第二話 終夜―The All Night

  正夢電鉄―カワタレ線

 第二話 終夜よすがら―The All Night


 燕子花かきつばたさま


 とある町の、とある駅。


 そこには、過去への思慮を抱え込んだ人を乗せ、夜半の町を歩く一本の電車があった。噂によればその電車は、乗客に一つだけ『マヤカシ』と呼ばれる幻覚を見せてしまうのだとか。一度乗ってしまったら、車体の遠影が碧空に尽きるまで、マヤカシは解けず乗客にまとわりつく。


 その電車はいつしか、『カワタレ線』と名付けられた。


 カワタレ線は、今夜も待っている。

 記憶という長い線路を進む人を。

 決意という改札口を通り抜けた人を。

 現実という遠い終点を目指す人を。

 カワタレ線は扉という名の大口を開けて、あなたを飲み込もうと待っている。そして今夜も、誰かがカワタレ線へと乗車する。月のない闇夜が染み入るほど、前照灯はその深みをゆっくり溶かす。

 今夜はどんな人がご利用になるのだろうか。


 ――――なんと微笑ましいのだろう、見ているだけで惚れてしまう。


 *



 ――リン――



 とある二月十五日。

 少女は冷たい夜風に軽快なメロディーを乗せ、鼻歌を奏でる。ふんふんと柔和な旋律で歌われたその曲は、少女がどこかで聴いたことのあるフレーズだったが、肝心のどこで聴いたかが思い出せない。きっと、とうの昔に観るのをやめたアニメのオープニングソングか何かだろう。その正体が何なのか気にはなったが、わざわざ調べてまで知りたいとは思わなかったらしい。一通り知っているところまで歌い終わった少女は両腕を頭上に伸ばして、間延びした欠伸をした。そうかと思えば、少女は再びうろ覚えのメロディーを紡ぎ始めた。少女の心行くまで、その旋律は止むことはないだろう。

 点滅を繰り返す街灯、分厚い電光掲示板、燦然と煌めく星々。群青色に染まる夜景には、そんな光が流麗に映える。陽は山々の向こう側で寝静まってしまったが、少女は眠気一つ感じずに、夜を背にして穏やかな気持ちでいた。そんなことを考えているうちに、思ったより早く、少女は片手間に奏でていた鼻歌に飽きたようで、手持ち無沙汰になった少女はすることもなく、もう一度大きな欠伸をした。


 腑抜けた雰囲気を周囲にまとう少女の名は、リン。

 リンはぐいっと背伸びをし、大きく深呼吸する。んん~、はぁ~、と息を漏らすと、彼女はすっと真横を向いてこう言った。

「ねえ、明日はどこ行こうか? チナ!」

「ふぇっ……?」

 ――――リンの隣で肩と手のひらをくっつけ、白練のワンピースを身に着けたもう一人の少女、チナにそう問いかけた。


 *


 リンとチナは、一方ならぬ仲良しだった。

 リンの性格はどこまでも気ままでのんびり、一言で言い表すとするならばマイペースだ。自分がしたいと思えばしたいと言い、したくないと思えばとにかくせずに済む道を考える。多少無理があっても我を貫き通そうとするリンの姿は、良く言えば甘え上手、悪く言えば(大抵がこちら側なのだが)わがままだった。せめてそのわがままさに悪知恵でも働けばよいのだが、生憎リンは考え事がどんなものより不得意なのだ。「ああしてお願いを聞いてもらおう」と思い立ったはいいものの、リンが立てる『お願い受容計画』は毎度毎度あまりに杜撰な出来で、普通に頼めば考えてくれそうなお願いさえその計画のせいで聞き入れてくれないことがある。つまりは逆効果というわけだ。それだけならまだしも、皮肉なことにリンはその重大な事実に気が付いていない。とにかく頼み込んで、無理なら狡猾な手札を切り、結果的に撃沈して終わる。猪突猛進という言葉が非常に似合う性格だった。

 対してチナは、品行方正、頭脳明晰、才色兼備、文武両道。どこを取っても四字熟語で表せてしまうほどの、文字通りの優等生だ。その怜悧さと引き換えに、チナは人と関わることを極端に避けていた。どうせ自分と会話しても、「ついていけない」「よく分からない」「話す言葉が難しい」と苦笑を込めて言われ、結局はくにもされない。きっと誰と話してもそうなるんだ、という諦観が、会話への遠慮に拍車をかけていた。学校では頭の良さが周りに壁を築き、稟性の高さが空気感の違いを生み、謹厳な態度がチナから融和性を奪う。そんな彼女とフレンドリーに関わってくれる人はいなかった。ただ一人、天才と呼ばれるチナと正反対なリンを除いては。

 二人が出会ったのは小学三年生のとき。当時はリンもチナも、互いに真逆の理由で他人との親睦を深められなかった。何とかしてクラスメートに会話の口火を切ろうと、進級して初めて話しかけたのが、偶然にもこの二人だった。もっとも、「き、今日からよろしくねっっ⁉」「え、えぁ、えぇっ、あの、は、はい……⁉」というな挨拶が幕開けとなった初の会話はほとんど成立せず、使う語彙から所作の美しさまで何一つ異なっていた、というのは弁明のしようもない真実だ。ところが日を重ねて話をする度に、本人ですら不思議なくらい仲が深まってしまった。共通の話題があったわけでもなければ、特別仲良し関係を目指していたというわけでもない。だが、リンは初めて本心を打ち明けられる人を見つけ、チナは初めて自分を安全な影に入れてくれる人を見つけた。その事実は、二人が友達となるには十分な理由だった。そうして一学期が修了する頃には、二人は親友と呼び合える関係になっていたのだ。

 その仲良しの加速は止まることを知らず、二人は常に一緒にいるようになった。遊びに行くときも、学校に向かうときも、修学旅行の部屋割でさえ、先生に直談判して変えてもらった。それほどまでに、二人が手を繋がない日はなかったのだ。


 話は現代に戻り、二人は小学六年生。このごろは雪がぱらぱらと降るようになった寒い盛りだ。リンは去年までならマフラーで重装備をしてはしゃぎ回る季節なのだが、何より彼女は、もうすぐ訪れる人生で初めての『卒業』というビッグイベントに対して気が気ではなかった。リンは六年間も過ごした校舎を離れることを侘しいと感じないわけにはいかなかった。嫌な思いもしたし、学校に行きたくないと感じたことも一度や二度ではない。それでも、楽しくて、面白くて、そして何よりチナと遊んだ記憶が形を持ってそこにそびえ立っている。使った教室の壁を見れば、リンが冗談半分で付けて先生にこっぴどく叱られた傷がある。高学年の校舎と低学年の校舎を繋ぐ渡り廊下を見れば、その景色はリンが高学年に進級したときの新鮮さを想起させる。形がなくても、学校というものそのものがすべての思い出だった。

 だから、卒業して簡単に忘れてしまう、なんてことにはしたくなかった。

 そのことを頭の中で反芻すると、リンは少し寂しくなった。なぜだか、その寂しさは家で何をしても埋まらなかった。きっと思い出の地から離れる不安が内懐に溜まりに溜まっているのだろう、とリンは思った。

 だから今日、リンはこんな夜更けにチナと街外れで遊んでいたのだ。

 現在時刻はおよそ九時半。とっくに門限らしき時間は過ぎている。

 二人はいつもの何倍も早い時刻に目を覚まし、お気に入りの髪飾りを短い髪に携え、最寄り駅で待ち合わせ。リンはチナを連れて、学校中で「あれはおいしい」と爆発的な噂になっているクレープ屋さんを訪れた。その後は学校の享楽的な思い出を何の気なしに話し合い、余ったお小遣いでなんとか買えるキーホルダーを厳選し、何時間も外で歩き回ったのだった。こういうことを、命の洗濯と呼ぶらしい。それに則して言うなら、すすぎ洗いから押し洗いに至るまで、全力で命を洗いまくったとも言えよう。そうしてへとへとになった二人は、帰りの駅のホームに座り込んで、今に至る。ここまで遠出し、時間もお金も使ってまで遊びに行ったのは、リンの中で育った正体不明の寂しさを埋めるためだった。


 *


 リンの問いかけに、チナはなぜかもじもじと、何かを言いたげな仕草をした。そのときのチナは不自然にも神妙な面持ちで、いかにもチナらしくない顔だった。

「……チナ? どうしたの?」

 リンがそう聞くと、チナはびくっと肩を揺らしてこう言った。

「いっ……いやっ! なんでもないよ! ただ……」

「ただ……?」

 首を傾げてチナに問い返す。

「……いや、ほんとになんでもない!」

「えぇ? そ、そっか! もう~、チナったら、何言われるのかなって、一瞬びっくりしちゃったじゃん!」

 リンは明るく返す。チナが自分に言わないということは、それだけ本当になんでもないことなのだろう。こういうとき、微妙な雰囲気で終わらせるのも悪いから、リンは大抵おっちゃらけた反応をすることにしている。

「ごめんごめん。って、そろそろ電車来るよ!」

 チナが駅の天井から吊り下げられた電光掲示板に視線を向けたのに釣られてそれを見ると、『電車が参ります』という赤文字が光ったり消えたりしていた。数秒して、ガタンゴトンと音が暗闇の中を伝わって耳に届いてきた。もうすぐ、帰りの電車がやってくる。

 音がした方向にチナが立っていたから、自然と目が合った。何となくチナに、にこっと微笑んでみる。チナは少しびっくりして、恥ずかしそうに微笑み返した。そこにはとりわけ何のメッセージ性もないが、こういう一瞬を共にできる人は、結局のところチナだけだ。

 遠くで連なる山々を切り裂き、車体は暗夜からその姿を見せた。白色でつるつるなボディを堂々と誇示し、前照灯がスポットライトのようにその行き先を照らす。ピンポン、ピンポン。大きくて機械的な音を発しながら、電車は扉を開けて二人を中へといざなった。まるで手招きをして、自分のお腹の中にリンとチナが入るのを刻一刻と待っているようだ。

「行こう、チナ!」

 リンはチナの小さくて華奢な手のひらを、日焼けした手でぎゅっと握る。親友の少しひんやりした手の温度を感じながら、リンは笑顔で駆けだす。

「うわっ!」

 リンに勢いよく前方へ引っ張られたチナは、体だけ置いていけぼりにされて思わず声を上げる。二人は扉口の金属部を踏みつけ、飛び乗るように電車の白い床に着地した。

「ちょっとリン~! さっきの何!」

 チナは頬を赤らめて、まんざらでもないことを隠しきれないままリンにそう声を立てた。

「えへへ、ごめん! びっくりした?」

 リンはおどけて、あざとく舌を小出しにする。ごめん、と言っているが、もちろんその表情に反省の色はない。

「でも、これでおあいこ~っ。言いかけてやめられたら、誰だってびっくりしちゃうじゃん!」

「ん……それはそうだけど……もー、リンってばズルい!」

 何秒か見つめ合って、二人は笑いを堪えきれなくなり、静かに小さな大爆笑を起こした。チナには小恥ずかしくて言えないが、大して面白い冗談もなくして笑い合える、この空間がリンは好きだった。

 ピンポン、ピンポン。再び聞こえた電子的な音に伴って、二人を招き入れた扉は隙間なく閉じられた。床が前の方へズレ動き、その分二人は体が後ろに引き寄せられる。慣性が元気よくはたらく自らの体に抗えなかったリンは、体勢を整えようと飛びついた。チナの体に。

