第44話 水清めの神殿

 ぬかるんだ暗い道を青毛の馬が駆けていく。

 文字通り天が味方したかのように、霧雨とぬるい風がそよぐ程度で、道中はずいぶんと楽だった。


 ふたりが水清めの神殿に辿り着いたのは、空が白み始めた頃。

 灰色の雲が空を覆いつくしてはいるが、朝になればそれなりに明るい。

 夜通し二人の人間を運んでくれた青毛の馬——速影は驚くほど優秀で従順な馬だった。

 疲れただろう速影を、神殿傍の厩に誘い、たっぷりの飼料と水を用意した。

 霧雨とはいえ、長時間浴びていれば衣服も濡れる。


 リアとゲルトはゆるやかな坂を上り、神殿の扉の前で羽織っていたローブを脱いだ。

 扉の上には屋根がせり出していて、通常の雨ならば雨宿りできるのだが、風で飛んで来る細かい雨はそうはいかない。


 リアとゲルトと目を合わせると、どちらともなく頷き合い、懐かしく感じる重厚な樫の扉を細く開けて隙間を作ってから、全体重をかけて押した。ぎいという耳障りな大きな音と共に、扉は開く。

 

 中は、異様なほどしんとしていた。

 ぴんと張り詰めたような緊張感と、静謐な空気はいつもと同じようにも感じるが、明らかに何かが変だ。

 しいていえば、薄気味悪い。


 冷たく澄んだ空気を鼻から吸い込み、リアはにわかに咳き込んだ。


(何だろう……いつもと違う?)


 何が違うのかと問われれば、正確に答えることはできない。

 けれど、明らかにリアの知っている神殿とは違う。そんな気がする。


「神官たちはどこだ?」


 ゲルトが髪から滴る水を袖口で払いながら、訝し気に目を細めた。

 入ってすぐ、円形状の広間になっており、灯り取りの窓からぼんやりとした光が入り、外よりは薄暗いが、燭台がなくても十分見通せる。

 

 広間には、三方向に長い廊下が伸びていた。

 常ならば、この廊下のどこかしら足音を極力殺しながら、忙しなく行き来する神官の姿が見えるのだが、今は人っ子一人見当たらない。

 だが、人を探している場合ではない。


 リアはゲルトの手を引き、ずんずんと真正面の廊下へと突き進んでいく。

 目指すのは、生命の間だ。

 広間と違い窓のない廊下はかなり暗かったが、長いこと住んでいた場所である。多少見えなくても、道はわかる。冷たい石の床がふたりの足音をどこまでも反響させた。


「リア、何だかおかしい。水の音がする」


 リアと入れ替わるように前に出ていたゲルトは耳を澄ますように顔を巡らしてから、不安げに眉を寄せ、足を止めた。突然立ち止まったゲルトに咄嗟の反応ができず、リアはゲルトの肩口に額をぶつけた。


「水の音?」


 言われてリアも耳に神経を集中させる。

 ごぼっ、ごぼっという不気味な音を認識し、リアは身震いした。


「何だろう……お湯が煮立って、泡が湧き出してくるような?」


 どこか不吉な気配を漂わるそれは、先へ進むことを躊躇させる不穏な音だった。


「危険かもしれない。ここまで来ても、神官たちの姿も見えない。奴らは逃げ出したのか?」


 怜悧な瞳を暗い廊下の先に向け、ゲルトは低い声で言った。


「逃げ出した?」


「そうだ。危険を察知して、我が身可愛さに、神殿を捨てたんだ」


「それはまだわからないよ」


「そうに決まってる。あいつらのやりそうなことだ」


 ゲルトは厳しい顔で振り向き、繋ぐ手に力を込めた。


「リア、俺たちも逃げるか?」


「ここまで来て?」


 クラウスの愛馬を借り、夜通し走って来た。思いの外、楽な旅だった。だが、容易だったわけではない。道はぬかるみ、池になっているところもあった。霧状とはいえ、雨は止まなかった。


「ここに来るまで何も知らなかったんだ。実際に危機を目の当たりにして、逃げることは決して卑怯じゃない。どうする、リア」


 問いかける深緑色の瞳を見返し、リアはぎゅっと手を握り返しながら、首を横に振った。


「行こう、生命の間へ。何ができるかわからないし、何もできないかもしれないけど、行かないという選択肢はないよ」


ゲルトは口を閉じたままじっとリアを見つめていたが、やがて諦めたように息を吐きだした。


「言うと思ったよ。わかった。じゃあ、俺の背中に乗れ」


 言ってゲルトは繋いだ手を放すと、リアの前に背中を向け、しゃがんで見せた。

 いきなり背を向けられたリアが目を見張っていると、ゲルトは床を指さした。

 吊られてリアも目を向ける。

 暗くてほとんど見えないが、石床は濡れているようだ。しかもよく見れば、石と石の間の溝を、ちょろちょろと水が流れている。


「え⁉ 水⁉」


「奥から水が流れて来てるらしい。先に行けば行くほど水嵩が増えそうな気がする」


「もしかして、生命の水が流れ出て……?」


 井戸の縁ぎりぎりに張った水面は、確かに何かの拍子に溢れ出そうだと思ったこともあったが、一度だってそんなことはなかった。


「滑りやすいだろうと思うし、水位が上がれば進むのも容易じゃない。だから、俺がリアを連れて行く。お前の足になるよ」


「でも……」


「早くしてくれ、この体勢も結構きついんだ」


 束の間、躊躇して、けれど心を決め、リアはゲルトの背中に負ぶさった。

 リアの体を支えるために腕を背後に回したゲルトは、軽々と立ち上がり、暗い廊下を再び進み出す。

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