第25話 はじめての口づけ

 瓶は呆気なく粉々に飛び散り、リアの衣服の裾にも破片が付着する。注意深く見て、縄を切るのに良さそうな破片を取り上げ、再びゲルトの元に戻る。

 

 ゲルトの肌を傷つけないように、自分の掌も切らないように、細心の注意を払いながら、リアはどうにか全ての拘束を解いた。


「ゲルト、全部解けたよ。立ち上がれる?」

 

 無邪気な微笑みを浮かべたゲルトに不安になりながらも、リアはその頬に手を当てた。

 ざらついていて、ひんやりした肌に、胸が痛む。

 頬を温めるように手を当てていたリアだったが、いち早くこんな場所から連れ出さなければならないと立ち上がりかけたそのとき、リアの手にゲルトの手が重なった。


「ゲルト?」


 驚いてゲルトを見れば、彼は更に笑みを深くした。

 そして、もう片方の腕をリアの背に回し、ぐっと引き寄せた。

 体勢を崩したリアはゲルトの胸に飛び込む形になる。

 急いで態勢を立て直そうとするも、ゲルトの両腕がリアをしっかり抱き寄せる。


「ゲルト、どうした……」


 顔を上げ、目を瞬かせるリアに、ゲルトは優し気な表情のまま額を寄せる。

 ふたりの額がこつんとぶつかった。


「会いたかったよ、リア」


「ゲルト、近い」


「会いたくて、会いたくて、仕方なかったんだ」


 唇も触れるほど近くから紡がれる甘い言葉に、リアは目を見張った。

 今まで、ゲルトからこんな台詞を聞いたことがない。

 そもそも、ゲルトと離れたことなどほとんどないに等しく、「会いたかった」などという言葉を掛けられることなどあるはずもなかったのだが。


(相当衰弱してるんだ)


 言葉選びもだが、どこかあどけない子供のような声音に、リアはひやりとしたものを感じる。見た目には痩せたようには見えないし、五体満足だ。けれど、見えないところで、体は弱り、精神も相当参っているはずだ。

 人の寄り付かない森の小屋に三日間も閉じ込められていたのだから。


(お医者様に診てもらわないと)


 コリンナに言えば、呼んでもらえるだろうか。


「ゲルト、肩を貸すから、ここを出よう」


 リアはゲルトから距離をとろうと起き上がりかけたが、ゲルトは腕を緩めない。

 それどころか、ますます腕に力を入れる。


「ゲルト」


「リア」


 おもむろにゲルトは顔を引いた。

 深緑色の瞳がきらりと輝くのが見える。

 ゲルトは眩しそうに目を細めた。

 そして、ゲルトの顔は徐々に近づいて来て、リアは思わず目を瞑った。


(……っ!)


 唇にひんやりした柔らかいものが触れた。

 目を見開き、咄嗟に身を引こうとしたリアの後頭部に、ゲルトの手が回り、逃げ場を塞がれる。

 束の間、離れたと安堵すれば、またすぐに唇が重なり、強く押し付けられる。

 何度も、何度も。数えるのも馬鹿らしいほどに。

 合間に漏れるゲルトの甘い吐息が耳に届くと、激しい羞恥が湧き上がり、リアはぎゅっと目を瞑った。

 重ねられる口づけに呼吸も儘ならず、心臓が煩いほど脈打っている。

 現状に全く着いて行けず、頭の中が真っ白だ。


(ど、どうして⁉)


 カーっと頭に血が上り、体が硬直してしまう。

 けれど、ふいに首筋に冷たい刃物を突き付けられたような感覚が襲ってきて、リアは両手をゲルトの胸に押し当てた。ゲルトの腕から、その唇から逃れたい一心で、強く突き放す。


 ——聖女は清らかでなければならない。


 ヴェルタの聖女になると確信していたリアは、幼い頃からその言葉を何度も反芻してきた。身も心も清らかであること。それが聖女になるための必須条件だったのだ。

 水清めの聖女に限らず、どの聖女もそれは変わらない。

 だから、リアは異性と口づけなどしたことがない。


 もちろん、亡き両親や祖父母の頬にしたことはあるが、それとは話が違う。

 聖女の条件とは直接関係ないが、前世の響子だって異性とキスしたことなどない。片想いをするばかりで、付き合った経験もなく、この世を去ったのだから。


 口づけが禁忌であることは、もちろんゲルトも知っていた。

 口づけどころか、抱擁すらもゲルトはしないよう気を付けてきたのだ。

 

 転びそうになった時に体を支えたり、喜びを分かち合うときに抱き合ったことは確かにあるが、そこに不純な動機はない。

 だが、抱擁はなくとも、肌に触れたり、手を握ったり、そういうことはあったし、禁忌とは考えていなかった。そもそも全く接触しないなど無理だ。


(どうしよう、私……聖女失格だ)


 ようやく逃れた場所で、リアは自分の唇に震える指先を当てた。

 ふいに、クラウスの漆黒の瞳を思い出す。そして、彼がリアを呼ぶ呼び方を。


 ——元聖女殿。


(そうだ、私、そもそも聖女じゃないんだった)


 リアはふっと口元を緩め、それからゲルトを見た。

 放したときそのままの形で腕を広げ、ゲルトは不思議そうに顔を傾けて、リアを見ていた。


(きっと、混乱してるのね)


 リアはゲルトの傍に寄り、両手を優しく包み込む。


「ゲルト、戻ろう?」


「うん」


 ゲルトはにこりと笑って、リアの頬に自分の頬を寄せた。

 

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