「あっ」

「ひゃっ⁉」

 唐突にも抱き合う形になったリンは、はっとしてその事実に気が付く。唖然としてその姿勢のまま動かずにいると、見る見る内にリンの首から頬が、頬から顔が、顔から額がつつじのような唐紅に変わっていった。

「あっ⁉ ごっ、ごめん‼」

 即座にリンの口からは謝意が飛び出す。就中、謝る必要もないように見受けられるが、その通りだ。二人は学校でいつも『夫婦だ』とからかわれるくらいには友情表現、もとい愛情表現に富んでいる。だから尚更「ごめん」なんて見当違いな気もしよう。それではなぜ、リンは謝ったのか。

 簡単だ。リンはこういったハプニングには滅法弱く、焦れば焦るほど素のリンがぽろぽろと零れ落ちてくるからだ。誰も気にしていないと分かっていても、気を紛らわすためには芳しくない雰囲気がくすくすとリンを笑っていた。まぁ、御託を並べずに本当のことを言うのだとしたら、ただ恥ずかしいというだけだ。

「謝ることなんて一つもないよ⁉ てかリン、まさか……恥ずかしがってるの……⁉」

「え……」

 何秒かしてチナの言葉の意味を理解したリンは、少し高鳴っていた心臓のリズムが一気に早くなるのを感じた。

「えぇぇぇいいいやいやいやいや‼ そんなことじゃないから‼」

 リンが焦りに焦ってそう言うとチナは、ぷっはは! と盛大に笑った。

「笑わないでよぉ……‼」

「ふふ、ごめんごめん。なんか……かわいかったから!」

「……はぁっ⁉」

 リンの胸の鼓動が最高潮に到達した。顔が焼け野原のように赤く、燃え上がり焦げてしまうみたいに熱くなる。こんなことで『かわいい』なんて言われるとは思っていなかったから、その予想外な言葉に恥ずかしさを何万倍にも膨らませられた。

「リンったら気にしすぎ! ほら見て、今この電車、私たち以外誰もいないよ!」

 チナのその言葉は話題を明後日の方向へ曲げた。

「んえ? あ、あぁ! 本当だ!」

 リンは一息つき、なんとかして落ち着きを繕い、おもむろに体勢を立て直した。

 少しでも気をそらすため、車内を見渡す。乗ったのが駅のホームの末尾だったからか、今自分たちがいる車両は最も後ろのほうのようだ。『乗務員室 立入お断り』と書かれたプレートをぶらさげた、誰もいない車掌室が進行方向とは逆側に見える。その真反対である進行方向には、車両を仕切る扉が間隔をきちんと空けて並んでいた。それはリンの視界が途絶えるまで続いていた。窓の外は真っ暗闇。夜色がリンとチナを乗せた電車を包み込んでいた。電車の揺れに合わせて長短さまざまな吊り革たちが踊っている。それから……


『なんか……かわいかったから!』


 ぼっ。少しずつ冷めてきたリンの顔が再び紅色になる。あのときのチナの笑う表情が、なんというか……包み隠さず言うなら、かわいかった。あんな微笑みをされたら、親友なんて関係だとしても惚れてしまう。それを自覚して、さらに恥ずかしさが増した。チナからちょっと目線を逸らして、血を一滴垂らしたような頬の赤みを隠す。恋心とか、友情を越えた愛情とか、そんなものではないのだが、どうしてもリンはチナに対して特別な感情を抱かずにはいられなかった。

 ふと、リンはあることを思い出す。

「ねえ、チナ」

「なに?」

「あのさ、さっき駅で言いかけてやめたこと、あれってなんだったの?」

『なんでもない』と言われたからリンにもチナにも重要なことではないのだろう、と割り切って看過していたが、それを分かっていながらも、ずっと気になってしょうがなかった。チナが何かを言いかけてから言わずに留めておくなんて、少なくともリンと話しているときには一度もなかったからだ。

 リンに問われたチナが言う。

「あぁ、それはね……」


 ――――ゴトン‼


「うぎゃあぁっ⁉」

 リンは声を上げる。まるで爆弾が爆ぜたような轟音と共に、立っていた床ごと前に滑った。巨人の手で背中をドンと押されたように体勢を崩され、リンは思わず電車の床に転んでしまった。

「いってて……」

 リンは自分のお尻をさすり、どうにか痛みを和らげる。

 どうやら、車体がいきなり揺れたようだ。相当運転が荒かったのか、はたまた脱線したのか。それを疑うくらい大きな揺れだった。車体は前進を続けているから脱線はしていないのだろう。それにしても、地震のような震動が起こるなんて予想していなかったから、何が起こったのか理解するのに時間がかかってしまった。

 リンは未だ微振動が残る床に手を突き立て、ぎりぎりバランスを取って直立した。思いきりお尻を床に叩きつけたから、立ち上がるので精一杯だ。見ると、丁寧に整えてきたスカートに埃が付着していた。汚れが苦手なリンは「うえぇ……」と顔を歪めて、付いた埃をバサバサと払う。灰色の綿毛のようなゴミがぱらぱらと床に舞い落ちた。

 両手でそれを払ったことで、リンは違和感に気が付いた。転んだ弾みで、リンはチナの手を離してしまったらしい。さっきまで確かに有った手のひらの体温が、知らない間にするりと抜け落ちていたのだ。あの揺れでまともに立っていられるはずがないから、恐らく自分の真後ろで転んでいるだろう。自分ほど盛大に転んでいないといいが、とにかく手を差し伸べないと。

 ばっと後ろを向き、手を突き出し、そしてリンはこう言った。


「大丈夫だった? チナ……」

 そこに、チナはいなかった。


「あれ?」

 見間違いだったかな、と思い、背後を振り返る。だが、いない。

「え……」

 おかしい。床を見回しても、チナの姿がない。さっきまでいたはずなのに、どこに行ったんだ? リンは怪訝な表情を浮かべた。自分の立つ目線の高さも、一応天井も見渡してみる。やはり、どこにもいない。

「おーい……ねえ、どこなの、チナ?」

 たまに起こる「真隣にいるのになぜか見失ったように視界から外れる嘘みたいな現象」が今起こっているのだ。そう思い込み、冷静さを保とうとしていたリンの精神が、少しずつ綻んでくる。数秒も立たないうちにリンは身を固くした。リンの意思とは反対に、指先はビクンビクンと跳ね、脚は凍えるかのように小刻みに揺れ、脳は狼狽えていく。さっきまで確かな体温と姿を持って目の前にいたチナが、影も残さず消えた。それも、自分の視界から消えた一瞬の間に。とても現実では考えられないが、チナは今ここにいない。理解できないことが自分を置いて巻き起こっている。とろとろと、不安がリンの中に募った。

 ……いや、そんなことはない。きっとチナは消えたわけじゃない。懸命に探せば、さすがにこの電車の中にはいるはずだ。そう思い、車両の中をじっくり見渡した。

 思ったより早く、リンはチナの姿を見つけた。車両と車両を繋ぐ扉の窓から、その後ろ姿を捉える。


「チナ!」

 チナは、一つ先の車両に立っていた。向こうの車両の、さらに次の車両に繋がる扉の前で、こちらに背を向けて。

「なんだ……心配させないでよ……」

 リンは呆れ交じりに笑いながら、独り言をこぼす。どうやったかは分からないが、鬼ごっこか何かのつもりなのだろう。さっきも電車が貸し切り状態なのを知って喜ばしそうにしていたし、きっとそういうことなのだ。自分のことを大事にしてくれるチナに限ってくだらないことはしないだろう、と心のどこかで思いながらも、強引にそう信じることにした。

 リンは車両の連結部分に張られた扉の前に立つ。思い返せば、今まで車両を移動することはなかったから、この扉を使ったことが一度もない。試しに取手に手をかけ横に倒し、ぐっと角度を変えてみる。どうやら横にスライドするタイプの扉のようだ。扉の重厚感に反して、それはリンの腕一本で簡単に開いた。車両と車両の中間地点のような場所から、もう一枚扉を開ける。新たな車両に出たリンは扉を開けっぱなしにした。

「チ~ナ! みーつけたっ!」

 くるりと前を向き直ると、そこには自分に背を向けて佇んだチナが。


 ……いない。


「え……なんで……?」

 眼下に広がった別の車両。さっきまでは、リンがあの中間地点で二枚目の扉を開けるまでは、確実に、この車両で、すぐそこに立っていた。だというのに、リンがチナの背面から視線を外していた、たったそれだけの間に、忽然と消えてしまったのだ。

「待ってよ……なに、これ、何が起こってるの?」

 今にも爆発しそうになりながら飛び出た鉛色の言葉たちが、リンの震えた唇から零れ出た。数十秒前に感じた恥ずかしさが起因のドキドキとは真逆の、胸が絞め付けられる悪辣なドキドキを肌で感じる。どんどんと困惑が深まる中、リンは考えることをやめて車両の中を探し回った。座席のすべてに目を通し、座席の影になるところも調べ尽くし、窓の外にまで視線を飛ばす。だが、ここまで懸命に捜索しても、この車両には人がいる気配すらない。

〝この車両には。〟

「……まさか」

 はっとして、リンは今いる車両の前を目掛けて走り出した。電車の揺れが右へ左へとリンを転ばせようとする中、先頭に着く。さっき見たチナが立っていた場所と同じ場所だ。そこにあるのは、さらに次……初めに乗った車両から数えて、三つ目の車両に繋がる扉。走ってきたままの勢いで、リンは扉の小窓から見える三両目の光景を確かめた。

「うそ……」

 チナの後ろ姿が、またさらに奥の扉の前に見えていた。

「なんで……チナ! おーい! チナってば~‼」

 リンが扉を二枚挟んでチナに呼びかける。しかし、いつもの何倍も張り上げたはずのその声も、決して顔を見せようとしないチナの耳には届かなかったらしい。ガタンゴトンと身体の重心をブレさせる震動も感じぬかのように、彼女はピンと立った背筋を崩そうとしなかった。

 覚束ない手つきで車両扉の取手を握る。今度はチナの背中から目を離さない。艶やかに流れたチナの髪をじっと見つめながら、急いで扉を開ける。チナの姿は、まだ見えている。このまま視線を外しさえしなければ、チナが消えることはない。そう思い、二枚目の扉も素早く滑らせた。


 やっとの思いで、車両ごと離れていくチナを追い詰めた。

 そこには「捕まっちゃった~」と悔しそうにするチナが。

「チナ! もう逃がさな……」


 ……いない。


「……なんで」

 一秒も、よそ見をしたりなんかしなかった。視界にはチナしか映っていなかった。だというのに、ここにチナの姿はない。それはあの一瞬、リンが目を閉じて、また開く一瞬。『瞬き』の瞬間に、チナは姿をくらましたのだ。

「なんでよ……こんなの、ありえない」

 吐露したリンが一番分かっていた。現実では絶対にこんなことはできない。チナに瞬間移動の力があるなんて聞いたこともないし、万一できたとしてもそれは人間業ではない。そんなことくらい、学に乏しい云々関係なく、リンにも分かっていた。でも今、今まさにここで起こったことは、歴然とした事実だ。それにもう一つ。もしチナが瞬間移動の使い手だったとしても、当のチナにはリンから逃げるように前へ前へと進む理由がない。鬼ごっこなんていう子どもだましで、あの優しくて賢いチナが親友を困らせ焦らせるわけがない。それが分かったからこそ、リンは「なんで」と言う以外にどうしようもなかったのだ。

 淡々とした足取りで、車両の前方へ。降車扉の横を四回通り過ぎ、車両の先頭にあるのは、四つ目の車両に繋がる扉。身を乗り出すように小窓を覗けば、思った通りチナの後ろ姿が見えた。それも、さっきと微塵も変わらない姿勢で、凍ったように静止している後ろ姿だ。


 ねえ、チナ。待って。どうして離れていっちゃうの?

