第18話 世界は愛に
燃え盛るネモフィラの花畑は消え、私は薄暗い戦闘指揮所に戻って来る。際限なく涙が溢れ出してくる。せめて五分でいい。それだけでいいから、悲しむ時間が欲しかった。でも状況はそれを許してくれない。今も警告音が鳴り響いている。
「……神というのは本当にどうしようもないな」
おばあちゃんが涙をあふれさせながら、ぼそりとつぶやく。
みんながみんな涙を流していた。きっと私と同じような目にあったのだろう。それでも誰もが諦めてはいなかった。失ったもの。救えなかったもの。取り戻したいものは誰にだってある。それでも私たちは、前を向く。
「……夢を見た。かつての同僚たちと毎日を幸せに過ごす夢だった。科学は際限なく発展してゆき、切磋琢磨する私たちはいつだって世界の最前線を走っていた。……だが夢は夢だ。例えどれほど冷たくとも、私には守るべき現実がある」
おばあちゃんは心から悲しみを噛みしめるみたいに、堅く目を閉ざす。けれどそれでも決して折れていなかった。今も必死でその小さな体を震わせて、無限のイデアと神に抗っている。
「……私も夢を見ました。夢の中では私は好きな人と結ばれていて。……でも結局、私はお母さんなんです。好きという気持ちが叶わない辛い未来でも、それでも好きな人が幸せになってくれるのならそれでいいと思ってしまう。
お母さんは記憶を失う前のような力強い表情を浮かべていた。これがお父さんの言っていた、お母さんの本物の強さなのだろうか? ……でもなんだか違う気がする。無理やり自分を鼓舞しているような気がするのだ。私はそっとお母さんを抱きしめた。
「これからも、弱くてもいいんだよ?」
つぶやくとすぐにお母さんはまた頼りない表情に変わってしまった。その直後、泣き崩れてしまう。でもそれでも一言「ありがとう」とだけ微笑むと顔をあげて、すぐに自分の出来ることに取り掛かっていた。艦内から瞬く間に減りゆく弾薬の生成だ。お母さんもこのどうしようもない現実に抗おうとしていた。偽りない本物の強さで、頑張ってくれている。
「私も叶わない恋が叶う夢を見ました。あんな幸せな夢をみせられたら、正直心が揺らぎました。でも私が好きな人は、頑なで罪深くてちょっと抜けてて、でも優しくて……。この辛い現実だからこそ生まれてくれた。そんな人なんです。だから私は、諦めません。神様の力なんて、借りません。現実を、否定なんてしませんっ!」
桜はミアを見上げながら微笑んだ。その紅い瞳には涙の色がみえる。ミアはそっと桜を抱きしめてつげる。
「……私もお姉ちゃんが死ななかった世界をみた。復讐に命をかけることもなくて、不老にもならなくて。穏やかに年老いて、二人で一緒に死んでいく。そんな幸せな夢を……。本当に、……忌々しいほどに理想的だった。でもそれでも、私の手元にはもう、幸せがある。手放したくない幸せがあるんだ」
私たちは結束を確かめるように、視線をかわした。勇気が心の中からあふれ出してくる。けれど依然、状況は絶望的だ。イデアの壁は分厚く、弾薬はほぼゼロ。おばあちゃんもすっかり疲労してしまっているし、神の領域の前にはまたしても光が収束を始めていた。
そんなとき、おばあちゃんがつげた。
「……みんな、一つだけこの状況を打開する手段がある」
「本当? どんな手段なの?」
私が問いかけるとおばあちゃんは私たちに背を向けた。
「イデアやアーティファクトの根幹にあるのは人の願いだ。……人の願いは世界を歪める。それは物理法則すらも例外ではない。そのことに私は大昔に気付いていた。だが決して口外はしなかった。私の、……私たちの信じてきたものを、誰かにねじ曲げられたくなかった」
――あの頃は、旧時代以上に大切なものが現れるなんて思ってもいなかったんだ。
そうおばあちゃんはつぶやいた。爆発音が聞こえる中、おばあちゃんは振り返る。
「だが、今は違う。私には、私たちには大切な人がいる。全てをねじ曲げてでも守りたい人がいる。……だから私はこれから、かつて絶対だと言われたこの宇宙の法則に手を出す。強い力、弱い力、電磁気力、重力。それに連なる存在しえない第五の力。それを生み出すことにする」
「……第五の、力」
