第三話 前夜―The Yester Night

  正夢電鉄―カワタレ線

 第三話 前夜ぜんや―The Yester Night


 燕子花かきつばたさま


 とある町の、とある駅。


 そこには、過去への思慮を抱え込んだ人を乗せ、夜半の町を歩く一本の電車があった。噂によればその電車は、乗客に一つだけ『マヤカシ』と呼ばれる幻覚を見せてしまうのだとか。一度乗ってしまったら、車体の遠影が碧空に尽きるまで、マヤカシは解けず乗客にまとわりつく。


 その電車はいつしか、『カワタレ線』と名付けられた。


 カワタレ線は、今夜も待っている。

 記憶という長い線路を進む人を。

 決意という改札口を通り抜けた人を。

 現実という遠い終点を目指す人を。

 カワタレ線は扉という名の大口を開けて、あなたを飲み込もうと待っている。そして今夜も、誰かがカワタレ線へと乗車する。月のない闇夜が染み入るほど、前照灯はその深みをゆっくり溶かす。

 今夜はどんな人がご利用になるのだろうか。


 ――――明けぬ夜を待ち望むなんて、変わった子だ。


 *


――アカリ――



 午後六時を報ずる鐘が三時間前に鳴り終わった実感は、まるでない。ガタンゴトンと酔いを誘う電車の揺れに頑なに逆らいながら、片手で本を持つ。アカリが挿絵も載らないような手帳サイズの小洒落た本を好むのは、読書中にももう片方の手を余すことができるからに他ならない。これといって大した理由ではないのだが、どうも両手を塞いでしまうと無防備な自分が世界に曝露されて、読書に没頭するどころではないような気持ちになってしまうのだ。そもそも読み物があまり好きではないアカリがこうしているのは単なる暇つぶしに過ぎない。今どき暇つぶしのためのスマートフォンなんて小学生でも持っているのだろう。町を歩けば自然と歩きスマホをする人々が目につく。それだけ電子機器は空蝉に横溢しているというのに、アカリはその文明の利器に触れる自分を想像できなかった。なぜなら、あの四角くて黒い板がどれだけ子供の心を魅惑の奥底へ飲み込むものなのか、それを手にしない彼女はよく知らないからだ。さはさりながらも、中学生にまでなって端末の一つも持っていないという自分の境遇が珍しいものであるということは知っている。とはいえ親に強請って買ってもらうなんて言語道断に等しい。だからアカリは今宵も一つの興味もそそられない黄ばんだ頁をめくるのだった。世間が、やれデジタル人間にはなるな、アナログ人間にはなるなとあたじけないことが囁く中で、アカリの行いは文芸的で素晴らしいと称賛されるべきもののように見える。けれどその中枢には文学への関心などこれっぽっちもない。むしろ本のような空想からも、その外側に広がる現実からも目を背けることしか眼中にないのだ。そんなだから、アカリは本に感けることなどできた試しがない。主人公が仲間の手を取ったときの思いとは。この物語が伝えたいこととは。物語の中に出てきた彼が放った名台詞に込められた意とは。緻密で繊細な情景描写の面白みとは。

 形骸化した感受性しか持たないアカリには、霞のように霧散するそれを感得することはできない。感銘も感嘆も、いつの間にか感じなくなっていた。ただ漠然と、それが虚しいと感じている自分がいる。


 それはきっと、あいつも同じように思っているはずだ。

 アカリは本から視線を外して真正面を見る。彼女は相変わらずアンニュイなムードを醸成し、電車の窓枠に肘を立て、頬杖を突き、ガラスの外に降りた夜の帳をぼうっと眺めていた。その少女は意地でもアカリと目を合わせようとしない。優しく肩をくすぐるくらいの長さまで伸ばした髪をぶらんと垂らし、身の丈に合わないチェック柄のスカートを腰から下げた彼女の名は、ユカリ。


 二人は双子の姉妹であった。


 アカリは呆れに呆れ、はあ、と大きな溜息を吐いた。我慢の限界を目前にして痺れを切らし片手間に目を通していた本をぱたんと閉じる。電車の中には二人以外誰もいないからと大きめに音を立てたつもりだったが、ユカリは瞬きの反応も示さず依然として外を見つめ続けた。

「拗ねるのも程々にしろ、ユカリ」

 アカリは低声に語気を強めて言った。温厚な性格とは程遠い彼女でさえも、発言の中にイライラをここまで露骨に込めるのは久しい。

「……私、別に悪くないし」

 つんとした声が跳ね返ってきた。目を凝らすと、ユカリがさっきより細目になって、明白 に拗ねた表情を浮かべ夜景に顔を向けているのが見える。アカリはもう一度大きな溜息を撒き散らした。

「悪いとか、悪くないとか。お前はそういうことに論点をずらしすぎだ。いい加減、何かあったときに逸って潔白を証明しようとするのはやめろ」

 アカリが早口になってユカリを諫めると流石のユカリもお説教にはどきりとしたらしく、不機嫌甚だしい眼をしてアカリをぎろりと睨んだ。一息漏らしたユカリは唇を尖らせる。

「そんな言わなくたっていいじゃん……! 全部私のせいじゃないんだし。それにアカリだって……」

「全部じゃないかもしれないけど、ほとんどユカリのせいだろ……!」

「ぐぇ……」

 アカリからの正論の一撃を顔面で受け取ったユカリはノックアウトされ、不服さを全面に押し出すように眉をきゅっと絞った。顔を斜め後ろに沈淪させた彼女は、気後れしたように目を泳がせる。

 居た堪れないくらい不毛なやりとりが空中に舞い上がる中、アカリはこうなった経緯を一から思い出していた。


 *


 アカリとユカリは双子の姉妹。二人は、とても似ていた。同じデザインの鞄を持って学校へ通い、同じタイミングで夕飯を食べて眠り、休みの日となれば同じような服を身に着けて出かける。その他にも、体重、身長、血液型から髪の生える速さに至るまで、異なるところを見つけ出すことは至難の業だった。

 ただ一つ、性格を除いては。妹のアカリは誰に対しても冷淡で、加えて類まれな知性を有していた。一見しただけなら、文字通り『天才』と評価するくらいが妥当だろう。だがしかし、アカリのことを少しでもよく知っている人物ならば、「アカリちゃんって冷たいけど頭良いよね」と言うことはお門違いであるということも知っている。なぜなら、アカリの性格を言い当てる言葉は『ずる賢い』に収束するからだ。たとえじゃんけん一つ採っても独善的に勝とうとする彼女の性格は、いかなる人からも朴訥で飾り気のないものとして映るのだった。対して姉のユカリは、どうしてか、自分にさえ冷たく接するアカリに対して非常に強い愛着を持っていた。アカリがそれを拒んでいるのにも関わらず、ユカリは毎日アカリを寵愛したくて堪らないさまである。そうかと思えば、アカリ以外に対するユカリの振る舞いはどこまでも控えめで他人行儀じみており、まるで他人からの干渉を拒絶しているようにも、怯えているようにも見えるくらい恭しい。それだけ、アカリにだけ見せる顔は特殊といえた。

 正反対の彼女らが共通して持つことが、容姿以外にもう一つある。

 それは、互いが互いのことを心の奥底では大切に思っているという点だ。腐れ縁というある種の信頼のもと、それが相違することはない。


 ……ないはずなのだが、今日はそれが少し瓦解してしまったらしい。

 二人は今日、迷子になった。親とはぐれたとか、アカリとユカリとで離れ離れになったとか、そういうことではなく、ただ単純に家への帰り道が分からなくなってしまったのだ。事の発端は、ユカリが二人きりで隣町の商店街へ行こうと言い出したこと。あちらこちらと連れまわされた挙句、見知らぬ街路に二人佇んでいて初めて、迷子になったことを自覚した。途方に暮れた二人は溜まりに溜まったフラストレーションを開放し、瑣末な大喧嘩を勃発させた。お前のせいだろ、いいやそっちのせいだ、と、近くの雑木林から烏でも飛び出ていきそうなほどの大声で論い、あらゆることに託けて非難し合った。それが続くこと約五分、こんな塵芥にまみれた言い争いをしていても茶番にしかならないと踏んだアカリは論争を一時中断して、家に帰るための駅を探すことにした。互いに不平不満をぶつけながらもやっとの思いで見つけ出した駅で、アカリは憤慨するユカリを半ば引きずるようにして電車に乗り込んだ。がらんとした車内、二人は一言も交わさず向かい合った席に着く。狭い空間に呉越同舟し、目のやり場に困った姉妹。とどのつまり、アカリは鞄の中に収めていた本に、ユカリは窓の外の夜景に、視線を逸らすしかなかった。ひどいノイズと共に電車の扉が閉まり車体が動き出した後でも、アカリとユカリの間には射るような静電気が走っていたのだった。


 *


「……ごめん」

 先に謝ったのはユカリのほうだった。今まで幾度となく火花散る舌戦に発展してきたが、そういうとき贏輸を左右するのは決まってアカリである。いくら二人が対峙しても彼女らの力量の差は力士と幼児だ。どちらが力士かは言うまでもなかろう。まさに多勢に無勢な差を前にして、ユカリは一度もアカリを言い負かしたことがないのだった。

 アカリはチャックの開いた鞄の中に、読みかけの本を仕舞い込みながら言う。

「まあいい。結局はどうにかなったからな。次からは気を付けろよ、まったく」

 彼女ら以外に誰もいない密室に、その声は響めく。ユカリが素っ気なさそうに頷いたのを最後にして、喧嘩のギスギス感と二人の視線はぷっつりと途切れてしまったのだった。


 何分くらい経っただろうか。もうそろそろ次の駅に着いてもおかしくない。とはいえ、アカリたちの最寄り駅まではまだ相当な距離がある。本来なら気長に待っていられるのだが、この沈黙があと三十分も続くとなるとどうにもむず痒い。かといって再び本をただ見つめるだけの暇つぶしをするのは勘弁だ。尻がむずむずするほど居心地の悪い一室で、いかに時間を食い減らそうか。そう顧慮しようとしたときだった。

「……仲直り」

 対岸からぶっきらぼうな声が飛んできた。

「何のつもりだ」

 アカリはユカリに、ぶっきらぼうさを増幅させた声を飛ばし返す。

「だから、仲直り」

「はあ……?」

 聞き間違いでないと分かったアカリは思わず聞き返す。学校の先生に強制されて初めて「ごめんなさい」と言うようなユカリがこんなにも鹿爪らしい発言をしたのは、少なくともアカリの前では一度もない。首を傾げてしまうくらいユカリらしからぬ言動に思考が止まる。

「しないの? 仲直り」

「仲直りって……わざわざする必要あるか? 第一もう謝ったんだし、するだけ時間の無駄……」

 そう言いかけたところで、アカリの言葉は溶けるように消えた。ユカリが仲直りをしたがった理由を推し量ったとき、分かった気がするのだ。ユカリもこうなることは不本意で、謝らないと頑固になってしまったが故に仲直りのタイミングを失っただけだと。うまく言語化できない気持ち悪さは残るものの、アカリはユカリの素直な姿勢に絆されていた。

 アカリはまたもや、はあ、と溜息を吐く。

「はいはい、仲直りな」

 話をおざなりにするように、アカリは手をひらひらと払いながらそう吐き捨てた。ユカリは目的の「仲直り」が達成されると満足げにアカリを瞥見したのち、何も口にすることなく座席の端にもたれかかった。

 相性の悪い二人の間には、稀に喧嘩が起こる。だが最終的にはこうして和解に逢着し、そしてまた、普通の関係が一本の糸のように連綿するのだ。ユカリがアカリに、それこそ今日の態度では想像できないくらいベタベタとくっつき、アカリがそれを白眼視しながら拒み、またくっつき、また呆れ、そんな一風変わった、双子としての関係が。

 手持ち無沙汰になったアカリは数分前のユカリを真似て、窓の外を眺め遣る。そこに広がる陽がまどろんだ世界は、夜空全面に散らされた佼しい宝石に支配された後だった。遠くに見える山と月は、この電車がどこまで行こうとアカリたちを追駆してくるようだ。それに比べて近くの家や空き地は、呆気ないほど視界の端へつるりと消えていく。落葉を掻き混ぜる風の音を聞こうと耳を澄ましても、入ってくる音色は車体が縦横に揺れる音のみ。期待外れのように思えたそれが、むしろそれは窓から観望できる光景を映画のような雰囲気に仕立て上げたのだった。

 なんだ、これならつまらない本なんかよりもよっぽど風情があるし、暇つぶしにもなったじゃないか。アカリは思わぬ絶景に舌を巻かされた。

 雄大な風景をじっと見ていると、細かいことなどはどうでもよくなってくる。喧嘩なんてなかったのも同然だ。それこそ、ユカリはこの夜景を見て「仲直り」などと言ってきたのかもしれない。強情な割に他から影響を受けやすいユカリなら、これは簡単に彼女の琴線に触れたことだろう。ユカリが珍しいことを言い出した理由が、何となく解った気がした。


