第14話 モルゲーン屋敷

「リア様、どうかなされました?」


 銀の髪を丁寧に梳いていたコリンナが手を止めた。


「え?」


 鏡を通して、コリンナを見れば、不思議そうにはしばみ色の目を瞬かせ、小首を傾げている。


「少しお顔の色が優れないようなので」


「いいえ、大丈夫よ」


 緩く首を振って、リアは微笑んで見せた。

 朝日の差し込む室内は、清々しいほど爽やかな空気で満ちている。開けた窓から入る緑の香りを含んだ風のおかげだろう。屋敷の背面を弓型に囲う森からは、小鳥たちの歌声が届く。

 リアとゲルトがクラウスの屋敷に来てから数日経った。

 あの日、神殿を出発した馬車は、その日の夜半過ぎに目的地に到着した。アーレント伯爵領の中でも西の端に位置する、モルゲーンという土地だ。緩やかな丘陵の上に建つのは、アーレント伯爵の所有する比較的大きな屋敷で、現在はクラウスが住んでいる。

 

 クラウス・フォン・アーレントは、現アーレント伯爵の息子で、その美貌と地位と財力から、好き放題遊び暮らしているという専らの噂である、不肖の息子と噂される人物だった。


 アーレント伯爵には、あと二人息子がいるのだが、自由奔放な三男とは違い、真面目かつ優秀な人物らしく、後継者としては申し分がない。だからこそ、末息子のクラウスには今後担うであろう重い責務などなく、自由気ままに暮らすことができていた。


上二人は同腹で、クラウスだけが後妻の子だったが、その後妻も今は亡き人となり、現在は三人目の奥方を迎えている。その年齢は、クラウスとほぼ同じということもあり、好色で知られるクラウスとしても、顔を合わせにくいらしいと、モルゲーン屋敷の侍女たちは噂していた。

 

 クラウスがアーレント伯爵の不肖の息子だということは知っていたリアだったが、それ以外の情報は全てコリンナや屋敷に勤めるその他の仕事人たちに聞いたことだ。

 

 コリンナは、栗毛の髪をひっつめ髪にして、くりくりした瞳ははしばみ色で、どこかリスみたいな印象を受ける可愛らしい少女だった。リアと同い年で、クラウスがリアの身の回りの世話をとつけてくれた侍女だ。正直、侍女など不要だと言うつもりだったのだが、くるくる変わる感情豊かな表情と、親しみやすい人当たりの良さと、クラウスに対する敵意みたいなものを感じ、出会って翌日には気安い仲になっていた。

 

 クラウスに対する嫌悪感——と呼ぶべき感情は、モルゲーン屋敷で働く多くの人間が抱いている共通の感情だった。

 

 彼らは、人使いの荒さや大胆な散財に関しては許容しているようだったが、我慢ならないのが、女癖の悪さだと言う。


『帰宅する度、違う女性を屋敷に連れて帰るんですよ! しかも、その女性たちの性格の悪さときたら! まるで女主気分なんです! その点、リア様はその人たちとは全違いますわ!』


 女癖の悪さの具体例をさりげなく聞いたところ、捲し立てるようにコリンナがしゃべり続けるので、面食らってしまった。

 クラウスはあらゆる身分の美しい女性を屋敷に連れ込んで、しばらく住まわせるらしい。

 

 そのうちクラウスが女性を伴って外出し、戻って来る時はまた別の女性ということもあるし、女性が突然屋敷を出て行ってしまうこともあるらしい。

 

 その度に、部屋の大掃除や、盗難被害がないかの点検などを隈なく行う必要があり、働き手たちは疲れ果てるという。


『リア様の前にいらしていたのは、アンナ様という方でしたわ! クラウス様に化粧道具をねだって買わせていましたっけ』

 

 クラウスがどう説明したのかわからないが、少なくともコリンナはリアに悪感情を抱いていないようだった。

 今までの女性たちとは全く違うと称され、喜んでよいものなのか複雑な気分だ。

 クラウスが連れてくる女性は皆美しかったそうだから。


『リアは、世界で一番綺麗だと思う』


ゲルトはいつもそう言ってくれるが、それはゲルトの個人的な見解であって、万人が認めているわけではない。


「それでは、お食事をお運びしますね」

 

 コリンナの言葉で、物思いから引き戻され、リアは鏡越しに頷いた。


「ありがとう」


 黒色のお仕着せのスカートをふわりと揺らしながら、コリンナは慌ただしく部屋を辞した。

 本来であれば、食堂にて、クラウスと共にするはずの朝食なのだが、クラウスは夜が遅く、昼近くまで眠っているそうで、個別に部屋でとっている。正直、顔を合わせなくて済むのは有難いが、準備する料理人や侍女たちに申し訳ない。

 

 小さく息を吐いてから、立ち上がる。

 いつも白色に身を包んでいたリアからすると、黒いドレスは未だに慣れない。

 黒一色など、まるで喪に服しているようではないか。

 そうはいっても、リアに宛がわれた客間のクローゼットには、赤と黒のドレスが並んでいて、この二色の中からしか選べないのである。どうやら、屋敷の主の趣味であるらしい。

 ちらと鏡を見れば、紫水晶の瞳が怯えた様に瞬いた。銀の髪が黒いドレスに掛かり、さらりと揺れる。

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