おばあちゃんは口元を緩めている。
「……それは決して科学的ではない。数値で表すこともできない。でも我々はその力の強大さを、もう既に知っている」
おばあちゃんが腕を振り上げた瞬間、凄まじい勢いで電流が世界へと放射されていった。アーティファクトを生み出すときの電流に似ているけれど、それとは全く違うものだと私は悟っていた。
なにかが、確実に書き換えられつつあった。この宇宙をかつて支配していた絶対的な法則。その全てが塗り替えられてゆく。それは悲しみではなく、絶望でもなく、憎しみでもない。もっと温かなものだ。
カメラの映像から、またしても収束した光が放たれるのがみえた。けれどもう恐怖なんて感じなかった。だって私たちはこの世界の誰よりもその力を信じている。時に世界を滅ぼし、時に世界を救う。その力の正体を私たちは知っている。
凄まじい威力の輝く巨槍がこの戦艦に打ち込まれる。けれどその光の束は、船体に傷一つつけることすらできなかった。まるで科学的ではない虹色の半透明の障壁に弾かれたのだ。
私たちはお姉ちゃんのために世界すらも滅ぼそうとした。そして今は、神さえも否定しようとしている。もしもおばあちゃんの言う「第五の力」が私の考える通りのものだというのなら……。
私たちはきっと神様だって倒せる。
虹色の障壁が私たちをあらゆる力から守ってくれている。戦艦が進んだ後には虹色の軌跡が残り、それに触れただけであらゆるイデアは消滅していた。
「……よし。上手くいったか。
おばあちゃんが私の肩を叩く。みんなが口々に励ましの声をかけてくれる。
「……お願い日葵さん。……
「今度こそは救いたいんだ。失いたくないんだっ! 頼む。美月を助けてくれ」
「お願いします! 日葵さん!」
「分かった。絶対に助けて来る。だからみんな待っててね!」
私は頷いてから戦闘指揮所を飛び出す。格納庫にはおばあちゃんが私のために設計してくれた航空機が固定されていた。この機体の名前は「ムーンスレイヤー」。お姉ちゃんのことを思いながら名付けたらこうなった。
私は早速乗り込んで、真っ青な空へと飛びだした。画面越しではなく直接見ると、お姉ちゃんがいる「神の領域」。あそこはまるで月のようにみえる。けど見惚れている暇はなかった。
私が戦艦から飛び出した瞬間に、幾多ものイデアが襲い掛かって来たのだ。けれどどんな攻撃だって、ムーンスレイヤーを傷付けられなかった。虹色の障壁がことごとくを弾き飛ばしてゆく。
進行方向に立ちふさがる壁のような密度のイデアに私はミサイルを放った。虹色の流れ星のような軌跡を描いて全てを吹き飛ばしていく。やがてミサイルが切れると私はおばあちゃんに訓練してもらった力で、またミサイルを生み出す。飽和攻撃を何度も繰り返していると、ついには壁のようなイデアの群れに穴が開いた。
穴が埋まる前にムーンスレイヤーの速力でそこを突破すると、神の領域が間近にみえた。もう追いついてこられる人類のイデアはいない。神も焦っているようで、あらゆる方向から星の数ほどの光り輝く槍を放ってくる。
でも私には届かなかった。
――なぜ分からないのですか! 人は神によって救われなければならない。覚えていないのですか? この世界の惨状を!
頭の中に神の声が聞こえてくる。
そんなの知ってるよ。みんな自分勝手に争って傷つけあって、憎しみあって相手を不幸にすることばかり考えてる。だから誰も幸せになれない。みんなドツボにはまってる。
――ならばなぜっ……!
幸せを願うのはいい。でも誰かに与えられるものではないんだよ。神様。……私は大切な人を二人も失って、ずっと苦しんでた。でも、今思えばもっと別の道もあったって思う。
――あまりにも都合が良すぎます! それは今が幸せだから。幸せになれる可能性があるからなのではないですか? 世界には生まれた時から幸せになれないと決定づけられている人がいる。そんな人々の願いで、私は生まれたんです。あなたの考えは決して弱者に寄り添っていない。そんなもの、受け入れられません!
神の攻撃は更に激しさを増した。針の筵のように槍が降りそそぐ。
――私は、全てを救う全知全能の神。救われない者がいてはならないのです!