 リンが胃の底から込み上げる恐怖を声にしようとした、そのとき。

 がさついたアナウンスが響いた。

『……近鉄カワタレ線をご利用いただき、ありがとうございます。この電車は、王寺行き各駅停車です。次は、菜畑、菜畑です』


 ――――カワタレ線。

 リンも小学校で六年間、あるときは男子の噂話で、あるときは修学旅行の夜の怖い話で、あるときはチナからも、耳にタコができるほど聞いた話だ。乗った人は呪われ、眠ってしまい、夢のような世界で『マヤカシ』などと呼ばれる幻覚に苛まれてしまう、そんな恐怖の電車。それが、カワタレ線。

 この電車のアナウンスは、確かに『カワタレ線』という言葉を使った。リンは今まであれをただの噂話だとしか思っていなかったが、この現実離れした状況で、この単語が生じるということは、考え得る可能性は一つしかない。

 ……この電車は、実在した噂話カワタレ線のだ。

「……そんなわけない。あれはただの噂でしかないんだから」

 リンはリンに言い聞かせた。幻覚? 呪い? カワタレ線? そんなもの存在するはずがない。あれはどっかの誰かさんが学校中で広めただけの、根拠のない迷信だ。怖い話が苦手な女子に吹き込んで、その話を畏怖する子たちを見てニヤニヤしたいだけの鬱陶しい男子たちが編み出した、バカバカしいおとぎ話だ。それに……

「チナは、私の前でマヤカシになったりしない」

 チナはリンと共に、この電車に乗った。いくらマヤカシでも、人間を消してしまうなんてできっこない。扉から見えるチナはリンが追いつくたびに逃げていく。でもそれはマヤカシでもなんでもない。なぜなら、チナはこの電車の中にいるからだ。自分から逃げるのも、瞬間移動のようなことを成し得るのも、きっとチナが人間として理由をかかえているからだ。


マヤカシ幻覚』が、チナを『マヤカシ偽物』にしたから。


 そんなことは決してない。あのチナは、いくら非現実的だとしても本物の、リンが愛した大親友だ。いきなり抱き着いてしまっても、嫌な顔一つせず笑ってくれる。微笑む顔も、お腹を抱えて哄笑したときの顔も、女の子なら誰もが羨む美形な顔も、どれもリンにとってはかけがえのない宝物なんだ。そんな珠玉のチナを、マヤカシなんてものに壊されて堪るものか。こんなものに、リンが先に負けて堪るものか。チナは自分から逃げているんじゃない、自分を待っているんだ。意固地になったその一心で、リンは決意を固めた手を取手にかける。

「待っててチナ、今行くから……!」

 ガチャっ、と倒した取手を横へ動かし、扉を開けた。


「……繧?a縺ヲ縺ゅ£縺ェ繧」

 『声』がした。


「……誰⁉」

 リンは思わずそう叫ぶ。どこから聞こえてきたのだろう、すぐ近くから聞こえたようにも、遠くから投げかけられたようにも聞こえた。蛇が舌なめずりするような、昆虫が羽ばたくような、人間がこそこそ話をするような、小さくて、なんと言っているのか全く分からない音声だ。だが確実に、声の発信源はこの車両だった。びくびくとしながら、恐る恐る後ろを振り返る。

 誰もいない。

「なんなのよ、もう……」

 単なる気のせいだったのかもしれない。虫の羽音が人の声に聞こえることはたまにあるし、その逆だってある。きっとこれもそうだ。マヤカシとか、そんな類のものとは何の関係もない。ただの思い過ごしだ。

 そうではないと知ったのは、そのたった数秒後。

「……繧?a縺ヲ縺ゅ£縺ェ繧」

「っ……⁉」

 『声』が耳に入るだけで、リンは全身の神経が強張る感覚で支配された。心臓をぎゅっと握りしめられたかのような緊張感が突き抜け、不覚にも鳥肌が立った。

 今度は、しっかり聞こえた。相変わらず意味は理解できない、まるで別の言語のようだが、今のはチナのものでも、はたまたリンのものでもない。むしろ人間の声なのかすら分からなかった。甲高く、人間の女声を無理やり引き延ばし、縮め、千切ったものを継ぎ接ぎにしたような音を、リンは確かに耳にした。言葉の意味は分からないのに、『声』はリンを圧倒するには十分すぎる何かを孕んでいた。

「……繧?a縺ヲ縺ゅ£縺ェ繧」

「やめて……誰なの……!」

 同じ言葉が耳に届く。いや、「届く」というのは間違いだ。

 その『声』は、リンの耳元にいた。囀るような、囁くような、まるでリンを耳から侵食しようとするかのように。

「……縺励▽縺薙¥縺翫>縺九¢繧九↑繧薙※縺イ縺ゥ縺」

「っ……」

 別の言葉が聞こえる。また耳元だ。

「おねがいだから、やめて、もう」

 リンの訴えかけも虚しく、『声』は止まない。何もない空間から、いくらでも飛んでくる。どれほど強く耳を塞いでも、鼓膜に直接吹き付けられては否が応でも聞かされる。

「……縺昴m縺昴m縺阪▼縺阪↑繧」

「もう……」

「……繝√リ縺。繧?s縺ッ縺阪∩縺九i縺ォ縺偵※縺?k繧薙□」


「もうやめて‼」

 リンが喉を枯らして叫んだ途端、謎の『声』たちがぴたりと止んだ。

「はぁっ……はぁっ……」

 息遣いが荒くなる。一瞬にして嵐が過ぎ去ったような静寂が訪れた。消えた『声』たちが脳内に残響する中、リンは冷たい呼吸を整えた。

 自らの肌の温度に触れる。体感温度はどんどんと下がっているが、まるで徒競走の直後のような疲れと暑さを帯びていた。

 あれは、一体何だったんだ。心の中で自問する。

 無論、答えが返ってくることはなかった。マヤカシの産物かどうかも分からない、不審で悍ましい『声』。まだあの『声』が頭と耳で響き渡っている。だが、今はこんなところで時間を使っている暇はない。一度深呼吸をしたリン。もう何度目になるかも分からないが、彼女は再びちらと扉の窓の奥を見た。チナはまだそこにいる。冷静になろうと必死になりながら手を扉の取手にかけた。開ければようやく、チナの元へ辿り着けるんだ。リンはそう思った。だが。

 ……何かおかしい。

 さっきに比べて、いや、電車に乗ったときと比べても、電車の中が静かすぎる。あの『声』はおろか、電車の揺れる音さえ蝶の羽ばたきの音より小さい。言うなれば、梢が揺れるくらいの音量と等しかった。これは本当に嵐の過ぎ去った後の静寂なのだろうか。

 もしかして、これって。

「嵐の前の……」


「やめてあげなよ」「しつこく追いかけるなんてひどい」「チナちゃんは君から逃げているんだよ」「そろそろ気付きなよ」「身勝手なことしてあげないで」「チナちゃんかわいそう」「リンって最低だね」「チナちゃんの気持ちを考えてあげなさい」「迷惑なのに何やってるの」


「っ……‼」

 リンを取り囲んだのは、聴覚を断絶したくなるほど不快な『声』だった。再顕現したそれらは、もう別言語ではない。明確な、それもリンが理解できる言葉を使って、罵詈雑言をぶつけてきた。聞いているだけで吐き気がして、ただただ不愉快で最悪な気分になれた。

「一人にしておきなさい」「こうなったのも全部リンのせいだよ」「はやくどっかいけ」「チナちゃんを巻き込まないで」「リンが変なことをするからだ」


「うるさいっ……うるさいうるさいうるさいっ……!」

 甲高く、人間の女声を無理やり引き延ばし、縮め、千切ったものを継ぎ接ぎにしたような音。リンは先ほどそう形容した。この『声』が日本語を喋って初めて、元の女声が誰のものか分かった。

 チナだ。チナの可憐な声が、引き延ばされ、縮められ、千切られて『声』にされているのだ。

「くっ……‼」

 リンの腹中は驚きを超越した怒りで燃え滾る。大好きな親友を勝手に揶揄され、その上彼女の声を無理やり変形される。これほどまでに屈辱的なことはない。チナの声をガヤの有象無象に変えられたことを、リンは許せなかった。憤懣やるかたない感情を手に込めて、リンは扉の取手を握りつぶすように掴む。滑らせた勢いで、扉はガンッと鈍い音を立てた。底なしの『声』の沼がリンの耳を縛り付けているから、無機質で何も感じない音は都合が良い。右に振り切った手で二枚目も開ける。


 四両目からも、チナは消えていた。


 *


「はっ、はっ、はっ」

 リンはとにかく走った。普通の電車では迷惑極まりないことをしているのだろうが、そんなことを気にする余裕はない。走って、走って、行きつくのは車両の先頭。奥にはチナがいる。車両に挟まれた扉を開け、一つ先の車両に移動する。開けた瞬間には、チナは既にそこにはいない。それでも床を駆け抜け、またさらに先にいるチナを目指して扉を開ける。この繰り返しだ。一車両分とはいえ、それを何度も走っていればさすがに限界が近づく。扉を開けるために減速し、開け終えたら加速し、また扉の前に来たら止まって開ける、この流れが想像を絶するくらい体に負担がかかった。これを言い表すなら、まさに独りぼっちの死闘だ。それも、れっきとした死が懸かっている。

 加えて、リンの死闘を妨げる大きな原因があった。

「追いかけても無駄なのに」「チナちゃんは君のそういうところが嫌で逃げているんだ」「まだ続ける気?」「そろそろ疲れたんじゃない?」

 『声』だ。

 時にリンの足元から、時に座席全体から、時に天井の空調から、『声』は文字通り四方八方からリンに釘のように鋭利な言葉を打ち付けてきた。何より自分が進もうとしている前方からそれが聞こえてくると、わざわざ止まって避けるわけにもいかず、『声』が大音量になるまでそこを突っ切らなければならなかった。

「リンには常識がないんだな」「自分がされて嫌なことは相手にしないって約束を守れないの?」「そういうことするの信じられない」

「うるさいっ……‼」

 薄汚い言葉たちに、リンはいとも簡単に挫けそうになる。それでも、彼女は奥に、奥に、更に奥に、チナが逃げる車両の扉を開け続けた。リンは、今だけリンの頑迷さに感謝した。ここまで来て諦めるなんてことはしない、その決意だけはマヤカシだろうが何だろうが、侵させはしない。扉の前に着いたら「チナちゃん可哀想」と『声』を出す取手を引っ掴み、薙ぎ払うかのごとく滑らせる。これをもう一回したら車両が変わる。だがその先に、やはりチナはいない。黒い艶めいた髪を垂らすチナは、既にそのときにはリンより一歩手前を進んでいる。

 もう一度だ。床を蹴って走り出すと、『声』の嵐に巻き込まれながら前の扉に視線を集める。だが、目指す所以外見ないでいると、その他のことが疎かになってしまうものだ。もう少しで次の扉の前に着くというところまで来たときには、ふらついた足はリンの意識の外に出てしまっていた。踏み切った右足と交差するように左足を前に出そうとして、リンはうつ伏せにすっ転んだ。