「ごめんな」

 アカリは何の脈絡もない謝罪を開陳した。自分の口から発した声を耳が拾って耳を疑う。自分は今、何を言ったんだ。意識の外で零れ出た言葉は、ユカリだけでなくアカリをも驚かせた。

「アカリ……?」

 予想通りの当惑した声が、ひょろひょろと流れてくる。講釈の余地のないアカリが口を塞いだために一粒ほどの沈黙が流れたが、ユカリの声はその静寂を軽々と裂いた。

「……えへへ、私もごめんね」

 そう口にしたユカリの相好は崩れていて、口角の上り方が稚さを物語っていた。さっきまでのつんつんとしたオーラはどこにもない。幼気に小鼻を指で撫でながら微笑むユカリは、アカリの言葉をもってしても言い表せないような愛くるしさを包含しているような気がした。

 アカリの眉がくっと上がる。ごくわずかな時間を空けたのち、アカリはユカリの言葉に続きを紡ぐ。


「……何をへらへら笑ってんだ。まったく、呆…………」


 ――――パチンッ。


「きゃあっ⁉」

「は……?」

 アカリが伝えたかったことを掻き消したのは、火花が爆ぜるような素早く乾いた音だった。しかしながら、アカリとユカリが驚いた起因はそこにない。パチンという音が嫌な予感を耳元まで届けたそのとき、さもさもそれが電気の配線を引きちぎったかのように車内の電気が予兆もなしに消えたのだ。斑のない黒が敷き詰められ、一瞬にして果てしなく『光』という概念が焼き払われてしまった完全な密室は、眼瞼の裏よりも、新月の夜よりも、深く深く惣暗に堕ちた。瞬きの瞬間を記録したビデオテープの中に閉じ込められたように視力の効かない世界を体感し、不安の雨が篠突くように二人を襲う。即座に身の危険を感じたアカリは、すぐさまその場で屈み込む。ガタタタタ、と車体が小刻みに震えながら進む音が、アカリの細かい呼気とその音に混ざり合った。

「何これ……停電?」

 ユカリが疑義を露呈する。間髪入れず、アカリはその問いに答える。

「バカ、停電したわけないだろ」

「で、でも電気が……」

「電車は走り続けてる。それに、暖房の駆動音もしてるだろ。電気の供給が止まったのなら、この類のものは全部止まる。だから消えたのは電気だけだ……」

 ……言葉に句点を付けようとしたとき、薄気味悪い違和感がアカリの頭に入り込んだ。

 辯駁されたユカリは小声で「そ、そっか」と納得する。それを気にも留めず、アカリは訝しげに暗闇の中央に立った。床の揺れがアカリの平衡感覚を奪い今にも転ばせようとしている中、彼女は手を無造作に振り回す。空調から吐き出されたであろう暖気を振り払った手は、早々にこつんと何かにぶつかった。触感からして細く縦長なものだと分かったアカリは、それを左手で強く握り締める。そこでようやく、それが鉄製の握り棒だということに気が付いた。ぐっと体を寄せて揺れから体勢を守り、アカリは余った方の手を至る所に伸ばし始める。

「アカリ……?」

 不安でユカリの声が震える。アカリは一言「静かに」と返し、さらに右腕を先へ伸ばした。すると、アカリにも見えない指が、再び何かに触れた。今度は握り棒のような曲線を成してはおらず、平面だ。指先でつうっとそれをなぞると、爪の先端に冷水のようなものが付着した。先ほどの握り棒よりも冷えたそれは、どうやら結露したガラスのようだ。手のひらを押し付けると、つるつるした鋭感が手のひらに伝わった。

「アカリ? 大丈夫なの?」

 アカリの独り言に、ユカリから心配気味な声がやってくる。アカリはユカリに、かねてから感じていた薄気味悪い違和感の正体を打ち明けた。

「なあユカリ、おかしいと思わないか? 電気が消えただけなら、窓から明かりが入ってくるはずだろ。それなのに、今は何も見えない……」

「それは……あれじゃない? 窓からの光を遮るやつとか……」

「確かめたが、少なくとも近くの窓にブラインドは掛かっていない。それに仮に掛かっていたとしても、薄明りくらい射すだろ」

「た、確かに……」

 ユカリの相槌を最後に、その場は疑念だけを残して静まり返った。線路の上を駆け抜ける音が、今までよりいっそう強く首をもたげる。ユカリの言うようにこれがただの停電であれば楽だったのだが、走行中の電車では配電盤をいじることもできない。第一、電力を使う装置が数ある中で電気だけが消えていることは言わずもがな、外の世界の光が車内に一本も届かないという奇怪な現象に巻き込まれている今、車掌が電車を止めようとしていないこと自体おかしいことなのだ。考えれば考えるほど、自分が置かれている状況が現実的でないことに、アカリは苛立ちまで憶えた。

「ねえ……アカリ、どうしよう……怖いよ……」

 加えて、これだ。ただでさえ怖がりなユカリがこの状況をまともに受け止められるとは到底思えない。人は完全な暗闇に十数分でも放置されると乱心し、狂気に蝕まれたように発狂してしまうという。だがそれは正常な人間での話。剰え精神年齢が極端に幼いユカリともなれば、あと何分耐えられるか、想像にかたくない。

「さて……この状況でどうする……?」

 苦虫を噛み潰したような不味い表情を浮かべ、なるべくユカリの耳に入らないくらいの声でそう呟いた、そのときだった。


 ――――ピ、ビピッ……ビビンッ。


「うわっ…………」

 古臭い白熱電球に電流が流れたような、今にも焼き切れそうな音を放って、周囲が明るさを取り戻した。音に伴って明かりが点いたようだ。急な明度の変動に、アカリの目は眩れる。ぴっちりと閉ざされた瞼をゆっくり押し開け、警戒するように辺りを四顧した。


 直後、アカリは絶句した。


「なんだよ……これ……⁉」

 まず目に飛び込んでくるのは、赤だ。血にも紅蓮にも似つかない、鋭くて鈍いような、鮮やかでいて濁りきったような、絶え間なく彩度を変化させ続ける朱色の光だった。蛍光灯から発せられたそれがアカリをてらてらと炙る。ようやく慣れてきた目が、再度チカチカした。そして、目線の高さにあるものをぐるりと見渡したとき、変わり果てた世界がアカリを歓迎していることに気が付いた。つい数分前まで吊り革をぷらぷらと遊ばせていた鉄のパイプは折れてねじ曲がり、そして床に転がっている。アカリが先ほど触れた窓には大量の木の板が、朽ち果てた釘で幾重にも打ち付けられていた。それと同じものが、見える限りは他の窓だけでなく、貫通扉や降車扉に至るまでのすべてに頻々と連なっている。元々金属だった部分は輝きを失い、赤褐色に錆びている。行き先を表示していた電光掲示板は半壊し床に叩きつけられており、その奥では千切れた電線たちが顔を出していた。大きく湾曲した扉は四角い電車の形状を丸ごと別物にしている。一部は内側から、一部は外側から、弾丸を喰らったみたいに小さな凹凸が無尽蔵に陳列されていた。空調から吹き出す、狂った蛍光灯に似たルビー色の颯が、アカリの頬に生暖かくかぶりつく。例えるなら、電車という世界だけをそれ以外から分断して、際限なく『文明』というものを頽廃的にしたような、身の毛もよだつような領域だった。

「さっきから一体何が起こってるんだ……意味が分からない……」

 極めつけにおかしいのは、この電車が未だに走りを止めていないことだ。変形し破壊された風貌をしてもなお車輪と線路が擦れ合う音がしていることが、不可解以外の何物でもなかった。これは車掌どうこうの話ではない。もっと恐ろしく非現実的なことが巻き起こっているのだと、アカリは直感した。

「……リ、アカリ! 返事して!」

 どこからともなく声が聞こえてきた。ユカリの声だ。

「ユカリか、大丈夫だったのか?」

「う、うん。私は……問題ない。それよりアカリは大丈夫なの……?」

 ユカリの言葉から、彼女がそれなりに気圧されていることが読み取れた。必要以上に威圧することのないよう、アカリは落ち着いて話す。

「ああ、幸い私には何事もない。しかし、一体全体どうなって……」

 が、その矢先、不本意にもアカリは整然たる言葉をぶつ切りにして、ひどく焦慮に塗れた声色に変えつつこう言った。


「……ユカリ、お前今どこにいる?」

「えっ……?」

 途轍もない憂虞がアカリの胃の中で蠢いた。感知していなかったことが不思議なくらい重大な事実を、まさに今閑却するところだった。

 三百六十度、どこを見回してもユカリの姿がないのだ。荒廃した虚空から、声のみが飛んできている。疑いの眼差しをもって、もう一度眺め廻す。やはり、ユカリはいない。

「どこって、ほら、アカリの隣に……って、あれ?」

「おい、どうした」

 混濁した思考回路を必死で回すアカリを置いて時間と車体だけが進む。

 状況整理が追い付かないまま、再びユカリの声がした。

「アカリがいない……待って、どこに行ったの? ていうか、どこから声がしてるの…?」

「なっ……⁉ まさかお前もか……」

「ねえ! お前もって何のこと⁉ アカリの声は聞こえるのに……どこにいるの……」

 アカリは一度考えることを止め、目を伏せ、肺の中の空気を入れ替える。そして早口にこう言った。

「一旦落ち着け、騒いでもどうにもならない。多分、お互いの姿が透明人間みたいに見えなくなってるだけだ。代わりに声は聞こえるだろ?」

 『透明人間』……SF物語でも安直過ぎて目にしないような言葉を口にする。仕方がない、なぜならアカリの持てる語彙でこのシチュエーションを言い得る言葉がそれしかなかったのだ。もちろん『透明人間』と言われただけでユカリが納得できるはずもなかったが、その鬼気迫った語圧の強さに圧倒されたユカリはきゅっと口を噤み、頷いた。その姿が見えないアカリからすればただ黙っただけのように思えたが、不安に駆られたユカリが大声を出すことをしなくなったことで事の察しが付いた。

「……どうしよう。本当に私、透明人間になってるの?」

 ユカリの声がする。念のためもう一度辺りを見るが、電車の中にはユカリがいる気配すらない。だが声はクリアに聞こえる。このおかしな現状をアカリは『透明人間』と言い表したのだが、もはやそれすらも怪しい。極論で言ってしまえば別次元にいるなんて可能性もあるのだ。

 案の定、どこからともなく「ま、まあそりゃあ分かんないよね……」と声が飛んできた。ユカリの言う通りだ。突然の暗転、電車の崩壊、透明人間になる二人。これらを連続で巻き起こされて、何が起こったのかを一つ一つ片づけていける余裕などあるはずがない。だから現状を一気に受け止めきれなくても仕様がないとは思いつつも、今アカリにできることはこれしかないのだった。下手に騒ぐくらいなら事態の収拾がつくのを待ったほうが得策だと知っている二人は、虎視眈々と息を殺した。


 それは、二人の意表をいとも簡単に突いて聞こえてきたのだった。


『……近鉄カワタレ線をご利用いただき、ありがとうございます。この電車は、橿原神宮前行き、各駅停車です。次は、尼ヶ辻、尼ヶ辻です』

「カワタレ線…………?」

 額を稲妻に打たれたように、現実に引き戻される感覚を味わう。

 カワタレ線。昔どこかで小耳に挟んだことのある、噂の一つだ。確か夜になると珍妙な名の電車が現れて、そこに乗ると幻覚を見せられるだとか、そんな眉唾にも程がある浅薄な内容の噂だった気がする。でも、なぜ今? ただの陳腐な噂が、なぜ今になって? アカリはそう思った。

「アカリ……? どうかしたの?」

 よりいっそう震えた声がゆらゆらと漂ってきた。

「いや……何でもない。さっきのアナウンスが言っていたことにちょっと引っかかっただけだ」

 そう言うと、ユカリの声はきょとんとしたものに変わる。

「アナウンス……? アナウンスなんてあったの?」

「聞こえなかったのか? さっき、カワタレ線がどうとか……」

 アカリが〝その単語〟を出すと同時に、ユカリは声の音量を思い切り上げた。まるで、言葉に出してはならないタブーを出してしまったとでも言うように。

「カワタレ線⁉ 今、カワタレ線って言った⁉」

「お、おう。確かにそんなことを言っていたが……それがどうした?」

「どうしたじゃない! カワタレ線って……まさか……」

 途端に戦きだしたユカリに、アカリは驚きと迷いをあらわにする。

「何か知っているのか?」

「…………」

 ユカリはなぜか閉口した。だが、何も知らないから黙ったのではないということは軽易に察せた。恐らく、疚しいことか、はたまた怯えているのか、何にせよ言いたくないことがあるように見受けられた。

