始まる数字は0とわん

 平成17年。西暦2005年の冬。


「ねぇ、■■ちゃん! なんで、ダンスを辞めるっていったのよ!?

一緒に大会目指そうって言ったのに……!」


 友人である少女に声をかけた。名前を呼ぶと友人は顔を向ける。表情がわからないが、雫が流れている。


「もう名前を呼ばれたくないからだよ……。ねぇ、お願いだからもうその名前で呼ばないで。……私は■■じゃない。■■なんて自分でも呼べない名前は名前じゃないよ……!」


 悲痛な声でいい、友人は背を向けて走り去った。

 言葉の意味が、この時の彼女はわからなかった。後々から痛感することになる。

 ■■という少女とはダンス教室で一緒になった仲の良い女の子。息のあったダンスをし、周囲から良いコンビと言われるほどに仲の良かった子だ。明るくて優しくていい子。だが、ある冬の日にダンス教室をいった日にやめた。母親と事前に話していたらしいが、コンビを組んでいた彼女からすると裏切りにも等しい。

 彼女は苛立ちを見せながら、声を上げる。


「名前なんて、そんな変わらないじゃない! だから、■■ちゃん!

一緒に」


 手を差し伸ばされた瞬間、友人がどんな表情をしていたのか。この時の顔だけは、はっきり覚えている。絶望して光すらもない真っ暗になった表情だ。


「──っ……! もう、私のその名前を呼ばないで!!」


 勢いよく叩かれ、涙をこぼしながら■■は去っていく。叩かれた手を見て、彼女は「なんなの!」と声を上げる。


「おーい!」


 手を振って母親が迎えにやってきた。リードと散歩用のバッグを手にしており、愛犬のお散歩ついでに来たのだろう。


「お母さん! ミヤコ!」


 彼女は母と愛犬の出迎えに、嬉しそうに駆け寄る。ミヤコも瞳を輝かせ、尻尾を振って駆け出し、母親は引っ張られる。ミヤコはしゃがんで受け入れる彼女の顔をペロペロとなめた。

 娘と愛犬の様子を母親は嬉しそうに笑う。


「今日のご飯は豆天玉よ」

「あっ、私それ好き! やったー!」

「そう! ……あら」


 娘の嬉しそうな返事に笑ったあと、母親は気付く。去っていく■■の背中を見つめて、いつもと様子が違うとわかったのだろう。娘に心配そうに尋ねる。


「ねぇ、■■ちゃんに何があったの?」

「分からない。■■ちゃん。急にダンス辞めるって。名前がどーたらこーたらって言ってたけど」

「……そう、それはわからないね。後で■■ちゃんのお母さんに電話して聞いてみるね」


 心配そういう母に、彼女は拗ねて話す。


「■■ちゃん。やめるなんて嘘だ。名前わかるのに!」


 彼女の言葉に抱かれているミヤコは不思議そうに聞いていた。


 今更ながらと成長した彼女は思うのだ。この時、理解してあげればよかったと。


 この手をたたかれた彼女は、愛犬の黒の柴犬ミヤコと母親。父親の三人と一匹家族である。


 ミヤコは優しく、母親は元気のある素敵な奥さん。父親は気は弱いが優しいお父さん。自慢の家族であるが、あの日、喧嘩別れをしてから異変が起きたのだ。

 最初に愛犬のミヤコが亡くなった。朝起きた時、原因不明の病気で倒れていたのだ。その後、母親が可笑しくなった。狂うような、喜怒哀楽の表情が激しくなる。一年後、急に現れた濃霧の中にある横断歩道を渡って、母親は行方不明になった。

 愛犬のミヤコが亡くなった後、すぐに彼女の体に異変が起きていた。

 ミヤコが亡くなったあとに、遠くの音が聞こえやすくなる。

 その母親が行方不明になった年は嗅覚が鋭くなった。

 その一年後は、犬の遠吠えにつられて彼女は遠吠えをするようになる。

 自分でもこの変化に戸惑っていた。周囲に迷惑をかけるため、ダンスと総踊りの参加はやめた。一方の父親は愛犬の死や母の行方不明、娘の異変などで疲れていた。元より単身赴任での仕事をしていた為、彼女から逃げるように家から去った。それから、帰ってくることは少ない。

 世話をかけてくれる人は唯一父親の親族であった。最初は見てくれた。だが、段々と異変を起こす彼女を気味悪く思い、中学からは見なくなった。

 元より、彼女は自分の面倒は自分の面倒は自分で見るしかないと思っていた。性根は強い為、彼女は買い物や家事と学校生活はできる範囲でこなしていっている。

 ただ一つ自分に起きた変化を除けば、日々の生活を送る支障はない。



 その起きた変化とは、小学校卒業後からだ。

 彼女は朝起きて顔を洗おうと、洗面所の鏡を見て愕然とする。いつも見ていた自分の顔と体は何処に行ったのか。

 フサフサの体毛に柴犬のピンとたった耳。体の全体は黒い被毛で覆われていて、鼻は人間の鼻ではない。人の眉毛とは違う、目の上に眉毛のような斑点があるまろと呼ばれる柄。

 手足はまだ人に近いのが救いなのか。尻尾が服の上から映えているように見えるのはただの異変なのか。

 顔を触ると柴犬を触っている感覚そのままであり、彼女は困惑して口を動かす。


「……私が、ミヤコになっちゃった……?」


 かつて鏡に写っているのは、愛犬ミヤコそのものであった。

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