第26話 救出と戸惑い

 清潔な白いシーツの上、ゲルトはあどけない表情で眠っていた。

 頬に掛かる蜂蜜色の髪は乾き切らずまだ湿っぽい。小屋で薄汚れていた肌はすっかり綺麗になったが、頬骨や顎のあたりに擦ったような傷があった。

 そっと指先で傷に触れ、リアは痛ましげに顔を顰めた。


「リア様、椅子にお座り下さい」


 気遣わしそうにおずおずとそう言って、コリンナは寝台脇に椅子を運んできた。


「ありがとう」


 コリンナに口だけ微笑んで見せて、リアは腰を下ろす。


 ゲルトを小屋で見つけてから数刻程経つ。

 足取りもおぼつかないゲルトの肩に手を回し、どうにか小屋を出ようとしたところへ、コリンナが宝物庫の番をしていたアルバンを伴って急いでやって来たのだ。


 アルバンと共にゲルトを支えながら、リアは屋敷へ急いだ。

 コリンナが走り回ってくれたおかげで、すぐに医者に診てもらい、湯あみをすることもできた。身なりも整え、温かくて栄養満点かつ消化に良い薬草粥を数口食べたゲルトは、程なくして眠りについた。

 

 白い髭を蓄えた人柄の良い医者の言うところでは、何かしらの薬を飲まされ、意識が混濁していたのだろうとのこと。とりあえずは様子を見るということになり、医者は帰って行った。

 

 手足を縄で拘束され、外側から鍵がかかっていたとはいえ、ゲルトは訓練を受けた騎士だ。

 剣が奪われていようとも、逃げ出すことくらいできたはずだった。

 それをしなかったのは、クラウスにリアを盾にとられたからだと思っていたのだが、そもそも薬を盛られ、肉体的に動けなかったからのようだ。


(何で、こんな酷いことをするの?)

 

 拷問を受けていないことだけがせめてもの救いだ。

 否、命が奪われなかったことこそが何よりも僥倖だった。

 正式な裁判など待たずとも、刃を向けた相手を切り殺したところで罪にはならないだろう。それも身分が高いのはクラウスの方なのだ。ゲルトはどんなに罰されても文句は言えまい。

 

けれど、納得はいかない。数日前まで、リアとゲルトをおびやかすものなど何もなかった。神殿の中で、穏やかな日々を送っていたのだ。聖女になる前だって、村でごく平凡な幼少期を過ごして来たに過ぎない。だのに、急に命の危機にさらされるような場所に放り込まれてしまった。まだ気持ちが追いつかないのだ。


(何て所に来てしまったの)


 逃げればよかったのだろうか。

 ゲルトが逃げようと言ったとき、全てを捨てて、その手を取ればよかったのだろうか。

 そうすれば、少なくともゲルトはこんな目に遭わなかった。


 膝の上で堅く手を握り合わせながら、目を伏せ、歯を食い縛る。


「あの、リア様。お食事、こちらに置いておきますね」


 いつの間に取って来たのか、コリンナが昼食を小ぶりの円卓に置いた。

 既に昼食には遅い時間だが、用意してくれたようだ。


「ありがとう。コリンナも休憩して? 私はゲルトについているから」


「で、でも……」


「目が覚めるまでついていたいの」


 微笑んで見せれば、コリンナは困ったように頷き、頭を下げるとそそくさと部屋を後にした。バタンと扉が閉まると、そこには気持ちよさそうな寝息を立てるゲルトと、リアの二人だけになる。


 ここはゲルトに割り振られた部屋で、リアの隣室だ。

 よくクラウスが許可したものだと、当初、これだけは感謝しても良いと思ったくらいだったが。

 今はそんなことを考えた自分が憎らしい。

 リアとゲルトの部屋はもともと客間だったらしく、立派な天蓋付き寝台に、書き物机や鏡台などが一通り揃っている。


 何のわだかまりもなければ、素敵な部屋だと思う。上質な調度品が揃い、上品な空間であるここは、庶民であったリアからすれば、憧れを抱くような場所だ。


 だが、今はそんな緊迫感のないお客様気分ではいられない。


 この屋敷はおろか、そこにある全てはクラウスの物なのだ。

 そう思えば、どんなに素晴らしい調度品や快適な居住空間だったとしても、気持ち良く受け入れることはできない。


 一見、洗練されたこの屋敷は、明らかに敵陣だ。

 そこでゲルトは傷を負った。浅慮なリアのせいで。




「リア、大好きだよ」


 食事を終え、寝台に横になったとき、ゲルトは締まりのない笑みを浮かべ、リアの手を握った。

 あまりに直球な告白に、リアは目を丸くした。

 今まで好きだと言われたのは、手先の不器用なリアが刺繍に挑戦し、敢え無く敗北を期した時に、「まあ、俺はそんなリアも好きだけどな」と引き攣り気味に苦笑していたときくらいだ。