「なあ、知ってることがあるなら何か言ってくれよ」

「っ…………」

 なおもユカリは口を縫い付けられたように何も言わない。半ば責めるような口調を呈して、アカリは続ける。

「こっちも分からないことだらけなんだよ、ユカリ。話せることだけでいいから、話してくれってば」

 歯を食いしばりながら声を上げると、頑なに発言を拒んでいたユカリがゆっくりと口を開いた。一つ短い呼吸をして、言葉を紡ぐ。

「……カワタレ線、乗ったら幻覚を見せられる、悪魔の電車だよ」

「ほう……悪魔の電車……で、それが何だ?」

 首を三十度ほど傾けて、ユカリの声がした方向をじっと見つめる。

「何だじゃなくて……私たち、今その電車に乗ってるんだよ!」

 もったいぶったユカリの言葉を聞いて数秒間、沈黙が通過する。

 アカリは、はあ、と大きく息を吐く。

「そんなの根も葉もない迷信だろ、それともこれが幻覚だってのか?」

「そうだよ、そうだよ! 今も私たち、その電車に乗ってるの。周り見てよ! これが現実なわけないじゃんか!」

 茶化すように口走ったアカリの言葉を掻き消すようにユカリが続ける。

「はっ…………」

 アカリはいよいよ反論の言葉を詰まらせた。なぜならユカリが今言ったことは何も間違っていないからだ。世紀末のようなこの風景は、一見しただけではとても現実のものとは思えない。だが、夢でも、ましてや幻覚でもないのだからと、勝手に現実だと信じ込もうとしていた。

 しかし、もはやそうではないのかもしれない。いくら迷信とはいえ電車のアナウンスで『カワタレ線』などという単語が出てきた時点で、立っている床や囲まれている壁が現実の産物かどうかを疑うべきだった。

 アカリは今一度、辺りに目を向ける。荒みきり、外界から隔離された電車の世界。今もなお夜の闇をこじ開けて走る鉄の塊に閉じ込められたアカリは、思った。

 これは、本当に幻覚の代物のかもしれない、と。

 アカリは深呼吸をする。体温に近い空気を吸ったことで気分がどことなく重苦しくなった。

「……すまんユカリ、お前の言う通りかもな」

 一言の謝罪と納得を告げられたユカリは目を丸くした後、そっと瞼を下ろして「……ううん、こっちこそごめん」と小さく頷いた。てんてん、蛍光灯が点滅する音がした。アカリはこころもち固くなった体を起こし立ち上がる。その衣擦れの音が、ユカリの耳にも伝わったらしい。

「アカリ……? 何してるの?」

 問われると思っていなかったアカリは「え?」と声を漏らす。

「何って、情報を集めるんだよ。ここはマヤカシとかいう幻覚の中なんだろ? どうにかして出ないとずっとこのままだぞ」

 アカリはそう言い切ったのに続いて、犬が被った水を振り払うように身震いする床を一歩ずつ歩き出した。コツ、コツ。原型を忘れてしまった握り棒の端くれを支えにして、視線を様々な所に飛ばす。奇妙な色の電気、奇妙な裂け方をした座席、奇妙にも窓から扉に折り重なって固定された木の板。見えるすべてが奇妙だったが、何より奇妙なのはそのすべてに手で触れられることだった。つうと透けでもしてくれたら分かりやすいのに、ここまで現実的だと嫌な胡乱さがして気持ち悪い。


「立っちゃダメ‼」

 唐突に、耳朶を打つ咆哮が車内に充満した。この声はユカリのものだ。その理解に一瞬遅れを生じさせたのは、ユカリがここまで大声を張り上げたことがなかったからだ。

「何だ⁉」

「周り見て思わないの⁉ 歩いたら危ないじゃんか!」

 アカリはその言葉を文字列として頭に書き起こし、数秒してから頭上にハテナのマークを浮かべた。

「危ないって……何が?」

 眉を顰めて辺り一帯に目を配る。多少鋭くなった鉄片が転がってはいるものの、ユカリが必死になって止めるくらい危険物になりそうなものは見当たらない。『奇妙』だが、『危険』とは程遠いように感じる。

「どう考えても危ないでしょ⁉〝落ちたら〟どうするの‼」

「……は?」

 アカリにとってはまったく予想外の発言が飛び出た。

「落ちるって、どこに?」

 ユカリはアカリが質問を言い切ることを待たずにそれを遮り、喉を鳴らして叫ぶように言う。

「見たら分かるじゃん、外だよ、外!」

 頭に浮かんだハテナがさらに大きさを増していく。ユカリまでおかしなことを言い出したのか、そう考えたときだった。まさか、と口を衝いて言ってしまいそうになるような仮説を思いついたのだ。

「ユカリ、お前には今何が見えている?」

「ええ……? ええっと、それは……」

 その直後に続いた言葉を聞いて、その仮説が確信に変わった。


「扉とか、窓とか、ガラスとか全部割れて外に繋がってる。床には危なくて立てないし、ちょっとでも動いたら風で落ちちゃいそうだよ」

「っ……⁉」

 その事実に気が付いたアカリは、自分にしか聞こえないくらい浅い息をして、高鳴る心臓を肺から抑える。一回空気を吐き出した後、喉を震わせこう言った。


「ユカリ、今から言うことを落ち着いて聞け」



――ユカリ――



「……多分、お前と私が見ている景色は違うみたいだ」

「どういうこと…………?」

 アカリの言うことを噛み砕いて頭に嚥下する。それでもなお、彼女が言っている意味を理解することはできなかった。

 顔をぶんぶんと左右に向ける。目に入る光景は、さっきと何ら変わらない。扉は存在せず、そのせいでぽっかりと穴が空いた壁からは荒れ狂う強風が絶えず車内に吹き込み、ユカリの髪とスカートが後ろに引っ張られる。ぎりぎり扉だった鉄板が縁からぶらぶらと垂れていたが、大きめの揺れが来たとき外に落下してしまった。窓枠に窓は一つもなく、それが割れて粉々になったであろうガラス片が床に散乱している。他にも、別の車両に通ずる扉……確か貫通扉といっただろうか、それすらも巨人がパンチでもしたように、冗談めいた壊れ方をしていた。可動的な部位だけでなく壁や天井も部分的に剥がれ落ちており、むしろこの状態で一本の電車という形状を保てていることが信じるにかたかった。びゅうびゅう、がたんがたん、轟音が休むことなく鳴り響く。暴風の隙間から聞こえる微々たるアカリの声を正しく拾うことも難しかった。


「私が今見ているのは、扉も窓も木の板で固められた景色だ。外に落ちる危険どころか、外に出る方法も見当たらない。だが聞いた感じでは、そっちのほうは違うんだろ? もう少し詳しく教えてくれ」


 アカリの声が、今度は明快に聞こえた。まさかとは思っていたが、見ている景色が違うなんて。どおりで話が噛み合わないわけだ。淡々とした口ぶりで、ユカリは拙い語彙で周囲の環境を伝える。

「……うん、えっとね、まずドアが全部外れてて、簡単に外に落ちちゃいそうな感じ。シートはぼろぼろになって、色んなところから綿が出てる。あと窓も割れてて床がすごく危ないことになってるかな。とてもじゃないけど、歩いて探索とかできなさそう。それに……」

「それに?」

 アカリが訊き返す。一旦呼吸を整え、唾を呑み、落ち着いて言う。

「……それに、寒い」

「寒い……?」

 疑問を込めたアカリの声が少しだけ聞こえた。

「外から風が入ってきてるから、寒いの。それに、空調から冷たい空気が来てる」

「はあ? こんな冬場に冷房が付いているってのか……」

 ユカリは腕をもう一方の腕で囲み合いながら、スカートの中に肌を隠す。怖がったり驚いたり、焦ったり叫んだり、そんなことをしていたから今の今まで気付かなかったけれど、間違いなく室温が低い。空気に触れた箇所が刺すように冷たくなって、その分体温が失われていく感覚がする。天井から吹き付ける冷気がユカリを覆い隠すたび、その感覚が倍増するようだった。

「……とりあえず、お前はそこから一歩も動くな。いいな?」

 アカリは警告するようにそう言った。言われた通り一文も身じろがないよう、膝を抱え込んで体を小さくした。こうしていると、少しだけ寒さが弱まったように感じる。

 背中を曲げ、座席のシートと床の狭間にすっぽり収まる。ユカリは低い視点から窓のない窓の奥を覗いていた。爪楊枝くらい細い電柱が敏捷に横切るのに対して、夜空に貼り付けたシールのような丸い月は微動だにせず、片時もユカリから目を離そうとしなかった。燦然と煌めく星のようなものは見えないけれど、足の踏みどころもないくらい雑駁に狼藉したガラスの断片が神々しい月明かりを反射して、皮肉にもその焜燿がダイヤモンドダストに似たな細雪の風情を醸し出していた。こんな状況で考えるべきことでもないが、意図せず綺麗だと思ってしまったことに、ユカリも驚かされたのだった。

 アカリは、同じ景色を見ていないんだろうな。そう考えると、ユカリの心にのっぺりとした寂寥感が込み上げた。この電車……恐らくカワタレ線に乗り込むまではあれだけ喧嘩していたというのに、アカリのあの隙も見当たらぬ鋭い目つきが手の触れられる距離に無いと、心魂に空虚が住み着く気持ちになれた。

 しばらく電車が打ち震える不規則な鼓動に身を委ねながらそんなことを考えていると、アカリが語りかけてきた。

「さて。私のほうに危険はなさそうだし、色々と調べてみることにする」

 声の小ささから、アカリは明後日の方向を向いていて、本当に彼女からも自分の姿が見えていないのだということが分かった。

「いいか、私の声が聞こえなくなっても立ち上がって歩くんじゃないぞ」

 子供をあやすように注意喚起をするアカリに、ユカリは一言、

「わっ、分かってるよ、それくらい!」と言い返す。

 アカリは無反応。次に聞こえたのは、声がしたところと同じ場所でスニーカーを床に突き立てる乾いた残響だった。ユカリの見える世界において、その音がした地点には無数の破片が針のように散りばめられている。だが、きっとアカリの見ている世界では異なるのだろう。今にも鼓膜が張り裂けそうなくらい風圧が騒音をかき鳴らす最中、アカリの足音がどんどんと自分から遠ざかっていくのをユカリは感じ取っていた。

 

 恐らく一人になったであろうユカリは自分自身に言い聞かせる。

 ……ユカリはカワタレ線についてあることを知っているのだ、と。でもそれは軽々しく伝えられるほどライトなものではない。深刻で重大で、言うこと自体に決断が必要になるくらい肝要な事柄だ。それをアカリに言うべきか言わざるべきか、その狭間でユカリは葛藤を繰り広げていた。

 ユカリが決断を委ねたものは、何の関係もない日常の記憶だった。


 *


「何読んでるの?」

 ユカリはアカリに問いかけた。斜陽の射す窓辺、教室の中には二人以外誰もいない。既に陽は月と仕事を交代し、それに随伴して夕方が宵になろうとしている。さりながら、二人とも早く家に帰ろうとは一言も言わず、ただ時が過ぎるまでの閑暇をすり減らすばかりだった。

「……セロ弾き」

 アカリはユカリに目もくれず、不愛想に言葉を切り捨てた。アカリが片手で握り締める本の表紙をちらと見ると、そこには『セロ弾きのゴーシュ』と大きく書かれていた。著者欄には小さく宮沢賢治と記されている。彼のことは本に疎いユカリでさえもよく教科書で目にするが、知っている作品はせいぜい『雨ニモマケズ』か『やまなし』くらいだ。アカリの読んでいる小説は、未だかつて目にしたことがなかった。

「へー……で、それってどんな話なの?」

 ありきたりな質問をすると、アカリはそれに答えてくれる――と思いきや、面倒臭そうな溜息を撒き散らして、

「読み終わったら貸してやるから勝手に読め」と言い捨てた。

 なんとなくそんな返事が来るだろうと予測はしていたが、やはりこうなるか。なんでもユカリは活字が苦手だから、小説なんてものは碌に読んだことがない。アカリが殊更にタイトルを教えてくれるような小説だからと少し興味が湧いていたが、読めと言われたら話は別だ。ユカリは口をつんと尖らせて「あっそ」と言った。

 その日はユカリも嘆息を漏らして、何事もなくとぼとぼと家路を辿ったのだった。


 あれから三日ほど経ったときだろうか。ユカリが今日も今日とて放課後に教室に残ろうとしていると、そこにはアカリがいなかった。下校路も帰る時間も同じだから、いないとなるとそれは不自然なことだった。ちらと、ユカリはアカリの机に目を向ける。整頓され、卓上には何も載っていない。机の中も同様に、ユカリのものとは違ってきちんと整理がされていた。いや、どちらかというとまず物が少なかったと言うべきか。体を傾けて暗い机の中を覗くと、そこには一冊の本だけがぽつんと押し込められていた。もしや、と思い、その本に手を伸ばす。引っ張り出してみると、それはあの『セロ弾きのゴーシュ』だった。傷一つない表紙の綺麗さは、アカリがこれを珠玉のように大切に扱っていたからあるのだろう。彼女が丁重に本棚に仕舞う光景を二度か三度目にしたことがある。ユカリは周りに誰もいないことを確認しつつパラパラと頁をめくってみると、裏表紙と最後の頁の間に栞が一枚挟まれているのを見つけた。