「うぅっ……」

 左頬に電撃が走る。咄嗟に手が前に出ればまだ痛みはマシだったのだろうが、皮肉にもそう考える暇はなく、床との衝突はまさに直撃だった。打ちつけた衝撃の後に来るのは、痒みと痛みの入り交ざる肌のヒリヒリだ。どことなく、それはリンがやんちゃをしすぎてお母さんに引っ叩かれたときの疼痛に酷似していたように感じる。普段なら大袈裟に「いったぁ~‼」とでも言うのだろう。対して今のリンは左の肩で頬を一撫でし、両手を床に突き立てた。

「まだ続けるの?」「諦めが悪いから嫌われるんだよ」「そうだそうだ、君はチナちゃんから嫌われているんだってば」「いい加減にすれば?」

「チナ……私が今行くから……絶対に……!」

 リンが口から放ったのは気骨のある言葉だったが、その声は車内に漂う大量の『声』たちに吸い込まれて消えてしまった。お構いなしに、リンは体を起こし、膝に右腕を置いたまま左腕をぐっと伸ばして扉の取手を掴む。全身の体重を横に移動させ、倒れ込むようにしてリンは扉を開けた。体を車両の連結部分に押し込める。

 なるべくそっと立ち上がり、一度深呼吸をする。

「あとちょっと……チナのためならできる。行かなきゃ……」

 終わりのない奔走のように見えたが、リンは諦めようとはしなかった。なぜなら、リンが言った「あとちょっと」とは頑張るための言い聞かせではなく、終わりが見えているからこそ言えた言葉だからだ。


 リンはそのとき既に気付いていたのだ。

 最初の扉を開けたときから少しずつ、チナが奥の車両の中でこちら側へ近づいているということに。


 ……何度扉を開けて、いくつの車両を移動したことだろうか。数えることはとうにやめてしまったが、ざっと五十は繰り返したはずだ。常識的に考えて、五十両編成の電車が町を走っているわけがない。それに、各駅停車だというのに乗車から数十分経った今もまだ一駅にも止まっていない。恐らく、これが『マヤカシ』の真髄だ。チナを追いかけるため、車両を無限に伸ばしていき、際限なしの車両紀行を強いる。マヤカシの幻覚はこういうことなのだろう。いずれにせよ、マヤカシはそれだけの存在なのだ。いや、それだけではないかもしれない。リンを煙に巻く幾億の『声』たちも、粗方マヤカシの一部ということだろう。そう思えば、リンが怖がる必要はない。『声』の言う言葉には何の根拠もないし、車両がいくら増えようがチナにはいずれ対面できるのだから。

 その証拠に、リンが見つめる先の車両にチナがいる。

 それも、扉を二枚挟んで背中合わせになれるくらいの距離に。

 きっとこの扉を開ければ、次の瞬間移動で同じ車両に居合わせることができるだろう。そう、これがリンの言う「終わり」だ。

「……チナ、今行くよ」

 その一言を零し、リンは最後の扉の取手に手をかけた。


「……でも、チナちゃんが君から逃げたのは、これが初めてじゃないでしょ?」


「……え」

 無視していた『声』の問いかけに、思わず返事をしてしまった。

 騒々しい『声』たちを裂いてリンに届いたその一つの『声』の言葉は凶刃のように鋭い殺し文句となって、どんな暴言よりもリンの肺腑をえぐった。当然だ。リンが不覚のうちに返事をしたのは、単なる驚きではなく、心のどこかでその自覚があったからだ。

「チナちゃんは君とは違って賢いから、バカな君とは別の中学校を受験したんだよ。そしたら君の面倒で子供じみたお遊びからも解放される。チナちゃんはきっと清々しているはずさ。迷惑ばかりかけるくせに親友面をしてくる大嫌いな君と決別できて。分かっているだろうけど、君はもうチナちゃんとは会えない。どれだけ頼み込んでも、会ってはくれないだろうね。なんせ君のことが誰よりも嫌いなんだから。そもそも、君がチナちゃんにずっとつきまとってさえいなければ、もっと良い中学校を受験できたのかも」

「何を……言ってるの……」

「まだ分からないの? 君は本当にバカだね」

 刹那、リンを冷やかすだけの『声』たちが一斉に止んだ。

 そして一つの『声』は、静まり返った電車に鳴動するように言った。


「チナちゃんが君から逃げるのは、君のせいだ、って意味だよ」


「嘘だ‼」

 膝から力がなくなり、リンは扉にもたれかかるように倒れ込んだ。

 リンは掠れて消え入りそうな声でこう叫ぶ。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ、そんなの全部嘘だ‼ うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい‼‼ 黙れ‼ チナが逃げるのは私のせい? そんなわけないでしょ‼ 私とチナは親友で、学校の誰よりも仲良しで、家にも何回も遊びに行ってて、本当に親友なの‼ チナが逃げるのはあんたたちのせいだ‼ あんたたちもチナに嫌なことばっかり言ってんでしょ‼ そうだ……あんたたちが……」

 ……あれ、じゃあなんで、チナは『声』が恐ろしいものだと知っているのに、私を助けてくれないんだろう。なんで、私から逃げるんだろう。なんで、私がこんなに辛い思いをしていると知りながら、それを見て見ぬふりするんだろう。

 鈍色の疑問がリンの喉をぐっと絞め付ける。今にでも『声』の言うことなんて全否定してやりたいのに、そうすることを何かが逡巡とさせている。言葉にしたいものはすぐそこまで出かかっているのに、喉がそれを声として外に出すのを拒んでいる。伝えたい言葉は本心のはずなのに、どうして言えないんだろう。苦しい。それは、黒々しいものがリンの肺の中に潜んで、言葉を無理やり抑え込んでいるような得体の知れない苦しさだった。なんで、自分だけこんな目に遭うのか。なんで、リンが懸命に追いかけているチナでさえ助け舟を出してくれないのか。


 少し考えて分かった。

『声』の言う通り、チナが逃げる所以はリンにあるからだ。


 *


 とある十二月三日。

「ねえ、リン」

 放課後。

「ん~、どうしたの、チナ?」

 午後五時半。

「あのね……ずっと言えなかったことがあって」

 リンの部屋にて。

「何……?」


 チナはリンに、中学受験をすることが決まっていると告げた。


「え……そんな……」

 常軌を逸したチナの言葉に、リンは絶句するほかなかった。

 それからチナは、リンにすべてを話した。チナは小学四年生の頃からずっと、私立の中学校に入学するために勉強をしていた。目指していた中学は、受験なんて考えもしなかったリンでさえ知っているくらい有名な県外の難関校だ。ほぼ毎日のように塾に通い詰め、学校にも分厚い参考書を持ってきて、暇さえあれば読み込んでいた。それでもチナは、唯一の親友を大事にしたかった。これほどまでに自分を大切にしてくれる存在を、一身上の都合で無下にするなんてできなかった。

 ……できなかったから、受験すること自体言えなかったのだ、と。

「ごめん、ごめんなさい、リン……」

 チナは話し終えると、歯を食いしばり目から汁をこぼして謝った。リンは来年度、もちろん地元の中学に行く。つまりは、もうそろそろお別れというわけだ。


「……チナ、怒ってないから安心して」

 妙に落ち着きはらった口調で、リンはそう言った。

「ぐすっ……本当……?」

「……うん、本当。こんなことで怒ったりなんかしないよ」

 そのときリンは、チナに嘘を吐いた。リンは怒っていたのだ。

 名門の中学校に行くため奮闘している、ということは素晴らしいことだし、親友なら全力で応援して然り、微笑ましい限りだろう。だが、リンはどうやってもチナに微笑ましさを感じられなかった。ここまで誰よりも仲良くしてきた親友だからこそ、初めから事の次第を伝えてくれなかったことが腹立たしかったのだ。チナなりに気を遣って故意に言わないようにしていたことは理解できる。でも、それを善意と呼ぶには、リンだけが苦しかった。気を遣われてもいなくても、はなからリンにはチナしかいない。受験のことを知ったとて、どうせ離れ離れになるチナより中学まで一緒に居られる友達と関わろう、なんてできないのだから。それを今知るくらいなら、二年前から知っておきたかった。一緒に居られると思っていた中学の三年間が存在しないとなれば、残された二年をもっと大切にしたことだろう。それを知った今日では、もう既に遅すぎた。リンとチナが「友達」から「親友」になったときに誓った「ずっと一緒だよ」という約束を反故にされたような、どこにも吐き出せない鬱憤が、リンの中で渦巻いていた。親友に対してこんな感情を抱くなんて間違っている、と頭では理解していても、心が、血が、リンの性根を腐らせていた。すべては「チナとずっと一緒にいたかった」という願いが満たされなかったということから始まっているはずなのに、リンの胸底はそれ以外の雑念の色に染められていた。

 話を打ち明けられたとき、チナに「学校は遠くても家が近いから、会えなくなることはない」と言われて頷いた。が、リンはそれも言い訳のように聞こえてならなかった。リンが愛しているのは、「会いたいと思った時だけ特別会えるチナ」じゃなくて、「いつも隣で手を繋いでくれるチナ」だ。この微妙な差異が、リンにとっては自らの心臓より価値あるものだった。こんな横柄な願いを親友にまで押し付けるのは、いくらわがままなリンだとしてもしたくはなかった。なぜならチナにはチナの道を歩む権利があるから。それを重々承知の上で、リンはチナを許せなかったのだ。どうして歩む道を教えてくれなかったのか。どうしてリンと歩幅を合わせてくれなかったのか。どうしてここまでして自分に秘密を隠し通そうとしたのか。どうして今ここで打ち明けたのか。どうせなら最後まで隠しきって、晴れて中学生になったときに、いつの間にかチナがいなくなっていて、噂を聞きかじって初めて遠くへ行ったことを知る、そんなことになるほうがまだマシだったのに、どうしてこんなことになったのか。いくら考えても分からなかった。


「リン、短いけど、これからも一緒に居てくれる……?」

 チナがリンにそう問うた。涙で潤った瞳がリンの暗い目を捉える。

 リンはチナと話すとき、ずっと素の自分を見せていた。面白ければ笑い、悲しければ泣き、理不尽だと思えば怒り、眠たければ眠たげな表情を浮かべ、そして苦しければ歪んだ顔をした。それに呼応するように、チナも心情に従った表情でリンと共に話をしていた。そしてそれを、一度もやめたことはなかった。偽物の自分を見せたり、取り繕った顔でお互いを眩ましたりしたことは、一度もなかった。


 リンは、今日初めてチナに作り笑顔をした。


「うん。もちろんだよ!」


 *


「いやだ……いやだ……‼」

 突き付けられた現実は強く撚られた縄となって首を絞めつける。色鮮やかな記憶が脳をぐちゃぐちゃに掻き乱し、気が付けばリンは膝を抱えて泣いていた。眼球が飛び出そうになるまで目を大きく見開いているというのに、瞳孔は縮こまっている。心臓の鼓動が為すリズムに合わせて、そこから一筋、そっと涙が零れ落ちた。大粒のそれは腕が巻き付いたスカートをべとべとに湿らせる。沸々と湧き上がる体温が出す汗はリンの背中をびっしょりと濡らした。纏わりつくような冷たさが気分をさらに下劣にする。まるで泥濘の中にどっぷり浸かっているようだった。