 固まってしまったリアを不思議に思うこともなく、ゲルトをリアの手を引いて、その甲に頬を擦りつける。


「誰よりも大好きだよ、リア」


 うっとりするようにそう言って、ゲルトは手の甲に唇を寄せた。

 思わず引き抜こうとして、けれど、ゲルトが愛おしそうにリアの手を包み込んでいるのを見て、踏みとどまった。


「まるで子供のようですね、ゲルト様」


 ようやく満足したようにリアの手を放し、穏やかな顔でゲルトが眠りについたとき、背後に控えていたコリンナがぼそりと呟いた。




 おそらく薬の影響だろうと医者も言っていたが、その薬の名も効用も副作用もわからない今、不安しかなかった。医者の見立てでは、一時的な物だろうということだったが、それも確かかわからない。このまま一生ゲルトが幼子のような状態ということもありうる。


 見た目がどんどん大人の男へと近づいていくゲルトの中身が、幼児のままだったとしたら、リアは正気でいられるだろうか。

 

 幼少期のゲルトでさえ、先程のような幼児めいた口調ではなかった。

 

 ふわふわとした蜂蜜色の髪に、大きな深緑色の瞳、透き通るような白い肌は、女の子のように可愛らしかった。

 実際、女の子に間違えられたこともあったくらいだ。

 だからなのか、ゲルトはわざと男らしい言葉遣いを選んだ。

 一人称だって、「僕」の方が似合いそうなものなのに、「俺」と言っていたし、敢えて乱暴な物言いをすることさえあった。

 

 大きくなるにつれ、可愛らしかった見た目は、徐々に影を潜め、力強い男の子らしい顔つきに変わり、その口調も違和感なく定着したが。


 十七歳になったゲルトは、精悍な顔立ちで、惚れ惚れするほどカッコいい。

 肌は日に焼け、輪郭はしゅっと引き締まり、いかにも騎士といった逞しい体躯だ。

 けれど、そんな中にもまだ少年の面影が残っていて、それが妙ににリアをほっとさせた。

 

 日に日に大人になっていくゲルトに対して、一抹の淋しさを抱いてはいた。だからといって、子供でいてほしかった訳ではない。同い年ではあるが、この先ゲルトがどんな大人になっていくのか、幼馴染として、とても楽しみにしていたのだ。


 そんな中、幼児のような態度をとるゲルトの姿にショックを受けた。


 まだ、リアの知る昔のゲルトに戻るなら、抵抗こそあれ、少なからず受け入れられたかもしれない。

 だが、リアを大好きだと言ったゲルトは、リアの知るゲルトではない。

 ゲルトは一度だって、リアを「大好き」などと言ったことはないのだ。


 もちろん、リアを胸の内では常に大切に思ってくれていることは知っているし、彼の取る言動や行動が全てリアを大切に思うからこそ出るものだとわかってはいた。

友として、または家族のように、ゲルトはリアを好いていた。


 リアは無意識に唇に触れ、ゲルトに寝顔に視線を向ける。

 埃にまみれた薄暗い小屋で起こったことを思い出し、カッと顔を赤くした。

 心臓がどくどくと速くなる。


(あれは……)


 あの口づけは、友としてのものだろうか?


 何度も触れた唇の感触と、合間に漏れるゲルトの甘い吐息を思い出し、リアは慌てたように椅子から下りて、寝台を背に、その場にしゃがみ込む。そして、両手で顔を覆った。耳の先まで真っ赤なのが自分でもわかる。


(まるで、恋人にするみたいだった……よね)


 背中でゲルトの規則正しい寝息を聞きながら、膝を抱え、その上に顔を埋めた。






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