 興味本位で、ユカリはその本をくるくる回しながら観察するように見つめる。裏面には『楽団のお荷物だったセロ弾きの若者・ゴーシュが、夜ごとに訪れる動物たちとのふれあいを通じて、心の陰を癒やしセロの名手となっていく表題作』と、ざっくりとしたあらすじが書き連ねられていた。見たところ、昔特有のファンタジーといったところだ。アカリは科学で証明できないことは好まないような性格だと思っていたが、こんなものを読むとは意外だ。ユカリは思った。

「おい」

 金槌のように鈍い声が背後から聞こえた。ユカリは心臓をびくっと固め、そーっと振り返る。そこには腕を組み、額に絆創膏を貼ったアカリが仁王立ちで待ち構えていた。まずい。これは、すこぶるまずい。

「隠れて何してるのかと思えば、勝手に人の机の中身なんか見るなよ」

「い、いやいや! アカリが勝手に読めって言ったから……!」

 ユカリが冷や汗を垂らしながら手を振って苦し紛れの言い訳をすると、アカリはやれやれと頭を横に三振りした。続けてアカリは堂々とユカリの前まで近づき、背中に隠した本の端を強引にユカリの手から引っ張り出して、奪還した。手が空っぽになったユカリに、アカリは「私は今日早めに帰る。残るなら好きにしろ」とだけ言って背を向ける。その間、約五秒。ぽかんとしたユカリを置いて、彼女は歩き出した。はっと我を取り戻し、巻き起こったことを早戻しするかのように一つ一つせっせと処理していく。そしてぽりぽりと頭を掻き、アカリには申し訳ないことをしてしまったと省みた。きっとあの本は、アカリが何より大切にしているものの一つなのだ。ついついアカリだからという理由で私物に手を出してしまったけど、本当はそれが嫌だったのかもしれない。そう考えると、途端に謝らざるをえないような気がした。去り行く背中に「ごめん」と伝えようと口を半開きにした、その束の間のことだった。

「ほらよ、読みたいんだろ」

 アカリから、声と同時に何か物が飛んできた。

 間一髪、ユカリは投げられたそれをキャッチする。手の中に収まったそれは薄くて白い紙をぱらぱらと舞わせ、最終的に本の形を成した。ぱたりと手の中でユカリに見えた文字は、『セロ弾きのゴーシュ』。

「いいの……?」

 本からアカリに目線を移動させた。

「読むなら早く読んで返せよ。あと汚したら弁償だからな」

 アカリがそう言うと、今度こそ完全に後ろを向いて教室から出ていってしまった。たった一人、夕焼けが映える窓際に取り残されたユカリ。この量の文章を家に帰るまでの小一時間で読めるはずもないので、そっと鞄に仕舞い、背中に負って、アカリを追うことにした。


 一週間、ユカリは本の世界に入り浸り続けた。タイトルから、てっきり丸々一冊が『セロ弾きのゴーシュ』なのだと思い鬼胎を抱いていたが、どうやら本として綴じられているのは宮沢賢治が遺した詩や小説を寄り集められたもののようで、当の物語はごく一部だったらしい。流石にすべて読み切るのは骨が折れるので、当初の予定通り『セロ弾きのゴーシュ』だけを読むことにした。内容はあらすじの通り、楽器――セロ、と書かれていたが、恐らくそれは今でいうチェロのことだろう――の腕の自信を失ったゴーシュという男が、突如現れた猫と対話するところから始まった。物語の展開のスピードに追い付くのも精一杯なのではないかと読む前から危惧していたが、宮沢賢治が難しい言葉を使わない文豪でよかったと骨の髄から思った。初めは一日一頁と初歩的な目標を立てていたにも関わらず、ユカリは七日後には丸々読破してしまっていた。

 もう『セロ弾きのゴーシュ』は、ユカリの愛読本と言っても差し支えないだろう。じっくり細部まで読み込んだためか、冒頭なら諳んじて唱えられる。アカリはその姿に身震いしたらしく、「お前本当にユカリか……?」と問われたまでだ。いや、誰がそう訊いてもおかしくないくらい没頭していたのは事実かもしれない。何でもユカリは、あの世界観が大好きだったのだ。愛想がなくて、表情や素行から感情を伺い知ることができない男が、動物たちとの対話を通して自分を素直に見つめられるように成長する。そんなに都合のよい人生を歩むことはかなわないと知っていても、一文読み進めるたび、頁をめくるたび、どこか心がふわっと軽くなった。……こんな世界、入ってみたいな。今まで世界が眼前に広がる現実しか存在しないと思っていたユカリがそう思ったのは、これが初めてのことだった。


 読み終えた本を片手に、ユカリは放課後の教室でアカリの机の前にいた。今日も教室にアカリがいない。それに関して言うのなら、この一週間アカリは放課後の教室でユカリと顔を合わせる時刻が、終礼をしてから数十分してからといつもに比べて少し遅い。それだけならまだしも、最近はアカリの体の随所に絆創膏が見られるようになった。それも、ちょうど一週間ほど前からだ。何か怪我でもしたのかと聞いても答えてはくれない。心配にはなるが、アカリならきっと一人でもなんとかなるし、どうせ居場所を探すのも大変なので、とりあえず机の中に本を押し込むことに決めた。

 これでよし、と綺麗さっぱりな微笑みを携え、一仕事終えたかのように手と手を擦り合わせる。

「おい、お前!」

 声がした。さっと教室の扉を見る。この声は、アカリではない。

「誰……?」

 声の発信源を目で追うと、そこには同じ中学の制服を着た男子がいた。

「お前こそこそ何やってるんだよ!」

 ああ、面倒なことになった。この名前も知らない輩は、クラスも違うくせにユカリにちょっかいをかけてくる、言うなればいじめっ子の下位互換。どうせあっちも暇つぶしで声をかけているだけなのだろうが、構われるだけ時間の無駄だからユカリにとっては無視したい対象だ。

「べ、別に」

 一気に居心地の悪くなった教室を後にしようと、奴がいないほうの扉に足を進める。すると、奴は俄然として怒りだし「嘘つくなよ」と唸るように言った。気付いたときには、ユカリの前に奴が立ち塞がっていた。

「お前さァ、毎日ここに残ってるよな。俺、見てるんだよ。お前が一人で本読んでるの。マジで、勉強もできないくせにアホじゃねえの」

 また始まった。もう中学生だというのに、幼稚な小学生レベルの暴言で攻撃してくる。アカリのように気に留めなければいいのだが、繊細なユカリはそうにもいかなかった。

「かっ……関係ないでしょ……」

 唇と声をぷるぷると震わせながら、語気を振り絞って反論する。そこに威圧感は専らなく、むしろその男は「生意気だ」とでも言いたげに汚く嗤った。

「ああ? 今ので傷ついてんのか? ふはっ、何歳だよお前!」

 図星の言葉に、ユカリは軽い心臓をぎゅっと握られたような痛みで目に涙が溜まる。その姿を見て、男は笑みをさらに汚くした。

 どうしよう。傷つけば傷つくほど、目の前のこいつは面白がるというのに。こんなとき、アカリならどうするだろう。覇気の籠った声で脅したり、顔面に一撃喰らわせたりするかもしれない。だが生憎、ユカリには威圧も乱暴も選択肢にない。アカリにできることが、ユカリには何一つできなかった。またいじられるだけいじられて、一人から独りになって、誰もいない教室で泣くしかないのか。またそんな、小学生みたいなことを続けるのか……それだけは、いやだ。

「……おい」

 金槌のように鈍い声。ユカリは驚くと同時に重い溜飲を下げた。やっと聞こえてくれた、これはアカリの声だ。奴の背後に現れたアカリは、そのまま彼の首を捻るように掴む。男の弱々しい悲鳴が聞こえた。

「いい加減にしろよ」

 その言葉を端緒にして、男は畏怖した表情を顔に貼り付けながら尻尾を巻いて逃げていった。扉を挟んで、目を皿にした二人が向かい合う。ユカリを包んだ静寂は、直ちにユカリの目からぼろぼろと涙を流させた。

 アカリは音もなく、ユカリの頬を叩いた。ぺしん、という湿った音が反響する。硬直するユカリに、アカリは荘厳たる口調で言った。

「バカユカリ、何やってんだよ。あいつとは関わるなって言ったよな」

 肝を潰したユカリは、靄のようにいつ消えてもおかしくない声量で「……ごめんなさい」と言った。確かに言ったつもりだったが、その声はアカリの服の中に吸い込まれたかもしれない。知らぬ間にユカリの顔はアカリの制服の上にのしかかっていて、そこからはアカリの体温が伝わった。そこでようやく、ユカリはアカリに抱き締められていることを知った。夥しい数の絆創膏、痣、包帯がべたべたと貼り付けられた痛々しい腕を、ユカリの背に宛てがいながら。

「アカリ……それ……どうしたの……」

 細すぎて折れそうな声でそう訊こうとしたが、言い切る前にアカリはさらに強くユカリを引き寄せたためか、それが言葉になってアカリに聞こえることはなかった。きっとこれは、わざとだ。

 アカリは言う。

「……もう帰ろう」

 ユカリはそれから、泣いた。悲哀と慈愛がごちゃまぜになって、一体どんな思いの丈がユカリを泣かせているのかさえ分からなくなって、それでも泣いて、泣いて、泣き続けた。結果的にユカリは泣き疲れ、まるで幼児のようにアカリの背の上で眠った。彼女が目を覚ましたのは午後七時、二人しかいない暗い自室のベッドの上だった。

 それから二人は、放課後の教室に残ることはしなくなった。


 *


 あの頃大好きだったセロ弾きのゴーシュは、どこかアカリに似ていた。客観的に見たアカリは、怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないように見える。小説の中でもゴーシュは初めそう批評されていた。けれどアカリにはゴーシュと決定的に違うところが一つある。それはユカリにだけ、怒るも喜ぶも朗然に見せてくれることだ。唯一素直なアカリを、ユカリにだけ見せてくれるということだ。


 ここはカワタレ線。透明人間のアカリは、ここから出るために全身全霊で各所を探し回っている。いつにもましてユカリが役に立たない分、アカリは骨身を削り、鵜の目鷹の目になって情報を希求しているのだ。アカリだって、少なからず不穏で不吉なこの電車のことが怖いはずなのに。もしもユカリがアカリなら、こんなことをできただろうか。大喧嘩して拗ねられた相手を気遣って、危険を避けさせるために身を粉にするだろうか。その答えは、ユカリが誰より知っていた。

 アカリは強情で独り善がり。それこそまるで、物語の初めのゴーシュのようだ。ひねくれていて、嫌気の差す性格。でもそれは話が進むにつれて楽器の音色と共に心地よいものとなっていく。きっとアカリも同じだ。ユカリ想いなんて、ユカリから言うべきではないのだけれど、少なくとも誰かを想う気持ちが今のアカリにはある。未だに強い口ぶりは変わらないけれど、段々緩やかになっていったセロの旋律のように、アカリの心もユカリと共に日々を重ねるごとに丸くなっていった。その言わば成長過程を、ユカリはずっと傍で見てきた。アカリはそれを悟らせないようにしているが、ユカリには分かる。アカリはユカリにとって、どこまでも不器用で、どこまでも不愛想で、どこまでも想いのある、大好きな人なのだ。

 そんな大好きなアカリが、頑張っている。終わりがあるかも分からないマヤカシの中で、希望を見つけ出すために頑張っている。対してユカリはどうだ。アカリが楽になるようなことを、ゴーシュにとっての猫やかっこう、狸の子のような存在になれるようなことをしてあげられているか。答えは否だ。何もできていない。何もしてあげられていない。

 だから、ユカリは今できることを、できる限りやり尽くさないと。

 こんなにも頑張ってくれているアカリには、ちゃんと言わないと。


「あ、あの! アカリ!」

 なるべく大きく声を上げる。異様に長く感じる数秒が流れ過ぎた。

「……どうした?」

 アカリの声。風によって半分以上掻き消されたが、ぎりぎり聞こえた。

「えっと……その……一つ聞いてほしいことがあるの! 戻ってきてもらえる?」

 遼遠なる崖の向こうに声を飛ばしているのかと思えるほど大声でそう言うと、返答の代わりに足音が振動としてユカリまで伝達した。とん、とん、とん、という音が徐々に大きくなっていく。とんっ、と一際大きな足音が鳴ると、それがぴたりと止んだ。

「あ、アカリ……」

「何だ、聞いてほしいことがあるんじゃなかったのか?」

 口をどもらせたユカリがまるで見えているかのようにそう言った。

「そう……それで、えと……聞いてほしいことなんだけど」

 一息置き、続ける。

「落ち着いて、聞いてほしいの」

 少し前のアカリに倣って言う。声質の深刻さが伝わったのか、アカリが「なんだそれ」と笑うことはなかった。もう一呼吸、吸って吐く。そしてユカリは、気付いていながら隠していたことを告げた。