 ゴトン、車体が縦に揺れる。

「うっ」

 胃が回るようにかき混ぜられ、内容物は卓絶な不快感を併せ持って食道を逆流してきた。

「う……おぇ……ごえっ、げぼおっ……」

 リンはその場に嘔吐する。胃酸が喉を、舌を、口唇を、燃える針を細切れにしたような痛みで襲った。吐瀉物の腐ったような臭いと見てくれは、不快感を何倍にも膨張させた。

 四つん這いになって胃の中身が尽きるまで吐いても、吐き気が消えることはなかった。その要因は、電車の揺れでも、一度色褪せそうになった記憶が戻ってくる異常な感覚でもない。記憶の中でリンがチナにした非情で無惨な仕打ち――リンがチナを裏切ったことが、何よりの要因だ。


「げほっ……やめて……お願いだから……」

 口を衝いて出た言葉たちはリンの現実を拒もうとする。

『声』が言ったことはすべて本当だ。リンが死に物狂いで忘れようとして、脳にこびりついた記憶の断片がやっと剥がれ落ちてきた、想像を絶するほどにリアルな本当だ。二度と思い出したくなかった、リンにとって最悪の本当だ。

 リンは疲れきった体を扉に立てかけ、考えた。

 自分はチナのことが嫌いだったのか。自分は自分と未来を共にしてくれなかったチナを忌避したいのか。自分は稚拙な理由を付けてチナを突き放したいのか。自分は今日もチナと遊びながら「楽しかったね」なんて美辞麗句を並べて、心の底では侮蔑したくて仕方ないのか。あの日、目を背けたい事実を知ったときから、自分はチナのことを蛇蝎していたのか。そうだとすれば、リンの中ですべて繋がる。『声』の言うように、チナは自分のことが嫌いなんじゃないだろうか。なぜならチナは、自分がチナのことを胸奥では嫌っていることに気付いているから。あの日口にした「怒ってないよ」と言葉が嘘だとバレているのに、親友という建前の上でしつこく追ってくる。その態度と執着心が、チナにとっては気持ち悪かったんじゃないだろうか。『声』の言うことは、何もかも本当だったんじゃないか。チナが自分から逃げているというのも、自分がチナから嫌われているのも、自分がチナの迷惑になっているということも、自分がチナの気持ちを一つも考えていなかったということも、自分が身勝手で最低な奴だということも、細大漏らさず真実なんじゃないか。

 心が瓦礫のように崩れていく音が聞こえる。『声』の戯言だと思っていた数々の辞が、言い逃れようもないくらいにありありと、リンに現実を埋め込んだ。それはまるで心臓の隙間からねじ込まれるような、窮屈で乾いた痛みを伴った。ぽっかり穴の開いた、途方もない寂寥感が頭の中でけたたましく鳴り響く。眠っていた感情たちが堰を切ったようにどっと溢れ出してくる様を、それを食い止められないリンは打ちひしがれながら眺めるしかなかった。叫びたいくらいに胸が焦げて灰になっていく痛みがリンを縛り付けたが、声が出なかった。

 一から百までを理解したリンは、悄魂のどん底で自分を強く責めた。

 何が「自分が愛した大親友」だ。

 何が「チナに対して特別な感情を抱かずにはいられない」だ。

 何が「チナが親友を困らせ焦らせるわけがない」だ。

 何が「自分のことを誰より大切にしてくれる」だ。

 何が「学校で誰より仲良し」だ。

 一つ残らず違う。真逆なんだ。

 口では「大好き」と言いながら、心の中では「大嫌い」と言う。

 口では「大切」と言いながら、心の中では「どうでもいい」と言う。

 口では「仲良し」と言いながら、心の中では「邪魔だ」と言う。

 口では「愛だ」と言いながら、心の中では「嫉妬だ」と言う。

 リンは自分が信じられなくなった。自分の言いたかったことと、自分でさえ知らない自分が思っていたことが、まるで退け合うかのように相反していた。鉛の詰まった頭を無秩序に扉に打ち付ける。いたい。甚いけれど、リンにはそれを甚いと言う資格などなかった。なぜなら、チナのほうが何倍も痛くて怖い思いをしたからだ。それも、親友だと思っていた人間から。

 どんな気持ちだっただろう。親友が、心腹で自分を嫌っていたと知ったとき。やはりリンのことを嫌っただろうか。それともひどく傷ついて、自分が彼女の隣にいるときに常に怯えていただろうか。いずれにせよ、チナの心にはそのときからリンへの愛なんてなかったのだろう。

 どれもこれも、リンがチナを裏切ったから起こったこと。要は、自業自得なのだ。リンの体を掻っ捌く氷の刃も、いくら嘔吐を繰り返しても止まない吐き気の毒も、初めはリンが生んだものだ。チナに与えた痛みの数々が、今こうして自分に返ってきているというだけ。いや、返ってくるなんてものじゃない。チナが苦しんだ経験は、きっとこんなものじゃないんだ。それこそ、すべてを味わえば死んでしまうくらいに。そんな恐怖に蓋をして、チナは今日も耐えていた。どれだけ苦しくても吐き出せない、地獄のような世界を強要してしまっていた。それを「自覚がなかったから」なんて言葉で済ませられるわけがない。

 リンは文字通り、最低なことをしたのだ。

「うあぁっ……っ‼」

 声にならない声を絞って、リンは頭を扉に一際強く打った。後頭部が割れるような痛みが伝わる。ドンッ、という仰々しい音に混じって、リンは金属製の何かがぶつかるような異物感のある高い音を耳にした。すー、すー、と短い呼気を漏らしたとき、再び金属音がした。小さな鉄製の何かが、床に落ちる音。ふと音のしたほうに意識を向けると、リンの目はそこに転がった一つの小物を捉えた。弱々しい手つきでそれを自分の影の中から拾い上げる。車内の蛍光灯がその全貌を照らした。


 それは、百合の花が絢爛と咲く、一輪の髪飾りだった。


 *


「珍しいね、チナから買い物誘ってくれるなんて!」

 某の夏、その日はリンの十二歳の誕生日だった。

 偶然にも休日だったところ、突然チナから連絡が入ったのだ。その内容は、ショッピングモールで買い物でもしないかといった普遍的な誘いだった。親は仕事に出かけていて家にはおらず、リンも暇をしていたので、その誘いをすぐに快諾した。

 現地で待ち合わせをした二人は家でとびきりにお洒落をし、互いに顔を合わせた。いつものように手を繋いで、興味を持ったお店には片っ端から寄っていく。スイーツ店、喫茶店、キャラグッズ売り場。どれもこれも魅力的なものたちが肩を並べていた。その光景は年頃の小学生女児を簡単に虜にした。リンとチナは、あれいいね、これいいね、と賛辞を飛び交わしながら、最終的には決まらず終いになっていた。

 リンの問いかけに、チナは答えた。

「でしょ? でも今日だけは特別!」

「特別……?」

 特別って、どういう意味?

 そう訊こうとしたとき、チナが遮るようにこう言った。

「ねえ、あそこ行こうよ!」

 リンの腕をぐっと引き寄せたチナは、ある一点を指さした。とある店の看板のようだ。英語か、フランス語か、何語なのか、とにかく日本語ではない文字でよく分からない言葉が記されていた。だが、店頭に並べられた品物たちを見て何を売る店か分かった。アクセサリーショップだ。大方、どこかの高級ブランドだろう。

「ね~、行かない?」

 チナが腕をぶんぶん揺らしてそう言った。

「う、うん! 行こう!」

 戸惑いながら返事をすると、チナは顔一面に笑みを広げ、そのままリンを引っ張って店の中へと入った。

 入った瞬間、ショッピングモールのよくある雰囲気とは異なる匂いがした。革の匂いだろうか、嗅覚からも洗練された高級感が伝わってくる。周りを見渡しても、金、銀、つやつやの宝石たちがそこかしこに埋め込まれた、値段がリンをぎょっとさせるカバンや財布だらけだった。チナはこんな素人が手を出すことすら躊躇ってしまうようなものに興味があったのか……意外だ。にしても、チナはこんなセレブのお客様用の店で何を買うつもりなんだろう。確かに綺麗で、学校に持っていけば目を引くだろうが、小学生の自分には『猫に小判』が過ぎる気がした。

 そのとき。リンはチナと繋いでいた手が離れていることに気付いた。あれ? と低声を呟くと共に三百六十度見回すが、姿が見当たらない。一人のリンを棚に並べられた高級品たちが見下ろす。不思議がってキョロキョロとするリン、すると突然、彼女の肩に突然衝撃が走った。

「リン~!」

「うわぁっ⁉」

 後ろから抱き着いたのは、チナだった。一瞬焦ってしまったが、彼女がどこにも行っていないことを知って心底ほっとする。頭を掻きながら、リンは言った。

「なんだチナか~。もう、びっくりしちゃった! 今までどこに……」

 不意に、チナが片手に持った小さな物に目が行った。それはまるでこの世で一つしかないかのように、ぎゅっと、大事そうに握りしめられていた。

「それ、何?」

 リンがチナに問うと、途端にチナは「よくぞ訊いてくれました」とでも言わんばかりに目を輝かせてこう言った。

「これはね……」

 チナは握ったそれをリンに見せると同時に、リンの手中に無理やり押し付けるように、手を強く握った。

「これは、プレゼント」

 チナはぼそりと呟くと、静かに手を離し、右の人差し指を彼女の唇にあてがい、含羞を帯びて嫣然とした微笑みを浮かべ、こう言った。


「お誕生日おめでとう、リン」

「っ……‼」

 驚き半分、嬉しさ半分、リンは弾けるような感情で満ち満ちた。

 そっと手をスイレンの葉のようにして、チナから渡されたものを目視する。小さく、白く、雪なら今にも体温で溶けてしまいそうなそれは、ラッパを思わせる見事な風体の百合の花が象られた髪飾りだった。照明が花弁から吊り下げられた宝石のような装飾品をてらてらと光らせる。チナがこれをあれほど大事そうに握っていた理由が分かった。本当に、この世に一つしかないくらい美しい。例えるなら真夜中を照らし出すシャンデリア。綺麗とか、素敵とか、とにかくリンの持つ語彙では到底この清廉さを名状できそうになかった。

「これ……ほんとに私がもらっていいの……?」

「当たり前じゃん! 今まで上手くお祝いできなかったから、その分まで受け取って」

「そ、そんなこと気にしなくていいのに……でも、ありがとう! これすっごく綺麗でかわいい! ずっと大切にする!」

 リンが満面の笑みで言うと、真似るようにチナも同じ顔になった。

「ううん! こっちこそ気にしないで、余ったお金で買えるのこれしかなくて……気に入ってくれたら嬉しい……!」

 湧き上がるような感動がリンの中で目覚める。自分の誕生日に、家族以外に本気で祝ってくれた人なんていなかった。今この瞬間、チナがリンの手に唯一無二の花を咲かせてくれるまでは。半分あった驚きはなくなり、リンは躍動するような嬉しさで溢れかえったのだった。

「ねえ、リン」

 チナの声がした。リンはチナに目を合わせて、首を斜めに傾ける。

 不意に、チナはリンに抱き着いた。

「わっ……!」

 小柄なチナは正面からリンの背に腕を回し、彼女の胸に飛び込んだ。

「リン、お願い。これのこと、ずっと大切にしててね」

 くぐもった声で、チナは深刻そうにそう言った。小さくて細い声だったけれど、リンにはそれが強い意味を持って聞こえた。

「……もちろん大切にするよ、絶対」

 リンはそう言うと、チナの頭を撫でた。

「でもどうしたの……?」

 訊くとチナはリンから腕を離し、顔を上げて見つめ合った。

「……ううん、なんでもない。ただ私、誰かに誕生日プレゼントなんてしたの初めてだから、こんなものでいいか分からなくて。大切にしてくれるか不安だったの。でも……そう言ってくれて嬉しかった。ありがとう、リン」


