あなたの声

水神鈴衣菜

本文

 今日もウォークマンを持って、街へ繰り出す。あなたがとうとうと好きな作品を読み上げる声。イヤホンから流れる大好きな声は、私の鼓膜を幸せに揺らす。都会の雑踏も、あなたの声にかき消される。


『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか──酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。』


 梶井かじい基次郎もとじろうの『檸檬』。いつも明るいあなたがこの作品を好きだと言った時、納得よりも疑問が浮かんだ。それから納得に落ちた。きっとあなたにも辛いところがあるのだろうと。だからこの作品の暗いところに触れて、好きだと思ったのだろう。私はそうやって納得させた。


『これはちょっといけなかった。結果した肺尖はいせんカタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。』


 あなたの明るい声が、不安定で不気味で、疲れきった文章を読む。それだけでなにか、私にとって惹かれるものがあった。そう、『檸檬』の主人公がびいどろや花火を好きになったように。


『何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。』


 雑然とした都会の風景は、あなたの声がひとつひとつ言葉をなぞる度にみすぼらしい裏通りへ早変わりする。あなたの声は、私をいつも色々なところへ連れて行ってくれたと思い出した。あなたが語る物語は、海の中や空の上、中世の城にだって連れて行ってくれたのだ。


『時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか──そのようなまちへ今自分が来ているのだ──という錯覚を起こそうと努める。』


 私を置いて、あなたはこの世から逃げてしまった。逃げざるを得なかったと言った方が正しい。私はあなたを救えなかった。寧ろ今だって、あなたに救われているというのに。


ねがわくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。──錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。』


 横断歩道が私を留まらせる。声は流れたままだ。もうこの音声も、いつから聞いているのだろう。何年も前にあなたがいなくなって、それからほとんど毎日のように、雑踏をかき消すためにあなたの声を聞き続けている。


『察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ということが必要であった。二銭や三銭のもの──と言って贅沢なもの。美しいもの──と言って無気力な私の触角にむしろ媚びて来るもの。──そう言ったものが自然私を慰めるのだ。』


 * * *


 今日外出した理由は、届いたと連絡の来た本を本屋に取りにいくことだった。あなたが文学が好きだったから、私も必然的に文学が好きになった。とりわけ文豪と呼ばれる彼ら彼女らが織り成す物語が、あなたは好きだった。私も負けじと彼らの物語を読んだ。

「本を取り置いた者なんですが」

 受付に声をかける。はあい、と奥から返事が返ってくる。

「タイトル教えていただけますか」


『始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらかゆるんで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗しつこかった憂鬱が、そんなものの一顆いっかで紛らされる──あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。』


「……お客様?」

「あ、あぁ……ええと、なんでしたっけ」

「取り置いた本のタイトルです」

「ええと……『桜の森の満開の下』です」

「分かりました。少々お待ちください」

 そう言って、店員は下がっていく。その背中をしばらく見つめて、私は視線を自分の足元へと落とした。

 聞き覚えのある声。否、先程まで聞いていた声。大切なあなたの、ずっと私が追っていた声。顔は違う。あなたの顔ではなかった。けれど声は本当にそっくりで、ほとんど毎日聞いている私がそう思うのだから、きっとこの直感は当たっているのだと思った。明るい声。けれど暗いものを好む、あなたの声。

 なぜ、今ここで?

「お待たせしました、こちら商品です」

「あぁ、はい。いくらでしたか」

「六百円になります」

 私はいかにも普通なように鞄の中から財布を取り出し、五百円と百円を一枚ずつ取り出した。

「はい、ちょうどになりますね。カバーはお付け致しましょうか?」

「……いえ、大丈夫です」

「承知致しました」

「あぁ、袋も、大丈夫です」

「分かりました」

 店員はそのまま本を差し出してくる。私はそれを努めてゆっくり受け取る。

「ありがとうございました」

 そう微笑む店員の声は、やはり聞き覚えのあるあの声だった。

 あなたを失って流れが遅くなった私の物語が、再び意思をもって流れ出すような、そんな気がした。

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