「……カワタレ線について、まだ一つ知ってることがあるの」

「……ほう」

 鉛のように重い声が返ってきた。ユカリの口もその分だけ重くなる。

「カワタレ線はね、マヤカシを見せるだけのものじゃないんだ」

 下を向き、言う。


「…………死んじゃうの。電車が終点に着いたら、私たちは死んじゃう」


 ユカリは揺れた口唇から、最も言いたくなかった言葉を吐き出した。

 カワタレ線もマヤカシも、ただの薄っぺらな流言飛語だ。ユカリはインチキなことを無闇矢鱈と信じるようなことはしない性格だから、カワタレ線のことも等閑に囁かれた噂だと思っていた。つい先ほどまでは。

 この電車に乗り込んでから、魔法じみたが重ねて起こった。それもきらきらとした見目好いものではなく、どちらかというと呪いのようなこと。ユカリはまだ中学生になりたてだが、このすべてが科学で説明できるものではないと解っていた。そこに加えるように「カワタレ線」という単語が出てきたことで、ユカリには何が起こっているのか理解できた。

 これはすべて、マヤカシだ。

 存在するだなんて思ってもみなかったが、ここまで来たら否定のしようがない。カワタレ線は自分を取り囲み、マヤカシは自分の視界を満たしている。現実に歯向かうことはできず、気付いたときにはその事実を認めていた。ただそれだけなら、どれほどよかったか。

 カワタレ線が実在したということは、大方それに関わる噂も事実なのだろう。その考えに至ったとき、ユカリは緊迫の弾丸に心臓を貫かれた気分になった。学校だったか、どこかでこんな噂を耳にしたことがある。

『終点までカワタレ線に乗り続けた者は、最後に魂を抜き取られて死んでしまう』

 死ぬなんていう、あたかも怖がらせのために作られた従属的な噂には持ってこいの単語が入っていたから、当時のユカリは鼻で笑って、いつしかそんな噂を聞いたことすら忘れてしまっていた。今になって笑い飛ばすことができなくなってしまうなんて、知る由もなく。


 ユカリはアカリの返答を待っていた。透明なアカリは、どんな表情を浮かべているのだろう。きっと、良いものではないだろう。ユカリは覚悟を決めてぎゅっと目を瞑る。


「……そうか、じゃあ、早く出ないとな」

「……え?」


 予想外の返答に、ユカリの喉から一驚の声が零れ落ちた。アカリのことだから、「どうしてもっと早く言わなかったんだ!」とユカリを咎め、糾弾すると思っていた。もちろん、もっと早く言えばよかったというのは正論だし、言わなかったのはユカリのせいだ。だから攻撃的な言葉を投げつけられる覚悟はしていたのだが、アカリの声で返ってきた反応は目に見えるくらい冷静で棘がなかった。


「よし。私は引き続き、辺りを調べてみる」

 まるでさっきまでの会話がなかったかのように、アカリは単調に話しだす。思わずユカリは彼女を引き留めた。

「ま、待って……」

「安心しろ、こっちに危険はない。それに、電車が終点に着かなきゃいいんだろ? なら電車丸ごと止めればいいわけだ」

 ユカリの発言を一刀両断するかのごとく、アカリは遮るように言った。

「止めるったって、そんなのどうやるの?」

「簡単だ。車内非常ボタンを使えばいい」

「なに……それ?」

「名前の通り、押せば電車の走行を止められるボタンだ。走るのを止めれば、そもそも終点に着くことはなくなるだろ」

「そ、そっか……! アカリ頭いい……」

 さっきまで泣きそうになっていたことさえ忘れて、ユカリは感心の一言を溢れさせた。

 すたすたと足早にそこを去る音がする。ユカリから抜け落ちていくようにその音は小さくなり、やがて風音の中に消えてしまった。が、嫌な気分にはならなかった。アカリとこうして話していると、理由のない安心感が芽生えてくる。きつくて辛辣な言い回しをするし、二人の間に齟齬をきたすことだってあるけれど、その奥底にはいつも善意があった。その善意がなぜユカリに見えるのか、逆になぜユカリ以外には誰も見えないのか、疑問は常に胸の中で澱のように積み重なるくらい、アカリの知られざる一面はユカリだけのもののように思えたのだった。


 不意に、がさついた音声が頭上から発せられた。

『……尼ヶ辻、尼ヶ辻です』

「は……!」

 アナウンスを聞いて初めて、この電車が駅に止まっていることに気が付いた。全く気に留めていなかったが、そういえば寒さが幾分か和らいだ気がする。それも、電車が止まって風がなくなったからだろう。まもなくして、ピンポン、ピンポン、と、いやに軽快な音を奏でながら扉が開いた。いや、正確にはユカリの乗っている電車には扉が一つもないから、扉が開くような音がして風の暴れる勢いが死んだと言い換えるべきだ。兎にも角にも、停車したことで揺れも収まり、危険はなくなったのだ。今ここで外に出てしまえば、もうカワタレ線ともおさらば。なんだ、それほど深く考える必要はなかったではないか。そう思い、なるべく割れたガラスの上を通らないように電車から駅に飛び出ようとした。

「……そうか。ユカリは出られるのか」

 アカリの声が、久しぶりに明瞭に聞こえた。

「えっ、ユカリは……ってどういうこと?」

 思わず聞き返したが、直後に彼女が言っている言葉の意図を把握した。

「こっちも多分ユカリと同じように、尼ヶ辻駅に着いてはいるんだ。だが、扉が開かない。木で完全に固定されてやがる」

「う、うそ……じゃあアカリ、出られないじゃん」

 揺れも風の音もない、呼吸音だけが蔓延る暗黙が訪れた。忙しく目をきょろきょろとするが打開策は出てこない。やはり一筋縄で出られるようにはなっていなかったようだ。きっとこれも、作為的なマヤカシの企みだろう。ユカリは決意したように元の場所に戻り再び身を押し込めた。その音が、アカリには聞こえていたみたいだった。

「ユ、ユカリ。出ないのか……?」

「当たり前でしょ、アカリが出られないのに、私一人だけ出るわけにはいかないもん」

「そんなこと言ったって、お前だけでも……」


 ……ピンポン、ピンポン。それは扉が閉まる音だった。


「もう遅いよ、アカリ」

 決め台詞のようにそう言い放つと、アカリはついに折れてこう言った。

「ああ、分かった分かった、もう好きにしろ。だが、万一身の危険でも感じたときにはお前一人でも出るんだぞ。絶対だ」

 十数年間で一度も聞いたことがないような負け惜しみの籠った声でアカリが言ったものだから、ユカリはつい思わず笑いを含めて「は~い!」と爽やかに答えてしまった。見えないアカリがどこかむすっとした相好になったような気配を感じたが、見えないので感じなかったことにした。

 なお先ほど扉が閉まる音がしたが、実際にはユカリのいる車両に扉はないのでいつでも外に出られてしまう。上手い具合にアカリが騙されてくれてよかったと、ユカリはにやけながら思った。

 ごとん、という重量感のある音を合図に、車体はじわじわと速度を増していく。数える間もなく電車の速さはあのときと等しくなった。


 三、いや、四分ほど経ったときだ。

「それにしても、困ったな」

 前触れもなくアカリが話しかけてきた。

「何が?」

 答えに迷ったような軽い呻吟がしてから、アカリが話し続ける。

「……車内全体を探してみたんだ。車内非常ボタンがないか、入念にな」

「うんうん……それで、見つかったの?」

「ああ、見つかった。だがどうも、鉄パイプで殴打されたのかと思うくらいボロボロに壊された状態だった。誰かが私たちを、何としてでもここから出さないようにしているみたいにも見えた……」

「そ、そんな……」

 ほとほと参ったとでも言わんばかりの声色で、ユカリは萎えた葦のようにうなだれた。そしてアカリと同じような呻吟を口に出したのだった。

「じゃあ、他に出る方法は何かないの?」

 念のために聞いてみると、うーむ、と考える声がしてから答えが返ってきた。

「……普通、電車には非常事態のときに備えて他にも色んな装置があるものだ。手動でドアを開けるためのドアコックとか、車掌と会話するための通報ボタンとかな。だが……」

 アカリが言葉に間を作ったことで、そこはかとなく察しが付いた。

「……ダメだったんだ」

「ああ。どちらもありはしたんだが、ドアコックのレバーはいくら引いてもびくともしない。それに通報ボタンに関しては……」

「関しては……?」

 アカリが詰まらせた言葉を口にした。

「壊れてもいないし、ちゃんと機能もした。だが、どれだけ呼びかけても返事がないんだよ。多分、この電車に車掌がいない」

 落ち着いて聞いていたところ、耳を疑うような事実を教えられ、ユカリは驚愕と一緒に「え……⁉」と声を漏らした。

「て、てことは電車を止める術はないってこと……?」

「今のところは、な」

 隠しても隠しきれないふためきで満ちた声で、アカリは決定的な事実を悔しさで押し切った。その言葉はまだ続く。

「それに、電車が止まるだけじゃ意味がない。お前と私が、同時に同じ駅に出ないといけないだろ。電車を止めるのは、私が出る方法を考える時間稼ぎにしかならないんだ」

 四分前の背徳的なにやけ顔はどこへやら。ユカリは手で顔を覆うようにし、びくりと震えあがった。

 アカリならどうにかなるだろう。きっと最後には、アカリが何とかしてくれる。そう信じて疑わなかったことが儚い夢のように散っていく。虎の威を借りて高を括っていたのが嘘みたいに、希望が完全に崩れ落ちる音がした。

 気付くと電車は速度を落とし、再び駅に止まろうとしていた。


『西ノ京、西ノ京です』


 アナウンスがユカリの耳にも届いた。ピンポンが二回繰り返されるが、それ以前に外との通路は有り余るほど開通している。もちろん、ここで降りるようなことはしない。三十秒も満たないうちに、電車はまたも夜を突っ切りだした。乗車から今までで十分程度。二人は今も猶、何の発見もないままでいたのだった。


「……どうしよう」

 今になって、この言葉は遅すぎるのかもしれない。でもユカリは、どうすることもできないことに悔恨を感じずにはいられないのだ。


 ユカリは考えた。これまで何度も何度も考えてきたことを、考えた。


 世界は理不尽だ。理不尽なこの世界が幻想になればどれほど楽か、数えきれないくらい考え続けた。しかし、幻想であるマヤカシの世界でさえここまで酷で理不尽だとは予想もしなかった。

 自由に動けるアカリのマヤカシに対処法がないこの状況下、もし何かこの窮地を打破する手段があるのだとしたら、ユカリのマヤカシの中だ。この車両のどこかに、せめてものヒントがあるはず。


 それを解った上で、ユカリは何もできなかった。

 危ないのもある。アカリに引き留められたのもある。何もできない理由なんて、挙げれば山のように見つかるだろう。けれど、何もできない悔しさはそこにはない。それはただ一つ、ユカリの臆病な心の中にあった。

 アカリに「何もするな」と言われたとき、情けなさと一緒に、醜い安堵まで生まれたのだ。自分が『こっち』でよかった――自分が探し物をする立場じゃなくてよかった、自分が未知の恐怖にさらされる側じゃなくてよかった――と。責任がユカリにないこと、何もできないことが仕方ないということが、魘夢のような寒心から最低限の精神を守ったのだった。


 ユカリにとってそのことが、何より情けなくて、悔しかった。


「まだだ、まだ諦めるな」


 直後に聞こえたアカリの言葉が、ユカリにとって代えがたいあかりだった。



――アカリ――



 ユカリにだけは望みのある言葉を投げかけてやりたかった。たとえ目を背けているだけだったとしても、その不安を少しでもないものにするために、わけもなく自信のある言葉を届けてやりたかった。そのためにあらん限りの力を振り絞って打開策を勘案し、どうにか幸運か奇跡が起こってくれと願いながら車内をくまなく調べあげた。その結果が絶望的であることを、ものの数分で悟ってしまったのだ。何も見つからず、何の希望もないことを、ユカリには嘘偽りなく伝えた。それはユカリも同じく絶望させたに違いない。文字通り、どうしようもないのだから。だが、ずっと「どうしよう」と思い続けていてはどうにもならない。絶望的な現状を変えるためには、その薄暗い絶望の中から強いてでも希望を見出さねばならない。だからアカリは、「まだ諦めるな」と暑苦しい言葉を投げかけたのだ。焦る内心が言葉に出ようとするのを抑えながら。

 でもきっと、ユカリももう気付いたことだろう。

 アカリが思いつく限りは、万策尽きたことに。

 脱力感に、アカリは座り込む。座席ではなく、座席と床の間に体をねじ込むように。「諦めるな」なんて甲斐甲斐しいことを言い放った直後とは到底思えないくらい、膝を丸めて座り込む姿は小心者のそれだった。


 アカリとユカリは、突如として異なる次元に放り込まれ引き裂かれた。どうしてこうなったのかも、どうしてここから出られないのかも、一から百まで何も分からない。誰も教えてはくれなかった。

 二人は隔たれた次元の真ん中で、偶然にも、同じ位置に重なり合う。アカリはユカリの吐息が自分の肺から出ているような感覚がした。ユカリはアカリの呼気が自分のもののように思えた。対にされた、同じ二人。