 あれから数時間。帰宅したリンは家のベッドの中で、刻一刻と深みを増す夜を過ごしていた。ベッドランプの僅かな光に照らされた時計を見ると、時刻は既にリンの誕生日が終わった後だった。彼女の部屋にはさまざまな店の袋があちこちに放置されていた。そのどれもが、チナと共に何店舗も巡回した新鮮な記憶と結びついていたが、今日一番の思い出の品は袋に入っていなかった。こぢんまりとした百合の髪飾り。おこがましいけれど、リンが付けるときにより一層光り輝いてくれる。その真っ白な色彩が、チナが遊びに行くときにいつも着ている白練のワンピースに似ている。汚れ一つなく、いつまでも艶めいたままでいてほしい。まるでチナと同じだ、リンはそう思った。

 興味本位で百合の花言葉を調べてみた。おあつらえ向きにも、その言葉はいずれもチナのイメージそのものを指しているように思えた。このことを知って選んでくれたのか定かではないが、きっと博識なチナなら知っていたことだろう。いつしかこの髪飾りは、リンにとってチナそのものになっていた。ひんやりした温度も、手のひらから伝わる体温だ。リンの短い髪にすっと挿すと、手を繋いだような安心感が膨れ上がる。肌に触れあったときの感触が鮮烈に思い出されて、なぜだか落ち着いた。一緒にいて最も安らげる、大好きで一番の親友、チナ。

「これのこと、ずっと大切にしてね」

 あのチナの言葉が、いつでもリンに体温をくれた。

「絶対、大切にするからね。チナ」


 *


「……大切に、しなくちゃ」

 カワタレ線車内。リンは髪飾りを片手に、萎れた声でそう呟く。

 あの日、あのとき、リンは誓ったんだ。何があってもチナのことを大切にするんだと。でなければこの麗しい百合の髪飾りが、ただの金属片と化してしまう。そんなことにはさせない。

 もしかしたらリンは、チナを恨んでしまったかもしれない。リンでさえ知らないリンが嫉妬に溺れて嫌悪してしまっていたかもしれない。誰だってそんなことをされれば怒るし悲しむ。でも、たとえ自分が恨んでしまったからって、リンとチナの友情はその程度のことで引き裂けるほど脆弱ではない。自分でさえ知らない自分がチナを恨んだのなら、それは本物の自分が恨んだことにはならない。誰だって胸裏に巣食った別人がいるはずだから。そう考えたくないのに不可抗力で嫌なことを考えてしまう、そんなことは当然の摂理としてある。大体、自分で制御できないものが親友を嫌ったってなんだ。今まで何度もすれ違ってきた。好きなおにぎりの具だけは全く噛み合わないチナとの対立も、些細な事で口喧嘩したときにリンのことを尽く論破してくるチナとの齟齬も、往々にして起こってきた。頭を抱えて、チナと友達をやめようか悩んだことだってあった。それでも、その度にこの髪飾りを思い出して、無理に思えた仲直りだって成し得てきた。

 リンとチナは、親友なんだ。心の中のリンがどう思おうが、本当のリンはここにいる。本物のチナは扉を挟んだすぐそこにいる。この隔たりは大きいかもしれないけれど、間違いなくこの扉の先でチナは手薬煉を引いて待っている。そうだ、待っているんだ。記憶の中にいるチナは、互いのせいで嫌な思いをしたとしても、それを踏み越えて友達でいてくれる人間だった。心の奥底で唾棄し、裏切ってきたような人間を寛恕するなんてそう易いことではない。けれど、あのチナなら――この髪飾りのように白く澄んだ心をしたチナなら、リンのことを許してはくれなくても、「ごめんなさい」の一言くらいは聞いてくれるはずだ。逃げて、逃げて、逃げた先で、ああやって待っているのは、そのリンからのその一言を聞くためだ。「受験のこと、素直に応援できなくてごめんなさい」と言って頭を下げるリンと顔を合わせるためだ。だから、言わないと。初めの「ごめんなさい」が言えなかったら、もう一生このままだ。チナと遠い遠い背中合わせの扉に隔たれて、自分に失望したままだ。そんなこと、チナだって望んでいるはずがない。たとえ「ごめんなさい」の返答が「もう絶交だ」だったとしても、リンはそれを言わなくちゃいけない。いくら悪気がなくても、いくら親友だったとしても、相手を傷つけたなら謝る。それが普通だ。チナがどう思おうと、リンは「ごめんなさい」の気持ちを言葉で伝えなくちゃいけないんだ。

 リンにこんなところで縮こまっている暇は残されていない。今にでもチナのもとで頭を下げるべきなのだ。許しを乞うためではなく、チナに本当のことを伝えるために。

 いつの間にか『声』は聞こえなくなっていた。リンは銅のように重い腰を引きずるように上げ、扉の取手に全体重を乗せる。滑車の付いたそれをゆっくりと右へずらして、一つ目の扉を開け放った。高鳴る心臓に左手を当てがい、リンは顔を上げた。窓に背中がぶつかるくらいのところに、チナはいる。きっとこの扉を開けると再び車両ごと前に移動するのだろうが、次のループできっとリンとチナは同じ車両に居合わせることになる。これでやっと、チナに追いつけるんだ。

 リンは二枚目の扉を開ける。もう何両目かも分からない車両の中。


 チナはその先頭にいた。


「チナ……」

「…………」

 チナに聞こえる声で呼びかけるが、返答はない。風の無い空間に長い髪を靡かせながら、リンはその姿から目を離せずにいた。

 リンはおもむろに前へ進む。コツ、コツ、リンの呼気と心臓の鼓動の音しか聞こえない世界に足音が残響した。

「チナ、どうしても伝えなくちゃいけないことがあるの」

「…………」

 リンに背中を向けたチナは車体の揺れに構わず立ち尽くしている。

「今まで、私のこと許してくれてありがとう」

「…………」

 振り向く素振りも、口を開く気配もない。リンのことに気が付いているのか、それすらも計り知れない態度を一貫する。リンにはチナの顔が見えなかった。

「ずっとしんどかったと思う、私みたいな奴の面倒を見続けること」

「…………」

 言葉はチナの耳に達するまでに、空に吸い込まれ消えてしまったかもしれない。それでもリンは続ける。

「そのクセ、私はチナに感謝もしないで、それが当たり前みたいに過ごしてた」

「…………」

「先生に怒られそうになったときも、私が宿題忘れて焦ってるときも、チナがいなきゃどうしようもなかった」

「…………」

「今日だってそう、ただでさえ忙しいのに私がワガママ言って、チナの貴重な時間を使わせちゃった」

「…………」

「本当に、私ってサイテーな奴だよね。私でも心からそう思う」

「…………」

「……だからね、私、今日チナに本気で謝ろうと思うの。今までのこと、チナに大変な思いをさせちゃったこと、私がワガママ言ったこと、それに……」

「…………」

「……それに、私がチナの受験を応援しなかったこと。」

「…………」

「あのとき、チナは私のためを思って打ち明けてくれたんだよね。私が悲しむって分かってたのに言ったのは、私に隠し事をしたくなかったから」

「…………」

「それだけじゃない。あのときまで、チナは私のためを思って打ち明けないでいてくれたんだよね。私に余計な気遣いをさせないために、チナなりにすごく考えてくれてた」

「…………」

「その全部に、私は気付けなかった。むしろ言ってくれなかったことにイライラして、チナに嫌なことを思っちゃった。今思えばひどいことをしたんだって思う」

「…………」

「きっとそんな私の言うことなんて信じてもらえないだろうけど、それでも私はチナに謝らないといけない。これまでしてきたこと、許してほしいなんて言わない。でも絶対、伝えなくちゃって思うから」

「…………」

 一歩一歩、歩みを進めていたリンは、チナの背後に立った。腕を伸ばせば触れられてしまうくらいの距離、安らぐチナの匂いが嗅覚を振るわせた。ぎゅっと目をつむり、ぱっと開く。

 リンは、心からチナに謝罪の言葉を並べた。

「チナ、今まで本当に、ごめんなさ………………」


 ――――ポトッ。


「……え?」


 ――――ポトッ、ポトッ。


「……何、これ」


 ――――ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ。


「う……そ……」


 リンは頭を下げた形のまま硬直した。恐怖が背中を静かに撫でる。

 チナの立っている床を見たリンは心臓を握りつぶされるように慄然とした。電流を流されたのかと思うほど、手も足も微動だにしない。


 リンが見たのは、チナから滴る赤黒い汁。間違いない、血だった。


「っ……⁉」


 背筋に一本の氷柱を突き刺されたような怖気が全身にまで広がる。同時に、救い難いほど卓抜な強さを見せる虞がリンを牛耳る。次第に呼吸が荒くなったリンは、強烈な臭いを感じ取った。鉄臭く、生臭く、汚臭がする。鼻腔を針で刺すような刺激臭がガツンとやってきた。血が垂れてくる源を目で追うと、チナの純白だったスカートから上の洋服がべっとりと朱色に彩られているのが見えた。

「そんな……どうして……チナ……」

 怪我や疾患で仕方なく出るような血の量ではない。手から、膝から、脚から、至る所から、曲線を撫で描くように一滴ずつ血液が滴っている。丸い血の水滴が落ちると僅かに跳ね返り、どす黒い血だまりが少し広がる。ポタ、ポタ、ポタ。チナの足元を浸した血だまりがとてもゆっくりとリンのほうにも近づいてきた。

 戦慄したリンは焼き付くような床から目を離し、チナのほうを見た。

「ねぇ、チナ、大丈夫?」

 後ろ姿のチナは、何も応えはしない。リンが何を言っても、彼女は血まみれの服に身を包んで棒立ちしている。

 そのときだった。

 チナは声で返答する代わりに、ぐーっと首を横に向けた。

「チナ! やっと返事してくれ……」


「ォ……ア……ィギ…………」

 不可解な声と共に。


「えっ……チナ、何してるの? 本当に大丈夫なの?」

「ァ゙オ゙ォ゙……ッ」

「何やってるの、チナってば……」

 チナが完全にリンの方向を向く。

 リンは、チナの顔を目にした。

「ひっ…………⁉」

 服と胴体に車のタイヤ痕のような凹みをびっしりと並べ、笑顔のまま肉だけ抉り取ったようなチナの顔が、そこにはあった。床に零れ落ちる血液も、その削れた顔面からチナの全身を這って滴っているようだった。

「いっ……いやあああああっ‼‼」

 リンは気付いたときには叫び声を上げながら尻もちを着いていた。節々の関節に全く力が入らない。腰が抜けていることは明らかだった。

「オオオォォォォ…………」

「やめて……なんで……なんで、こんなことするの……」

 チナのような〝それ〟は、黒板を爪で引っ掻くようなグロテスクな音を発してリンと視線を合わせる。それに眼球はなく、黒くぽっかり空いた穴と深紅の液体があるだけだった。どんな闇より深い穴の奥は、今にもリンを引きずり込もうとしているように見える。

