の息子として。
響子には届かない。この想いも、この手も。
絶望にも似た暗い気持ちが心を支配した。
だが、リアの存在がゲルトを救った。
水清めの聖女として生きることを望まれ、おそらくその道に入るだろうリア。
どこか響子と重なるリアを、ゲルトは大切にした。
領主に優遇されたパン焼き職人の息子だからと、ゲルトを白い目で見ないリアを。
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