 アカリはユカリとぴったり重なって、ある記憶が少しずつ鮮明になってくるのを感じた。頭の奥底、誰も知らない場所に押し込めた、去来する記憶の鱗片が。


 *


 今よりもっと幼い頃から、ユカリはあまりにも弱かった。

「誰の許しで勝手に外をうろついたんだ⁉ 言ってみろこのクソ女‼」

「お、お父さん、もうやめて…………」

 棍棒のような腕がユカリに影を覆いかぶせる。感情をコントロールできなくなったそいつは、重力に任せて棍棒腕を振りかざした。その打撃はユカリの額の寸でのところまで迫る。が、それがユカリに直撃することはなかった。頭から微かに赤色の液体を流し、それを無抵抗に受け取ったのは、他でもないアカリだったのだ。アカリに押しのけられ、不覚にも庇われたユカリは泣き叫びながら「ごめんなさい」と言って、アカリが「こっちへ来るな」と伸ばした腕を引っ張った。耐えられない痛みと恐怖に押しつぶされながら、しきりに「ごめんなさい」を連呼するユカリの表情は、さながらに地獄絵図とでも言えた。アカリはそんなユカリに脇目も振らず父親のほうを睨めつける。一瞬怯んだかと思った奴だったが、まもなく棍棒腕は再び勢いを増幅させ、今度はアカリの左頬を抉るように殴打した。その傷と痛みの記憶は今もまだ激しく眠りながら残っている。

 乱行欲求に飢えた餓鬼のような父親が標的にするのは、決まってユカリだった。毎日欠かさず痣を作られ、ときには包帯を巻かないといけないほどの打撲痕を皮膚の表面に生み落とし、ときには一日に三回鼻から出た血をティッシュで拭い、事が終わったら狭く暗い押し入れに閉じこめられた。そんな親父の愚行を見れば誰だって危機感を持つだろうが、母だけは違った。傷つき死に瀕したユカリを、吐瀉物か泥濘、あるいは人間サイズの粗大ゴミを見るように、寄らず障らずとして目くじらを立てた。そこに我が子を心配する気見合いがあるようには思えなかった。

 ユカリのような境遇の人間を何と表現すればよいのか、その全貌を見た者はきっとこういうだろう。虐待児、と。

 限界まで痩せ細り、青白い顔をし、それでもなお学校に通うユカリのことを意に介す者なんて、誰一人としていなかった。ましてや、誰がそんな惨めなユカリと友達になろうなんて考えようか。そんなだから、ユカリにとっての居場所はどこを探しても見つかるはずがなかった。登校路も、授業中も、休み時間も、下校路も、どこに生きてもユカリを救えるものは現れなかった。

 けれど、ユカリは孤独ではなかった。たった一人、アカリがいたからだ。アカリはどんなときでも、ユカリを守ってきた。ユカリが殴られそうになれば間に入り、ユカリが蹴られそうになれば身を差し出し、ユカリが暴言を吐かれそうになれば聞こえないように彼女の耳を塞ぎ、ユカリが独りぼっちになりそうなら手を差し伸べた。アカリはどんなときでも、ユカリを守る盾として生きると決めていた。それがアカリの自己満足や独り善がりでないことは、ユカリにもしっかり伝わっていたのだった。

 不満げにその場を立ち去る親父と、それに紐づけられたよう背後に着いていく母親。その後ろ姿を呆然と眺めていると、ユカリは音もなく膝から崩れ落ちた。背中を丸めて蹲る彼女の表情が消え去ったような顔から、シミだらけの床に粘着質な涙が垂れる。アカリは無言でユカリの肩に手を添える。アカリにできることは、ユカリの盾になることだけだ。それを知った上で、アカリは言った。

「……ごめん、次は絶対に守るからな」


 *


 こんな窮状で、なぜこの記憶が蘇ったのか、とんと見当もつかない。それでも一つ確かに言えることは、押し込めた記憶はこれですべてではないということだ。まだ何か、心の隅っこに置き去りにした記憶がある。


 抗うこともままならないアカリは無力感を肌に感じながら、重なったユカリの呼吸音が段々か細くなっていっているのを聞くことしかできなかった。

 この電車が終点に着いてしまえば、アカリとユカリは死んでしまうらしい。それと同時に、マヤカシも解けるんだとか。ユカリはともかく、アカリはここから出ることができない。つまるところ、終点でマヤカシが解けて電車が元通りになるまで、ここから脱出することはできないのだ。だが終点に着くということは時すでに遅し。要は終点に着かないまま、このマヤカシの電車のまま、外へ出る必要があるというわけだ。扉ががっちり固められた状態では、そんなことは不可能である。

 結論としては、このまま死ぬのを待つしかない、ということだった。

「クソ……クソッ……‼」

 アカリは鬱憤に任せて立ち上がり、どんと一発床を踏み鳴らす。カワタレ線だなんていう虚妄の産物にプライドを蹂躙された業腹を滾らせ、アカリはドアにへばりついた木片に一撃蹴りをかました。


 ――――バリッ。


 はっとして見ると、スニーカーが若干めり込んだ部分には細く亀裂が入り、ささくれができていた。腐った木の一部分がショックで垂れ落ちる。

「ア……アカリ?」

 ユカリの弱々しい声がする。けたたましく鳴り響いた衝撃音を聞いてさぞ驚いたのだろう。鼻をきつく縛ったような声だった。

「ユカリ、聞いてくれ」

 アカリが画策を雄弁するのを邪魔するかのごとく、ほぼ同じタイミングで車内全体に音が飽和した。


『結崎、結崎です』

 アナウンスの次に流れたのは、ピンポン、ピンポン、という軽やかな電子音。明確に聞こえたのは聞こえたが、想定通り扉はガンガンとぎこちない音を立てて開くことはなかった。見回す限り、目の前のものと同様にアカリの脱出を断固として拒否する扉がずらりと連なっている。アカリにこれっぽっちも興味のない電車は前に走り出し、夜半を突き抜けようとする。

「それで、何?」

 ユカリが言った。アカリは一息置き、続ける。


「……出られる望みは、まだあるぞ」

「どういうこと……?」

 懐疑的な声色をしながら、ユカリが疑問符を付ける。

「今、扉を塞いでいる木を蹴ってみてな。そしたら部分的に木が剥がれたんだ。偶然かもしれないが、間違いなく少しは傷がつけられるらしい」

「うん……って、まさか」

「ああ、そのまさかだ。木の板さえ壊せれば、私も電車の外に出られる。それまで待っていてくれ」

 アカリはそう言い切ると、先ほど蹴った木片から少し距離を取る。直後、五十メートル走をするくらいの速度をつけ、そこに足を突き出しながらぶつかった。どすっ。固く、鈍く、沈むような音をまとって木片のささくれが大きくなった。そして、木と接触した足の裏がぶたれたときのような痛みで押し返された。

「く……」

 アカリは自分の足の裏を握るように撫でる。爪先がぴりぴりと痺れるが、感じないふりをしたアカリは力ずくで立ち上がった。

「アカリ……」

 ユカリの言いたいことは分かっている。アカリはすかさずこう言った。

「心配するな。私はお前より頑丈だからな。お前は人の心配する前に自分の身を案じておけ」

 強がりにもそう言ったアカリはまたもや助走をつけ、木片に対して猛烈な怒りと希望をぶつけながら突進した。肩がごきっと嫌な音を立てるが、全身で与えたダメージは大きい。木に走ったひびの線が太くなり、やがて真っ二つに割れた。

「……よし、これで一枚」

 ざっと見て、扉の開閉が可能になるまで破壊しなくてはならない木の板の枚数は、残すところあと五枚だ。アカリは脳に血を巡らせ考える。直近で通過した駅は、確かこの路線の折り返し地点だった。朧げな記憶によれば、たしかこの電車が始めから終わりまで走るのに各駅停車で三十分ほどかかる。ということは、残り時間は約十五分。このペースで一枚を壊せるなら、全力で急いでようやく間に合うくらいだろうか。何にせよ、今は休んでいる暇などない。どん、と肘を突き出して別の板に衝撃を打ち込む。どん、どん、どん。同じ大きさの痛みが肘から腕に這い上ってきた。

「い゙ぃ……ったぁ……っ」

 それでもまだ、やめるわけにはいかない。板は確実に体力をすり減らしていることだろう。それに意味があるなら、これをすることで外に出られるかもしれないなら、やめる選択肢は選ばない。肘の骨がごりっと擦れる感触が痛覚として伝わったが、アカリは表情一つ変えずして疎ましい木片を凝視する。次は両手の指を交差させ、ハンマーのようにして打ち付ける。がどん、がどん、ボロボロの電車はその揺れに呼応するかのごとく横揺れした。板に衝突した肉が骨からずれて、衝撃は皮膚一枚を挟んだ骨に直接伝導する。ごきゅっ。人から発せられるものとは思えない不快な音を耳にしながらも、もう一回、もう一回、終わりを感じさせずに打撃を継続する。元の位置からずれた肉がそぎ落とされるような痛みを味わい、アカリは心の中で悶絶する。それでも殴りをやめない理由は、その痛みと同じ大きさの痛みを木の板にも与えられているという事実に他ならなかった。狙いを定めている木片には小さな割れ目がいくつもでき、手のハンマーが振り下ろされるたびにその数を増す。もはや板に対する殺意とでも形容できよう気概はアカリの腸から止むことなく滾っていた。

「ア……アカ……」

 ユカリの怯えた声も、マヤカシに怒り希望を振りかざすアカリの耳には届かない。アカリは再び板に足を突き付け、怨恨に似た熱い感情をもって蹴りを入れ続けた。反動でアカリの体は後ろに吹っ飛ぶ。尻もちを着いたアカリだったが、幸運にもその傍らには鋭利な角を持った鉄の棒が乱雑に転がっていた。一目散にその棒を握り締め、槍で突くかのように先端を板に向けて突っ走る。素手よりダメージの大きさはお粗末だが、一点を狙った刺しは決定的な一打となって板をかち割った。ごとんと木の破片の一部が床に転がり落ちる。

「はあっ……あと……四枚…………ッ!」

 荒れたがなり声を発すると、ユカリが口を開く。


「アカリ、やっぱり心配だよ」

 ユカリからはあまり聞かない、ぎゅっと密度に富んだ声がした。

 アカリは胸をどきりとさせる。恐る恐る自分の体を見たアカリは、その満身創痍さを自覚した。靴下を下げると足首の骨が変な方向に曲がっており、痛ましい悲鳴を上げた肘は黒色と紫色を混ぜたような色にどっぷり変わっていた。手をパーにしようとすると、うまく指を広げられない。目を凝らしてよく見てみれば、両方の小指と薬指がさっきの肘と似たような変色の仕方をしていた。それだけでない。腕も、脚も、首も、体の節々に力が入りにくい。ずっと痛みを受けてきた足に関しては、もう痛みすら感じづらくなっていた。

「もうぼろぼろなんでしょ、無理しないでよ。私、アカリが傷ついてるのはもう見たくない」

「そんなこと言ってたら死ん……」

「分かってる。分かってるよ。だけど、そのままじゃアカリが壊れちゃう。落ち着いて考えてみてよ、アカリが急ぎすぎたせいで怪我でもして、木の板を壊せなくなったら、もう絶対出られなくなるんだよ。だから、落ち着いて」

 『落ち着いて』、その言葉にアカリはようやっと目を覚ます。今のアカリの固執的な行為はユカリに心配をかけさせてしまっているのだ。それもアカリに対して合理性を説くくらいに。アカリは静かに「……すまん」と謝る。直後、速度の消えた電車が言った。


『石見、石見です』


「すまん、ユカリ。約束はできない」


 アカリは焼きが回った体を操り人形のように動かし、再び木片に打ち付け始めたのだった。




――ユカリ――




 どん、どん、どん。

「…………」

 どん、どん、ごとん。

「………………」

 どがっ、どごんっ。

「………………はあ」

 人間の肉と無機物の硬い物が激しくぶつかり合う音を、ユカリは溜息交じりに呆れながら聞いていた。ユカリは自分を守ってくれているアカリに対してとやかく言う立場ではないのだが、ここは敢えて声を大にして言う。

 アカリはバカだ。それはもう、大バカ者だ。いくらユカリのためとは言え、「落ち着け」とか「無理するな」とかお節介なことを平気で言うくせに、ちょっとでも責任感に駆られると簡単に冷静さを失うし、無理もしてしまう。それに、いざユカリに「落ち着け」と言われてみれば「約束はできない」だなんて言ってまた無理をしだすのだ。自分の言うことは強引にも聞かせる割に、当の自分に対する指図はとことん無視するアカリは、普段ならユカリの何倍も頭がいいのに、そういうときだけはさながらワガママなちびっ子だ。ほとほと呆れてしまう。

 ユカリは一歩も動けないまま、膝に肘をついて不貞腐れた。何もできないことに自責の念を抱いていたことが嘘のように、一周回って退屈までしてきたのだ。はああ、と巨大な青息吐息を放出しつつ、またその音を聞き出した。どこどこ、ばんばん。ばりっ。アカリが阿呆になって奮闘している音を、ユカリは淡々と聞いていた。