 眼のない目を見て、リンは解ってしまった。

 これは、チナじゃない。チナの姿をしただけの化け物だ。

「ィアォエェェェァ…………」

 じり、じり、じり。衣擦れの音と共に、チナが動き出す。リンの方向に、ゆっくりと近づいていた。

「ゃ……やだ……」

 後ろに着いた手で後退りする。血だまりがカーペットのようにチナの足跡を濡らし続ける。自分が元々立っていた位置は、既に臙脂色の海に飲み込まれた後だった。チナは、ぐちゃぐちゃになった笑顔をリンから片時も逸らそうとはしない。

「ア……オェィウウウウウッ……アアァ……」

 リンを追う速さがどんどんと速くなる。後退りでは逃げきれないほど、チナはぐんとリンに距離を詰めた。あっという間に、あと数センチで追いつかれる近さまで迫られたリン。

 ぎゅっと目をつむったとき、彼女はチナから出る音を耳にした。

「リィイイイィィィンンンンンンッ…………」

「……⁉」

「……タァアァ……スゥウゥ……ケェエェ……テエェエェ…………!」

 ぐんっ。

 接吻してしまえるくらいの近距離に、潰れ顔が迫ってきた。

 背を撫でていた怖気が、とうとうリンの頭を掴んだ。


 ――――リンは自らの耳さえ壊れてしまうくらい叫んだ。

 体が反射的にピクっと動く。その一瞬の好機を狙って、リンは床を突き飛ばすようにして立ち上がる。足の裏を強く押し付け、そのままの勢いで真後ろに駆けだした。

 リンは、チナから逃げ出したのだった。


 *


 ひょっとしたら、謝れば許してもらえるかも。頭の隅っこでは本気でそんなことを考えていた数秒前のリンが、まさに愚の骨頂と思えた。

 前言撤回だ。チナは悲しんでも傷ついてもいない。

「リイイイイイイイイインンンンンンンンン‼‼‼」

 怒っているんだ。リンに対して、はらわたが煮えくり返るくらいに、息を巻いているんだ。その証拠に、リンはさっと後ろを振り返る。笑顔のような肉片を見せつけるチナは、走りを止めてしまえばものの一瞬で触れられるくらい、まさに背後にいた。鬼ごっこなんて生易しいものじゃない。捕まればどうなるか、その先に待ち受けるものが死であることを、チナの潰れた笑顔が物語っていた。きっとこの笑顔の仮面の奥には、笑える感情なんて存在しない。不倶戴天の怨嗟で詰まっているはずだ。となれば、これはそう。意趣返しだ。

 駆けだしたリンは、来た道をなぞるようにしてその場から離れた。来たときに万一に備えてすべての扉を開け放しておいたこと功を奏し、リンは直線で走ることができた。そのおかげで来たときの何倍もの速さで疾駆できているのだが、それでも背中すれすれのチナはその速度を簡単に凌駕し、吸い付いてくる。滑るように接近するチナの顔は笑ったまま固められていて、まるでリンを嗤っているみたいだった。

「……フフフ」

 声がした。誰かを――恐らくリンをからかうような、嫌な笑い声だった。今のはたぶん、真後ろのチナの唸り声ではない。

「……クククッ」

 まただ。やはり誰のものか分からない。けれど、リンはこの声にどこか聞き覚えがあった。朦朧とした頭では詳しく思い出せない。

「……アッハハ」

 そのとき、リンは分かった。いや、思い出した。

 この声は、あの『声』だ。

「キャハハハハハッ‼」「ギャハッ! ギャハハッ!」「プククク」「ハハハハッ」「イヒヒヒヒヒヒヒヒッ」「ウフフフフフフフフフ」

 あのときに散々リンをバカにした『声』たちは、リンが追われる側になると、思い切り嘲笑してきたのだった。怒りというより、挫折に近い鬱屈な感情を刷り込まれる。「そんなの嘘だ」と啖呵を切っていたのに、今ではすっかり『声』の言う通りになってしまっている。後悔の味がリンの舌に突き抜けた。

 リンは初めて知った。恐れ忌むものから追い回されるのが、どれほど怖いものなのか。自分を傷つけてくるかもしれないものが、逃げるのをやめれば自分の元に追いついてしまうということが、どれほど戦々恐々とするものなのか。リンは今の今まで知らなかったのだ。

 ……きっと、リンもこんな気持ちだったんだ。

 さっきまでのチナにとって、リンは畏懼の対象だったんだろう。毎日毎日『友情』という呪縛で自由を剥奪してくるリンという人間が、恐くてたまらなかったのかもしれない。そんな人間に、終夜追いかけ回されるのだ。狭い電車というフィールドの中、逃げても逃げても車両の果てまで追い続けてくる。今のリンがそうであるように、心胆を寒からしめる感覚というものをチナは感じていたはずだ。であれば、耐えられなくて当然だ。こんなに醜い血みどろの姿で、リンがしたことに倣って襲ってきてもおかしくはない。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ!」

「マァアァアアアッッテエェエェエエ‼‼」

 それでも、リンに残された選択肢は逃げるのみ。依然として、リンはチナのような姿の化け物と接触するぎりぎりで逃げ続けていた。アハハハ、ウフフフ、『声』たちは絶えず笑いを空間全体に満たしている。チナと仲違いしかけたときを思い出させた殺し文句より、心からリンをせせら笑っている分、タチが悪い。

 恐怖が吹き付ける冷たさ、走って切り裂いた空気の冷たさが、肌をくすぐるように伝わってくる。汗が背中と髪にじんわりと滲み出て、さらに寒さが増した。ぐっと力を込める爪先が痛む。心も体もヘトヘトになりながら走るリン。もっと走る速さを上げないと追いつかれるというのに、無抵抗にも速度は衰えるばかりだった。

「まずいっ……!」

 咄嗟に振り返ったそのときには既に、チナはリンの髪の毛に顔をへばりつかせる寸でのところにいた。その異形な形相に、リンは何度見てもぞっとする。真後ろを向いていたリンは、一歩先に敷かれた金属のプレートに気が付かなかった。疲れ果てたリンの脚は、そのたった少しの段差を乗り越えることさえできなかった。カコン。

「うわっ……」

 リンは静かに前に転ぶ。おでこをプレートの凹凸に擦りつけたせいで、げんこつのような痛みを感じた。

 はっとして顔を上げて後ろを振り返る。原型の留めていない顔をしたチナが、もうすぐそこにいた。コツ、コツ、コツ。ゆっくり、一歩ずつ、リンに近づく。

「ミイィイイィイ……ツゥウ……ケエエェッ……タアッアァァッ」

「やめてっ……来ないでっ‼」

 喉が焼き切れるくらい強く叫ぶ。またもや後退りの体勢になってしまったリン、だがさっきとは違って、立ち上がって走り出す力は残されていない。もう心も体も限界なんだ。泣きそうになるのを押し殺しているリンにとって、眼前の光景は絶望以外の何物でもなかった。

「ァアァアアァアア……ソォオオォ……ボォオオオオッ‼」

 もうだめだ。

 そう思ったそのとき、目にきらんと反射した光が入り込んだ。銀色の取手が眩しく目に映って初めて、リンは自分が今車両と車両の境目にいることに気が付く。これはリンが繰り返し開けた扉の一枚だ。そのとき、リンは車両の中にいたが、チナは車両と車両の連結部分にすっぽり収まっていた。

 引きずるようにして脚をお腹にくっつける。リンは最後の体力を振り絞り、ばねのように跳ねて立った。刹那的な早さで取手を握り締める。

「おりゃあっ……!」

 リンは扉を閉めた。横に滑った扉が、リンとチナの間を分かつ。一枚の壁で空間を分け隔てられたチナは変わらぬ醜い顔面を晒し、首を三十度ほど傾けこちらを凝視していた。そしてリンは改めて自覚する。自分は今の瞬間に、チナを拒絶してしまったんだ、と。遅らせていた疲れが、今になって押し寄せる。不安定な喘ぎで息をしながら、リンはその場で匍匐した。あのチナはどうやら、扉を開けて追ってくることはしないようだった。今もなお、ぴしゃりと閉ざされた扉の前で立ち尽くし、目のない目でリンを視界の真ん中に捕らえ続けている。逃げ切ったことへの安堵を感じるより先に、未だ残留する恐怖と悔恨が心臓の中を満杯にしていた。


 ……でも、これで終わったんだ。チナのようでチナではない、怪異のような何かに追い回される地獄のような時間は終わった。そう考えると、胸をなでおろすまではいかないが、幾分か溜飲は下がった。

 一体、本物のチナはどこに行ってしまったんだろう。探しに行きたいけれど、あの化け物がいる中を飛び出して行くことは不可能だろうし、第一リンにはもう抜け殻くらいのスタミナしか残っていないのだ。リンにさえ、これから何をすればいいのか分からなかった。これからずっと、マヤカシに怯えながら電車の中で座り込むしかないのだろうか。そんな果てしない不安がリンの頬を撫でた、そのときだった。


 ――――ポトッ。


「……あ」


 ――――ポトッ、ポトッ。


「……そんな」


 ――――ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ、ポタッ。


「どうして……どうしてここに……っ」


 顔を上げたリンが目にしたのは、視界を埋め尽くすくらい巨大に映ったチナの顔だった。くり抜かれたような目と口から絶え間なく血を吐き出し、足元に新たな血だまりを作ろうとしている、チナの顔だった。

「いやっ……来ないで……来ないで……っ!」

 首と笑った潰れ顔から垂れた血液は、涙のようにチナの青白い頬を伝い、リンの茶色い髪の一部を緋色に染め上げた。開ききった目で何も言葉が出ないリンに、チナはぐちゃぐちゃになった顔面を突きつける。彼女は両手をリンの方へ、そっと伸ばした。チナは、笑顔のない笑顔でリンを抱き寄せた。

「う…………」

 親友からの抱擁なのに、何一つとして暖かくはなかった。チナと手を繋いだときに感じるひんやりとした気持ち良い感触はない。むしろ体温が少しずつ体温が吸われていくように、冷たくて暗い深海の底にいるような気分になった。垂れてきた血がリンの眼球に落ち、見える世界が紅色になる。べとべと。ぎちぎち。縄を縛り付けるかのように、チナの腕はリンを絡め取った。肺が圧迫されて呼吸ができない。苦しい。肌から温度が霞のように消えていくのが虚しいほどよく感じる。だんだんと意識が遠のいていく。ポトッ。また目に血が滴った。視界を染めていた赤の濃さが倍になり、そこから見えるチナの姿はさらに不明瞭になる。抱き締める強さは弱まることを知らず、リンの首から上までもをうっ血させた。酔っぱらったように見えるものすべてが歪む。朦朧とした脳が鉄球のように重く、リンの首を引きちぎって地面に落ちそうなくらいに存在感を強めた。身がぎしぎしと軋む。リンはチナの腕の中で、本当の限界を迎えようとしていた。

「チ…………ナ…………」


 リンは驚くほど呆気なく、その意識を途絶えさせたのだった。














 ――――ピンポン、ピンポン。












 ――チナ――



 心の中では、ずっと前から気付いていた。

 今夜、カワタレ線の中で経験したことは、すべてマヤカシなのだと。リンが今の今までいた世界そのものが、まるでプラネタリウムみたいにリンを包囲して別の夜空を見せるような、つまりはまったく偽物の世界だったのだ、と。きっと現実のリンは眠らされていて、マヤカシを見ているときは魂や心みたいなものだけがマヤカシの世界に飛んで行っていたのだろう。その証拠に、肉体的な疲れはマヤカシと共にどこかへ飛んで行っていた。もちろんそれだけではない。マヤカシの世界があれほど残酷だったのは、リンの心の中に大好きなチナへの負の感情が隠されていたからだ。リンに植わり腐った妬みや嫉みが体の外からはじき出されて、結果的にそうなってしまった。そう考えれば、起こったすべてに説明が付く。


