第45話 思い出の中の、大切な日
「……そういえば、あの日も負ぶわれてたよね」
頬に触れる、しっとり濡れた蜂蜜色の髪に、リアは昔のことを思い出していた。
正直、思い出話をしているような状況ではないが、リアの脳裏には幼い頃、ゲルトに負ぶってもらった記憶が蘇り、つい口に出していた。
「あの日?」
背中を通して、ゲルトの声を感じる。
あの頃に比べ、ゲルトの声はずいぶん男らしくなった。
身長も伸び、体格だって逞しくなった。
ふわりとしていた蜂蜜色の髪は、見た目こそ変わらず、癖も同じだが、太くごわごわしている。
けれど、密着した肌から感じる温かさや、なぜか頭から草木の香りがするのは変わらない。
そのことがわけもなく嬉しい。ほわりとした気持ちになる。
「森で私が顔面から転んだ日。ゲルトが心配しておんぶしてくれたんだよ。覚えてない?」
擦り剥いた箇所がひりひりしたこと、打ちつけたところが鈍く傷んだこと、可愛い顔のゲルトが泣きそうだったこと、そして——自分の前世が響子だったと知ったこと。
それがありありと思い出されて、ふいに胸が締め付けられた。
(雲野くん……)
前世の初恋の人のことなど思い出す時ではない。感傷に浸っている場合ではないのに、なぜか無性に彼に会いたかった。
「覚えてるよ。ちゃんと覚えてる」
ゲルトは噛み締めるように言って、軽く笑った。
「あの日は俺にとって、大切な日だから」
「大切な日?」
リアにとっては確かに特別な日だった。
ゲルトにとっても何か特別なことがあったのだろうか。
次の言葉を待っていると、ゲルトはリアを抱え直す。
「あの日決めたんだ。俺は絶対に……リアを離さないって」
リアは目を瞬いて、ゲルトの顔を覗き込もうと体を乗り出すと、ゲルトはふいっと反対方向を向いてしまった。
「どういうこと?」
「リアはそこまで鈍いのか」
苦笑するゲルトに、リアは絶句して、手を緩め背筋を伸ばす。
とたん後ろに転げ落ちそうになって、慌ててゲルトの首に手を回す。
(じゃあ、離さないっていうのはやっぱり……)
負ぶわれている今、文字通り落とさないように、手を放さない、緩めないという意味かとも思ったのだが、ゲルトの声音から妙な決意を感じたし、そこに甘さのようなものも含まれている気がして、もしかしたらとは思ったのだ。
だが、さらりとそんなことを言うだろうかと考え直し、思考を放棄したのだが。
(恋愛的な意味ってことなの?)
今思えば、ゲルトには二度も(厳密には数え切れないほどだが)口づけされている。
——好きだよ、リア。愛している、ずっと、ずっと前から。
小屋での一幕を思い出し、リアはぼっと顔を赤らめた。
(そうだった! 溺れた後だから頭があんまり働いていなかったけど、ゲルトはかなり直球で愛の告白を!)
家族的なものだと思っていた。友情からだと思っていた。
今まで行われたゲルトの献身や愛情表現は、全てそういったものから派生する行動なのだと。
けれど、もし違うのだとしたら。
全てが、恋情からの行動だったとしたら。
ずっと一緒にいると言ってくれた。
リアを一番大事だと言ってくれた。
髪を梳き、何かと世話を焼き、寝入るまで見守ってくれていた。
あらゆるものから守るため、常に傍にあろうとしてくれていた。
これらが全て、恋故の行動だとしたら——
リアの鼓動は早鐘を打ち、手が震えた。
体中が火照り、特に顔と耳は真っ赤だ。
このとき、リアは初めてゲルトの想いを本当の意味で理解した。
自分を鈍いなどと思ったことはなかった。
リアとしては恋愛と程遠い生活を送っていたが、前世の響子は普通に異性と接し、恋だってしていた。友達の恋愛の相談にも乗ったし、応援もした。鈍いなどと言われたこともないし、自覚したこともない。
だが、ゲルトの今までの言動や行動から、恋情を感じ取れなかったのだとしたら、鈍いと言っても過言ではないのではないだろうか。
様々な思いが去来し、その処理で脳内が手一杯になっているとき、足先にひやりとしたものがつき、はっと意識が現実へと向いた。
下を見れば、ゲルトの足の付け根辺りまで水がある。
驚いて先を見ると、緩やかだが川のように水が流れてきている。
「ゲルト!」
「ああ。どうやら、予想通りらしいな」
暗くてよく見えないが、水は清らかとは言い難い色をしていた。
まるで泥水だ。
鼻をひくつかせると、水の匂いとかすかな悪臭を感じる。
「しっかり掴まってろ。そろそろ生命の間だ」
ゲルトはリアを抱え直すと、足を大股にし、ゆっくりゆっくりと流れに逆らって進んでいく。
リアはそれまで考えていたゲルトのあれこれを頭からどうにか追い払い、暗がりの廊下に、強い意思の宿る瞳を向けた。
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