『畝傍御陵前、畝傍御陵前です』


 アナウンスは停車を告げる。駅がすぐそこに見えているが、ユカリは降りようとはしない。その代わり、二度目の溜息を吐いた。なぜなら、この駅が終点の一つ前の駅だからだ。

 この駅で降りられなかったのなら、次の駅は終点。だが終点で降りるということは、すなわち死を意味する。だから、生きてこの電車から降りるためには扉から飛び降りなければいけなくなってしまった。できれば怖いことは避けたかったけれど、間に合わなかったのなら仕方ない。ユカリはそのことに、嘆息を漏らしたのだった。


 ――――ゴスッ…………バギィッ‼


「お……?」

 一際大きな攻撃音が轟然と響き渡ったのを最後に、音は止んだ。恐らくこれは、アカリの仕事が完遂されたことを告げる合図なのだろう。

「ユカリ、ユカリ! 壊したぞ……これで扉が開く……! 今ドアコックで開けるからな!」

 アカリが興奮したようにそう言う。ここまで理性を失っているアカリは久しぶりに見たから揶揄いたくなったが、ユカリは平然を装って黄色い声を上げた。

「やった……! どうにか間に合ったんだね」

 ユカリは初めてこの電車の中で立ち上がる。何も持っていないとすぐ吹き飛ばされそうな予感がしたので、鉄の握り棒を離すまいとしながら、ガラスのない床を選んで足を置いた。

「じゃあ、飛ぼうか」

 ユカリがそう提案すると、アカリは「……は?」と呟いて

「と、飛ぶって何のことだ……?」と訊く。

「ほら。さっきの駅、終点の一個前の駅でしょ?だから、駅に着いたタイミングで降りるってできないんだよ。だから扉から飛び降りて着地するしかない。って、気付いてなかったの……?」

 ユカリが面白がるようにそう聞き返すと、アカリは露骨に動揺を示した。

「なっ、なんだ。それくらい普通に教えろ! 必死だったんだよ……」

 ユカリは、ふふ、と朗笑した。やっぱり、アカリはユカリにも呆れられてしまう、おっちょこちょいでおっかない、どれだけ危険なことからもユカリを守ってくれる、唯一の大好きな家族だ。ユカリはそう思った。

 ああ、そうだ。ここから飛び降りれば、恐怖の渦中でけらけらと笑っていた魔のカワタレ線から逃げることができるんだ。そうだ、これで終わりなんだ。そう思うと、なぜかこのマヤカシを見せていたカワタレ線が恨めしくはなくなってきた。アカリと喧嘩したことなんてとうの昔に忘れ、セロ弾きのゴーシュの思い出を胸に、アカリと共に紡いだかけがえのない記憶たちの大切さを、このマヤカシの中で思い出した。人は、一時どれだけ大切に握りしめていた記憶でも、時間が経てば簡単に忘れ去ってしまう。時間はそれくらい、場所も、人も、想いも、味も、匂いも、温度も、愛も、ひょいと赤子の手を捻るかのように、なかったことにしてしまうのだ。もしかしたら、アカリのことも忘れてしまうかも。そんなことが起こってしまうくらいなら、いっそ時間が止まればいいのに、と数万回は考えたことがある。そんな恐怖を身近にして、今更マヤカシなんて怖くない。今日のことだって、時間が経って大人になってしまえば忘れてしまうかもしれないのだから。


 ユカリは扉の縁に手をかける。ほぼ同じ場所で、ほぼ同じような音が聞こえたから、きっとアカリも同じ扉から飛び降りようとしているのだろう。ユカリは小声で「……準備はいい?」と言った。「いつでもできてる」とアカリの返事が来るまで、暫し間があったのは、彼女がどこか不安がっているからだろうか。

「よし、じゃあ……」

 行くよ、と言いかけたとき。アカリが声を挟んだ。

「なあ、ユカリ」

 やけに静かな声だった。

「何?」

 そう聞くと、不自然に長い沈黙を作ってからアカリはこう言った。

「……いや、何でもない。外でまた話すとする」


 得も言われない不安の剥片がユカリに覆い被さった。ユカリはずっとアカリのことを忘れない。もし時間がそれを許さなかったとしても、ユカリはそれに藻掻き抗って記憶に留めておくつもりだ。だけど、アカリはいつまでもユカリのことを覚えていてくれるだろうか。時間が風化させる速度に、アカリも走って追いつけるだろうか。もったいぶったその先で、アカリはユカリのことを覚えているだろうか。一抹の疑問が頭を掠めた。


 ……いいや、きっと覚えてくれている。ユカリはアカリを信じている。


「そっか、待ってるね」

 雑念を捨象したユカリは、膝を曲げて重心を前に倒した。


「せーのっ」

 瞬きした次の瞬間、既にユカリの体は電車の外に放り出されていた。風が気持ちいいくらいに全身を包み込む。視界が二転三転したところで、背中と頭が勢いよく叩きつけられる軽微な痛みがした。


 ユカリの意識は、そこで途絶えたのだった。



――アカリ――



 ぼうぼうと繁茂した草がある程度のクッションにはなってくれたものの、それでも転がるように地面に全身を打ち付けた。藪を引き裂き、肌にアスファルトが触れ合う感触が伝わったくらいで、体は静止する。アカリの体は仰向けになったようで、アカリの目には茫と月が映った。眩しさのない月が、アカリの意識を少しだけ正常にした。

 右手の指を曲げ、手のひらを地面に強く押し付ける。力任せに上半身だけを立たせ、座るような体勢になったアカリは、ずんと瞼が重くなるのを感じた。卒爾ながらに峻烈な眠気がアカリを襲ったのだ。午後九時半にあれだけアクティブなことをしていたのだから、むしろ眠気を感じなかったのが不思議なくらいだが、折も折だ。開ききらない半目で辺りを眺める。黒い道路、黒い草木、黒い蚊柱、黒い服。夜がいろいろなものを無造作に黒く変えている。よりいっそう強まった重力に逆らいながら、アカリは立ち上がり、スカートに付いた草や細い枝を掃った。

「ユカリ…………大丈夫か…………」

 緩んだ声帯から吐き出される声は、どこまでも不安定で不甲斐ないものだった。アカリはそんな声にならない声を投げかけながら、ユカリを呼びかける。マヤカシが支配するカワタレ線から脱出したのだから、姿は見えるはずだ。視覚と聴覚をフル稼働させながら、ユカリを探す。同じ場所から飛び降りたということは、そこまで遠いところにはいないのだろう。とにかくいち早く顔を合わせないと。ユカリも心配しているはずだ。アカリはそれを心に、懸命に捜した。


 そして、アカリは見つける。

 目を止めた先には、ユカリがいた。

 後頭部から血を流したユカリが、そこにはいた。

「ユカリ……………………‼」

 アカリは低い草花のベッドの上に横たわるユカリに駆け寄る。肩と首を手で支えながら顔を見ると、目を閉ざして無表情のまま固まっていた。アカリは小刻みに震える指先をユカリの首に宛てがう。とくん、とくん、と、寸毫の血の流れが確かめられた。これが「まだ息がある」という状態なのだろう。愴惶としてアカリは目を付近の鉄柱に遣る。そこには赤黒い液体がずり落ちるように付着していた。まだ乾ききっておらず、ぽたり、ぽたり、真下の草を暗闇でも映える紅色に染め上げていた。

「あ…………あ…………」

 アカリは取り乱す。こんなときにどうすればよいか、そんなことを学校で教わった覚えはない。ドラマで主人公がしているような応急処置の仕方も知らないし、止血の方法なんて微塵も分からない。いくら天才肌を有するアカリと雖も、この際はどうしようもなかった。誰か助けを呼ぼうにも、ここは人気のない田舎道。周りにあるものといえば畑や電柱などという有れども無きが如き烏合の衆くらいだ。加えてアカリは所持品を仕舞った鞄を車内に置いてきたせいで、まともな連絡手段も持ち合わせていない。考え得る中で、最悪な情勢にいた。

 だが不幸中の幸い、この場所には見覚えがある。未開拓で広大な空き地、ユカリと家に帰りたくなくなったときによくここで時間を潰した。ここから自宅まではそう遠くない、ちょうど一駅分の距離だ。道も分かるし、歩いて帰れないことはないだろう。が、問題はユカリだ。こんな状態のユカリを置いて行くことは許されない。この出血量では、暫時でも野晒しにすれば命が途切れてもおかしくなくなってしまうのだ。

「どうしよう……」

 アカリが最も言いたくなかった言葉が口から飛び出た。

 芝生の上にしゃがみ込み、頭を引っ掴んで悩む。自分は今どうすればいい? 返答の無い問いを宙に弾き飛ばす。恐怖と震撼の脱出劇が終わって一安心できる、そう本気で思っていたのだ。危険と隣り合わせだったユカリを守りきり、怖かったと泣き濡れる彼女を宥めすかし、精も根も尽き果てたような様相で大嫌いな家のインターホンを鳴らす。そんな現実はあと一歩で具現化するところだった。それが今や風の前の塵に同じく、子供騙しかと思えるほど架空の未来となってしまった。もしもアカリに完璧な手当ができたのだとすれば、ユカリが助かる可能性は残されている。だが仮にそれが叶ったとして、ここまでの出血を負って安全に帰宅なんぞできるわけがない。二人で無事に帰る妄想は逆夢となって現実に帰属したのだった。こんな顛末を、誰が「アカリがユカリを守った」と言えようか。重篤な少女と狼狽えるだけの少女。ただ一人身動きが取れるアカリが取るべき行動は何だ。

 ……思いつくことは一つだけ。だが、それは希望を妄信せねば下せないような苦渋の決断だ。そこまでの敢然さが、アカリにあるだろうか。アカリは抱えた首を小さく振る。とても彼女になし得る所業ではない。無理だ。アカリにはよく分かる。これは、無理なのだ。

「…………無理でも……やらなくちゃいけないだろ…………」

 アカリは論理や合理を頭の中から一蹴した。思考なんて要らない。選択肢はもう残されていないのだ。アカリは頬から顎に伝う汗を滴らせながら、アカリはユカリの体をうつ伏せにする。そして倒れ伏した彼女の頭上に座り込み、夜風に冷やされたユカリの両腕を握り掴んだ。絞り出した一滴の体力でユカリの体を前に倒す。彼女の全身が背に乗ったことを確かめると、アカリはユカリを自分の背に担いだ。ユカリは体重が軽い。十三歳だと心配されるくらいに、アカリが軽々背負えてしまうくらいに、体重が軽い。アカリは蹌踉めく左足を前に踏み出した。鈍重な反動が足の裏を跳ね返す。負けるものかと右足を押し出す。体を支える軸がぶれて姿勢が崩れ、アカリは今も横倒れになる寸前だ。それでもなお一歩、また一歩と仄暗い盤上に足の駒を一枡ずつ進めていくのだった。

 見える景色が非常にロースピードで変遷する。まだ百メートルも移動していないということが信じるにかたいほど、全身のありとあらゆる毛穴から汗が滲み出てきた。そもそも木片の破壊で疲れ切ったアカリの体に同年代の人間を乗せることは決して容易ではなかったのだ。背中に安定して乗せようとする度、元々体を地面に引っ張っていた重力が激烈に強大になる。歩みを進める度、体内にあるあらゆる臓物が圧迫され息をするのも難しくなる。

 それでも、アカリは進んだ。夜に冒された街を踏破しようと。


 *


 視界がぐらつく。

(……もう目も私の味方をしてくれないというのだろうか)

 足が萎れる。

(……関節が外れていて歩くたびに死ぬほどの激痛が走る)

 息が詰まる。

(……肺が機能を果たしたかのように空気の通りが悪い)

 鼓動が不規則になる。

(……きっと心臓が体に血を送り出すのを嫌がっている)

 頭が痛む。

(……逆に言えば痛みを感じる部位は頭だけになってしまったのだ)

 耳鳴りがする。

(……奇しくもキーンという音のほかには何も聞こえない)

 寒さが肌を突き抜ける。

(……ユカリが感じていたのはこんな残酷な温度だったのか)

 

 細い蔓に絡まった足に気付かないまま、膝を曲げられたアカリは汚れた地面へ肩から落下した。背中にいたユカリの体も木偶人形にごろごろと転げ落ちる。うつ伏せになって顔を真下に押し付けたアカリの舌には、悲しいくらいに湿って冷えた土や泥の味が伝わった。虚ろな目をしたアカリが立ち上がろうとしたことに冷や水をかけるように、全身の痛みがそれを抑えつけた。

 アカリは咽び泣いた。嗚咽なのか喘鳴なのかも分からないような掠れた音を口から飛び出させて、目からは生暖かい汁を零した。顔を引きつらせて前を見ると涙すら流せなくなった冷たいユカリが目に映って、アカリは叫喚を上げるように号泣した。

 口にしていない、ただそれだけであって、アカリは初めからすべて分かっていたのだ。自分はもう限界に達しているのだと。このままユカリを担いで歩けば、意識を保っている自分ですら家に帰れなくなると。