 だから、『王寺、王寺です。この電車は、この駅までです』というアナウンスの声で目を覚ますことができたのだ。


 カワタレ線の噂にあった。マヤカシは、電車が終点に着くと解ける。リンとチナの関係だって、マヤカシの中のような恐怖に冒されたものではなくなる。いつもの親友としての二人で、仲睦まじい日々がまた始まるのだ。「大丈夫?」と心配してくれて、「怖かった」と答えれば、「大丈夫だよ」と言い、強く微笑んでくれる。チナはリンよりも小柄で控えめな性格なのに、そういうときは特に他の誰よりもリンの支えになってくれた。手を繋げば暖かくて、この澱んだ夜の世界さえも吹き飛ばしてしまうチナが、また隣にいる。

 そう確信して、リンは疲れた笑顔を浮かべたまま、チナと繋いでいた手のほうをぱっと見た。

「チナ! 大丈夫だった?」

 そこに、チナはいなかった。



 電車のドアが、役目を果たしたように開け放しになる。だが、リンは電車の外には出なかった。ただひたすらに、電車の中にある扉を開けてはチナの姿がないかを捜し回った。どこにもいない。影も形も、跡形もない。カワタレ線に乗り込んだときの場所に立ってみても、いくらチナの手の感触を思い出そうとしても、チナはどこにもいなかった。

「なんで……? 一緒に乗ってきたんだから、絶対ここにいるはずなのに……なんでいないの? チナ……」

 あのとき、この電車に、あのドアから、チナの手を引っ張って乗り込んだ。これはマヤカシではない、無謬の事実だ。だとしたら、手にチナの温もりがないこの現実は何だというのだ。一気に体温が下がるような肌寒さを感じ、リンは自らの体に腕を巻き付ける。マヤカシの中で、死を連想するくらい強い抱擁を受けた朧げな記憶が脳裏に過ぎり、リンは咄嗟に頭をぶんぶんと横に振った。

 そのとき、何か硬いものが電車の汚い床に落ちる音が響いた。身をすくませながら音のした方向を見る。

 そこに落ちていたのはあの髪飾りだった。元々は白金のような鮮麗さを持っていたように見えるそれは、既に輝きを失った後の金属片だった。百合だった装飾は床に落ちた衝撃で真っ二つに割れてしまっていた。リンは屈んでそれを拾い上げる。

 ゆっくりと、リンの記憶が蘇ってくる。黒一色に塗りつぶされたその記憶は、鮮明に色彩と輪郭を帯びた。まるで誰かがリモコンの再生ボタンを押したように、リンの中で忘れていた無音の記憶が流れるように押し寄せたのだった。


 *


 とある二月十五日。

 その日は、チナの誕生日だった。リンはいつものようにチナを公園での遊びに誘い、いつものように振る舞った。まるで今日がチナにとって特別な日であることを、すっかり忘れているかのように。それには大きな理由があった。リンはチナに、大きな花束を用意したのだ。もちろん小学生なりに折り紙で作った張りぼての品だが、丸々一カ月かけて、リンの不器用な手で、一つ一つ丁寧に折ったものだ。

 リンは「少し電話してくるね」とだけ言い、チナのもとを離れた。古びた公衆電話の裏に隠して置いておいた花束を抱え、「サプライズ!」と言ってチナの前に現れる。そして、びっくりした表情を浮かべるチナにリンはありったけの『ありがとう』を込めて花束を握ってもらう。驚きと緊張で張り詰めたチナの心は気持ちよいくらいに解けて、「こっちこそいつもありがとう」という欣然とした言葉を受け取ったリンは、感涙に咽ぶ思いが抑えきれなくなって、チナの小さな体に抱き着く。最後には、「お誕生日おめでとう、チナ」と言って、最高の一日をゴールインするのだ。そんなウキウキした気持ちで、リンはチナがいる方向に向かった。それが捕らぬ狸の皮算用となってしまうことなど、知る由もないまま。


 突然、大きな音がした。どんな音だったか記憶にはないけれど、とにかく爆音が辺りに散らばったということだけ覚えている。あまりにいきなりの出来事だったから、リンは思わず身を縮めて驚いた。何か事故でもあったのか、恐ろしい世の中だ。そのときは他人事のように思い、チナのほうへ歩みを進めていた。何歩か前進したところで、リンは妙な胸騒ぎを感じた。理由は分からないが、リンはいつの間にか早歩きになっていた。冷や汗がぽつぽつとアスファルトに落ちる。

 リンがチナのいたところに着いて、その胸騒ぎが的中していることに気が付いた。凍えるような寒さの中、リンが見たものはあまりに衝撃的で、残された記憶の中で最も激しい色を伴っていた。


 チナは道路に飛び出て、車に轢かれてしまっていたのだった。


 失意のうちに取り落とした紙の花束が真っ赤に濡れて初めて、リンは足元のアスファルトが血の池になっていることを知った。車の下敷きになったチナはそのとき既にチナではなく、整った顔がぐちゃぐちゃに潰され、胴にびっしりとタイヤ痕の付いた肉塊だった。生臭いものが鼻から喉に、喉から脳に、冷気と共に瀰漫する。頭がくらくらして、むせ返るような寒さがリンを包み込んだ。

 気付いたときには、周囲に赤い光がらんらんと立ち込めていた。どうやらその光たちは通報を受けてやってきたパトカーから発せられたもののようだった。鼓膜と網膜が腫れぼったくなって、光も音もリンの中には入ってこなくなる。リンは叫んだが、その声も、喉の震えも、記憶の中から抜け落ちてしまっていた。ただリンを呪っていたのは、途轍もない後悔だった。

 自分が目を離したから、自分が余計なことをしたから。

 もし自分が目を離さなければ、自分が余計なことをしなければ。

 渦巻き状になった感情の数々は、リンの心を隅から隅まで崩壊させた。底なしの責任感と喪失感の沼の中に突き落とされたような、苛烈な心境に立たされる。一抹の疑問さえ抱かせぬ、完全な『死』――もとい、『親友の死』という事実に、リンは暗澹たる絶望を痛感した。リンは逃げ出した。現実から、事実から、認めるべき、受け入れるべき真実から。逃げて、逃げて、どこまでも逃げて。逃げた先にあったのは、「自分に嘘を吐く」という選択肢だった。

 リンはチナを失ったその日から、自分にしか見えないチナと過ごすようになったのだった。

 学校へ行くときも一人で誰かと手を繋ぐような素振りをして。何もいない虚空に向かって、「今日はどこに遊びに行こうか?」と言って。「おそろい」という言葉と共に、二つセットのアクセサリーをリンだけが着ける。これが、リンがリンに吐いた嘘だった。チナが学校に来ないことに皆が心配と不安を抱える中、親友であるリンだけは違った。なぜなら、リンの隣には常にリンにだけ可視なチナがくっついていたからだ。

 案の定、リンは周りから、家族から、友人だった者から、親戚から、変質者のような目で見られることになった。当然ながら病院――それも精神病院に連れていかれ、それらしい病名も診断された。が、リンにはその理由が甚だ理解できなかった。いつものようにチナと学校に通い、チナと話し、チナと帰り、チナと遊んでいた、それだけのことなのだから。そのチナが透明で、本当はそこに誰もいないなんて、リンは気付きもしなかったのだ。


 次の二月十五日の今宵、カワタレ線に乗るまでは。


 *


 光を失った眼で、リンは理解する。

 カワタレ線に乗ってからの出来事がマヤカシなのではない。

 今までチナと共に過ごしてきた一年間こそがマヤカシだったのだ、と。ずっと「あれは幻覚だ」と自らを落ち着かせていた電車の中のチナが本物で、一方的な強い愛を注いでいたチナは虚妄の産物。

 既に精神の欠片しか残されていないリンに、そんな現実を受け止める余裕など、どこにもなかった。

 それを突きつけられて、生きていくつもりはなかった。


 ふと車内で、吊り革をぶら下げているパイプのようなものに目をやる。それはリンの頭上にあったが、偶然にも小学生でもぎりぎりジャンプすれば頭をぶつけられそうな距離にあった。リンはおもむろに、迷いなく、自分の腰に巻いていたベルトを外す。締め付けるものを失ったスカートが、リンの腰から半分くらい滑り落ちた。リンはベルトを投げ縄のようにその一端にパイプの上を通過させて、向こう側に垂らす。そして、握りしめたもう一端とそれを固く結んだ。輪になったベルトは想定より少し高い位置になってしまったが、床からそこまでの高さが自分の背丈よりも高かったから幸いだ。

 土足のまま、座席のシートの上に立つ。円になったベルトを手繰り寄せたリンは、ぶらぶらと揺れるそれを自分の首にぐっと近づけた。頭を首まで、その円の中にやさしく通す。そこから見える世界は、なんだかいつも見ている世界とは違う気がした。


 リンは座席を強く蹴って、前へ飛び出した。

 きゅっと音を立てて、重力に引っ張られるリンの首をベルトだけが上に引っ張る。足は床に着かず、今もなお空中に浮いていた。息を吸って吐く行為を、首を吊ったままではできないことは明白であった。リンの体重が体を下に引き込めば引き込むほど、ベルトが命を絞める。ぎちぎちぎち、と嫌な音がする。リンはそれが自分の首から出ていると知っていたが、今更どうにもしなかった。徐々に視界が湾曲していく。まるでスリーディの映画を、色眼鏡を掛けずに観ているような、奇妙な映像のようになった。呼吸ができなくなったリンは息苦しい思いをする。痛くて痛くて、今にも逃げ出したくなるくらい痛かった。鼻からも口からも、入る酸素はなくなり、気付けば肺は飛ぶように、ひっく、ひっく、と震えていた。

 それでもリンは、首を吊るのをやめなかった。

 とうとう頭がぐらぐらとしてきたリンは、脳の血管が破れるような痛みを味わった。もうまもなく、リンには『死』が訪れる。

 この『死』は、リンをどこかへと連れていってくれる『死』だ。

〝誰か〟のもとへ連れていってくれる、愛ある『死』だ。

 その誰かが誰なのか、リンは知っていた。


 死の寸前、リンの目の前にはチナがいた。


 笑ってしまうくらいに綺麗で、可愛らしくて、幼気で。もちろん血まみれではない。リンは穴が開くほど見たことのある、まるで天使のように美しい、チナの姿だった。チナはリンに、暖かな微笑みを、蝶のように華麗に飛ばした。その微笑みの蝶が奪い去ったかのように、絞首の痛みは感じなくなっていた。チナは本当に天使だったのかもしれない。彼女はリンに、透き通るような白い手をすっと伸ばす。ちょい、ちょい。チナはリンに手招きをしていた。続けざまに、チナは何やら口をぱくぱくとして、言葉を発した。もう耳が音を拾わなくなってしまっていたから、何を伝えてくれたのか分からない。でも、リンはその言葉がリンにとって最高に幸せなことだということは、何をせずとも直感できた。


 窒息で歪んだリンの顔も、釣られて笑ってしまった。

 掠れて、リンでさえ聞こえない、小さな小さな声で、リンは言う。


「ずっと一緒だよ、チナ」


〈了〉

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