「じゃあ……じゃあどうしろっていうんだよ……」

 アカリは自分でも聞こえない声で小さく叫んだ。ユカリはもう助からないから、諦めて自分だけ家に行けとでも言うのか。そんな最悪な結末が起こることを、アカリの手で赦免しろと言うのか。できるはずがない、弱くて、弱くて、目の前のユカリの何倍も弱いアカリには、そんなこと。

 アカリにとって最も合理的な選択肢である『ユカリを置いて一人で助けを求める』ということを無視したとき、彼女に訪れる道は既に死しか残っていなかったのだった。


 地を這いつくばり、ユカリの上にアカリの影を作る。幾筋もの涙の玲瓏な水滴がユカリの頬に振りかかった。ユカリは何の文句も言わずにそれを受け止めていて、眠りよりも深い眠りに落ちきったようだった。

「……なあ、起きてくれよ、ユカリ」

 呼びかけに応答はない。ユカリは眠ったままだ。悲しいかな、彼女の眠りが二度と覚めないものであることは点と点を線で結ぶくらい明快に理解が及んだ。心臓が肉を貫いて悔しさを叫び出そうと暴れる。アカリは痛みすら消え失せた手のひらを地面に叩きつける。

「ユカリ。お前まだ聞いてないだろ、私が言いたかったこと。『待ってるね』って言ったくせに。最後くらい約束は守れよ」

 アカリは半ば怒るようにして責め立てる。かつてのユカリなら肩を揺らしてやむを得ず話を聞くはずが、今のユカリは何も言わない。言えないのだった。アカリの目の中に暗涙が溜まる。水の流れるように注ぎ込まれたそれらの芯には、ユカリに伝えようとして宙に浮いた言葉たちが詰め込まれていた。

 アカリは責めた口調をやめ、怒りから色を手放す。絶望も現実逃避ももう遅い。アカリの中に残っているのは、ただ本音だけだった。

「……最後だから、特別だ。今から言うから黙って聞いてろ」

 嗄れ声でそう言ったアカリは、枯れかけの涙を袖で一、二度拭う。それからアカリは衷心に秘めた声を長く語りだしたのだった。


「私はな。ずっと言いたかったんだよ、お前に……『ごめんなさい』って。一丁前にお前を守る約束をしてたのに、実際はお前に冷たい態度取ってばっかりだった。バカだとか呆れるとか、思ってもないことを言って人一倍高いプライドだけ死守していたんだ。そんなつまんねえことして、やっと気づいたよ。お前の辛い毎日をさらに辛くしたのは、お前を守るフリしてる自分に酔った私自身だったんだな。それも今知るには遅すぎた。素直に『大切にしている』って言うくらい、私には容易かっただろうに、こんなになるまで私はお前に苦しい思いをさせるだけの邪魔者になっちまった。正直、今の私にお前の妹を名乗る資格なんてどこにもない。無駄な喧嘩で余計に傷つけた人間のことを、お前は許すべきじゃない。私はそれだけ許されないことをしたんだ……ただでさえ辛いお前に、面と向かってな。本当、恥知らずだったよ。でも…………でも、できることなら、今日のことを笑い話にできるような日々をお前と一緒に送りたかった。あのクソ親父に魘されて、学校でも虐められて、それでも心の居場所になれる、そんな偶像を夢見てた。きっとそのチャンスは、今までごまんとあった。それなのに、私は……」

 アカリは喉にコルク栓をしたように、一寸の間だけ言葉を詰まらせた。

「……セロ弾きのゴーシュ。あれを読んでいたときのお前の姿を、陰からずっと見ていた。お前が本に夢中になるなんて思ってなかったから、意外だったよ。でもな、本当のことを言うと、私はあの本の良さが何も分からなかったんだ。凄みも迫力も感じなかった。序破急なんて小学生の作文と同じくらいだし、私が書いたほうが幾分かマシなものができる、そんな自惚れたことを考えていたんだ。だからこそ私は……たかが小説ごときに深い愛情を持てるお前のことが、多分羨ましかったんだよ。私にはできないことを軽々やってのける、なのにそこには余計な矜持なんて一切ない。私はそんなお前に憧れちまった。それが今じゃ、私はあのゴーシュより不器用で情けない。こんな私を見たら、お前は呆れて笑うんだろうな……」

 アカリは全てをうっちゃったような顔を浮かべる。

「…………いや、笑ってくれよ。バカにして、呆れて、私がお前にしてきたこと全部、やり返してくれよ」

 一頻り吐露し終えたアカリは微笑して、目の奥の光を風前の灯火のようにゆらゆら揺らした。


 陳じた言葉たちは冷めきった夜の外気に吸い込まれ、跡形もなく消される。紙飛行機のように誰かに偶然届くこともなければ、アカリでさえ何と言ったかをよく思い出せない。でも、あのときアカリが躊躇わずに時間を稼いでいれば、これらはすべてユカリが息をしているうちに伝わっていた。それをすることは決して難しいことではなかったはずだ。それすらもできなかったアカリを、アカリはどこまでも嫌厭した。


 電車から飛び降りたときだってそうだ。控え目で、意気地なしで、根性なしで、内向的で、あえかで、女々しいユカリが、距離のあるところからジャンプしようだなんて敢然と英断するとは考えもしなかった。それくらいユカリには勇気を出させておいて、結局助かるのはアカリだけだというのだ。さらにはそんな機宜を、単なるアカリのエゴで捻り潰し自分すらも助かる可能性を捨てたというのだ。


 ああ、なんて醜いのだろう。カワタレ線に乗る前にユカリを守っていればこんなことにはならなかったのに。自分の顔を両手の五指で引っ掻いたアカリはそう思い、気付けば自らをも呪っていた。いくら懺悔しようとも消えはしない十字架を背に、いくら祈ろうとも蘇りはしないユカリの体を抱きしめる。それは想像もできないほどに冷たくて、もう思い出せない体温を感じさせるにはあまりに儚すぎた。

 ユカリだった肉体を抱いたアカリは言う。


「ごめんな。最後の最期に、守ってやれなくて」


 尽きたと思っていた涙がまたも頬を伝う。その人肌温度の液体は、最期まで失っていた記憶のすべてをアカリに追憶させた。


 アカリはユカリの双子の妹などではない。

 アカリが生まれたのは、ユカリが生まれたずっと後のことだ。


 それを知ってもアカリの心境は変わらない。

 ほどなくして、アカリはぎゅっと目を瞑ったまま意識を絶やした。















 ――――ピンポン、ピンポン。












――??――



『橿原神宮前、橿原神宮前です。この電車は、この駅までです』

 少女は、終点にて目を覚ます。

 カワタレ線の乗客となってしまった少女。彼女は今に至るまで、とあるマヤカシを見ていた。一体何を見ていたのか、マヤカシの概要を知るためには、まず少女が何者なのか、少女の生きている環境が如何なるものなのか、知っておかねばならない。


 奈良のとある僻地に、幼い少女がいた。少女の名は、ユア。

 ユアの環境――とりわけ家庭環境は、世間一般の言う『普通』とは大きくかけ離れていた。父親からの暴力は絶えることを知らず、ユアに対して恐ろしいまでの無関心ネグレクトだった母親の助けはおろか、幼い彼女には司法に頼る選択肢さえなかった。虐待の始まった頃……といっても五、六歳くらいのときだが、その頃はこの仕打ちこそが世間の言う『普通』であると妄信していた。が、ユアが年を重ねるうちにその洗脳は解けていき、同時に彼女の家庭の異常性が彼女自身にも昭然と見えるようになった。日を超すたびに傷だらけになる腕を長袖の服で覆い隠し、猛暑日でもそれを人前で脱ぐことをせず、喜びや怒りが欠如した脳髄で、死に物狂いで『普通』と『幸福』を取り繕った。だが、その尽力の先でも虐待は止まらない。罵詈雑言と暴行と睥睨と瞋恚に苛まれ続けたユアの心は、既に雪崩のごとく崩れていた。口の中で欠けた歯と舌の欠片が転がろうと、ユアのぞんざいな扱いに異議を申し立てる者が現れることはなかった。

 ユアの心が、とうとう限界を迎えるまでは。

 完全に精神が壊れきったそのとき、ユアの心の中ではとある変化が生じた。ユアの心をガラスの塊に見立てたとき、従来のユアは外部から受けた傷をそのまま心に伝達していた。それにより一繋がりになったガラスの塊には全体的にひびが走っていたのだ。そのままではユアの心はいずれ粉々になり、完全に消滅してしまう。それを危惧した精神と脳はユアの意思に関係なく、心の一部を意図的に切り離したのだった。切り離された心の欠片に家庭や学校で受ける傷の数々を集中させれば、破損してしまうのは一部で済む。いわば心の損切りを始めたのだ。それから次第に、ユアは感情や情緒を取り戻した。好きな食べ物を見れば目を輝かせられる、感動的なドラマを見れば涙を流せる、親族が亡くなれば戚然となれる。今まで為し得なかったことができるようになったのだった。

 ほんの少しだけ感情的な人間性を獲得したユアだったが、虐待は依然として続いていた。ゆえに彼女の心の中には身代わりとして切り離した心の破片が未だに存在していた。恐るべきことは、それが『生きている』ということ。ユアでさえ知らない心の深淵で、はたまた心の死角になる片隅で、心の断片は成長していたのだった。新たに命が芽吹いた乳児のように、すくすくと育ってゆく幼子のように、それは段々と、全く別の新たなる人格を生み出したのであった。

 一つのユアという人間の中に、人格が二つ。ユアの心は知らず知らずのうちに、非常に珍しい精神状態になっていた。そう、これが誰しも一度は耳にする精神疾患の一つ、『解離性同一性障害』。より馴染み深い言葉では『多重人格』と呼ばれる病気であった。病院を受診することさえできないユアがその名を知ることはなかったが、僥倖にもユアの中で新しく誕生した人格は、傷だらけのユアを極悪非道な虐待から護る『盾』となってくれたのだった。


 マヤカシの中で出てきた二人、ユカリとアカリ。

 彼女らは、ユアの心にいた二つの人格そのものだったのだ。ユカリはユアが出生直後から持ち合わせている主人格、アカリはユアの解離によって端無くも生まれた『盾』を役割とする別人格。世界のすべてがマヤカシになって初めて、二つの人格は肉体を持って現れたのだった。

 電車の中から出たユアは、駅舎の中を彷徨する。ふとある一点に目を止めると、無心でそこを目掛けて歩きだした。そこは、ゴミ箱だった。誰にも見つからないような、寂れたゴミ箱だ。ユアは今にも折れそうな細い腕でそれを退かし、生じたスペースに体をねじ込んだ後、もう一度ゴミ箱を引っ張って元の位置に戻す。人間がひょいと捨てたゴミたちの臭いが鼻腔を撫でる。ユアはそれに一抹の不快感も憶えず、むしろ似た者同士の心地よい思いでコンクリート製の壁に凭れかかった。


 ユアユカリユアアカリを抱きしめる。

「マヤカシの中でも、私のこと大切にしてくれてありがと」と言った。

 ユアアカリユアユカリを抱き返す。

「守るって約束したんだから当然だろ」と、照れくさそうに言った。

 二人は同じユアという肉体の器の中にいるだけで、本当は全くの別人だ。今のユアの姿を見る者がいれば、その者にはユアが一人で自分の体を抱きかかえているように見えよう。でも、そうではない。二人が、同じ体に宿ったもう一人を抱きしめている。ただそれだけのだ。


 ゴミ箱の奥で人生の革命前夜を迎える二人は、声を交わす。

「ねえ、アカリ」

「何だ、ユカリ」

「もうあの家に帰りたくないよ。ずっと一緒にいてほしい」

「……当たり前だ。私はお前から離れたりなんかしない」

「本当?」

「もちろん本当だとも」

「信じていい?」

「お前が私のことを信用してくれるなら、な」

「当たり前じゃん。私が誰よりアカリのことを信用してるんだもん」

「ふふ、そうかい。ユカリにそう言われるのは光栄だな」

「……ねえ」

「今度はどうした」

「マヤカシの中だったけどさ、私アカリと会えて、すごく嬉しかったよ」

「……はっ、奇遇だな。私もだ。やっと二人でああして顔を合わせられたんだからな。それだけで、私は幸せだったよ」

「……えへへ、私も」

「………………」

「アカリ、最後にもう一つだけ」

「何だ?」



「今まで守ってくれてありがとう、アカリ。だいすきだよ」



 ――――きのう午前六時頃、奈良県の橿原市内にある橿原神宮前駅にて、女の子が遺体で発見されました。亡くなったのは岡崎優亜ちゃん(十三歳)で、駅構内で死亡したのち数日間放置されていたものと見られています。現場検証の結果、死因は長期間の放置による低体温症、および餓死であると推測されています。また、遺体発見から三日前の午後九時十七分に、大和西大寺駅内の監視カメラに優亜ちゃんが映っていたことが鑑識の捜査により判明しました。加えて、優亜ちゃんが実親である岡崎夫妻から虐待を受けていたことなどの疑惑が捜査関係者からの取材で浮上しており、優亜ちゃんの家庭環境における著しい問題によって引き起こされた自殺と見て、動機などの詳しい捜査を続けています――――


〈了〉

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