それでもやっぱり一度たりとも、直撃することはなかった。私は虹色の障壁に守られながら「神の領域」に突入した。
輝くその表面に機体が触れた瞬間、古いテレビの砂嵐のような空間が現れた。その砂粒一つ一つが、声にすらさせてもらえなかった、人々の魂の叫びだった。
大切な人を傷付けられ、大切な記憶すらも汚され、愛した風景を奪われ。頼れる人もおらず、ただ蹂躙されるのみで。……それでも微かに抱いていた希望。いつか世界が救われることを祈っていた、力ない人々の願い。
私は目を閉じて、心の中でつぶやく。
「ごめんなさい」
私が人々にとって悪だということは、私も理解している。
けれど私は信じている。私のお姉ちゃんへの気持ちが、私たち五人のあなたを愛する心が、神すらも退けてここに到達させてくれたように、きっとみんなも幸せになれるって。
だって、そんなのあまりにも理不尽だから。
たった一人の神に縋らないと幸せになれない世界なんて絶対に間違ってる。ほんの数か月前までの私たちも、その間違いを受け入れるしかなかった。けれど今は違うはずなのだ。
おばあちゃんはこの世界に第五の力を生み出した。おばあちゃんの大切な人の幸せを願う気持ちが生み出した力は、きっと私たちを救ってくれる。神なんかに頼らなくても、みんな幸せになれるはずなんだ。
願いの砂漠を突破した瞬間、全てが闇に覆われた。進んでいるはずなのに、全く進んでいる気がしない。どこに向かえばいいのかもわからない。星一つ残っていない、終末を迎えた宇宙みたいな空間だった。
――あなたがたという犠牲を出してしまう時点で、神としては失格なのでしょう。それでも私にはこの身をかけてでも守らなければならないものがある。私の信念を否定するというのならば、私を殺してから先に進みなさい!
暗闇の中に、光り輝く姿が現れる。それはお姉ちゃんではなかった。人々の頭の中の理想の女神。それを具現化したような姿だ。その手には巨大な輝く槍が握られている。女神は問答無用でその槍を投げつけてきた。
凄まじい勢いで放たれた槍は、それでもムーンスレイヤーに届く寸前で虹色の障壁に弾き飛ばされた。もう、神ですら私たちの敵ではないのだ。
私は静かに神に問いかける。
「……神様。知ってる? この世界に五番目の力が追加されたってこと。……これまでみんなが傷つけあってたのって、憎しみが何よりも強い力を持ってたからでしょ?」
私は知っている。お姉ちゃんに幸せを願われながらも、復讐のために三千年もの長い時間を費やしてしまった、悲しい人のことを。
「……それって、ひどいことだって思わない?」
――何を言いたいのですか。
神様はまたしても手元に槍を召喚していた。けれどそれを振りかぶろうとはしていない。私はじっと神様をみつめてつげる。
「イデアのせいでみんな絵ばかり描いて、今じゃ物語ってあまり書かれてない。けど昔の物語には憎しみとは正反対の感情が人を救う話って、結構多かったみたいなんだ。お母さんが言ってた。昔の人たちは憎しみがこの世界を支配していることを知っていたけど、それでもなお「愛」が全てに勝る尊いものであることを願ってたんだって」
戦争や差別や虐殺。歴史をみればそんなの数えきれないほどある。愛が救った人よりも憎しみが傷付けた人の方が圧倒的に多いはずだ。
「だからこれからの世界はきっと変わると思うよ。今だって全ての人の願いであるあなたにすらも勝ててしまうんだから。……たった一人への愛だけでさ」
神様は考え込むように沈黙した。
しばらくすると神様は槍を構えるのをやめた。頭の中に声が聞こえてくる。
――私はただ、信仰の対象として生み出されただけの、無慈悲で完璧な神のはずでした。でも今の私には人々を我が子のように思う心もある。人々が苦しんでいたら、胸が苦しくなる。悲しんでいたら、私まで悲しくなる。
脳内に響く声には明らかな悲しみが籠っていた。
――神の癖に変ですよね? 人々の願いをかなえるだけなら、こんなもの不要なはずなのに。むしろ邪魔にしかならないのに。なぜこんなものが芽生えたのでしょう? もしもこんな気持ちがなければ、あなたの言う「愛」なんてものの可能性も簡単に切り捨ててしまえたはずなのに。
神様は悲しそうに目を閉じた。その姿は極めて人間的にみえた。……もしかするとお姉ちゃんの影響を受けているのかもしれない。一日前、月で見た時はもっと無慈悲にみえた。問答無用で殺そうとしてきたのだ。対話も何もなかった。
今は私たちの感情を揺さぶることができる程度には、人というものを理解している。さっき戦艦でみせられた幻影がその証拠だ。あのことに関しては、擁護なんてできない。けれど感情が分かるのなら、対話だってできるはずだ。
「……でも元のままだと本当の意味で人は救えなかったと思うよ? 人って、実は願ってることと本当に求めてるものが違ったりするんだ。……復讐のために動いていた人が、実際は温かな家族をもとめてたり。だからただただ願いを叶えるだけでは、誰も救えない」
――私は神として、完成した。そういうことですか?
「ううん。神じゃなくて、人になったってことだと思う」
目の前の神様は人にしか見えない。姿こそ神々しいけれど、表情から言動まで何もかも人間だ。そんな存在が神として、対等な存在を持たず、ただただ孤独に願いを叶え続ける。それはきっと、苦しいことだと思う。
――私が、人間に。……人間であるというのは、これほどまでに辛いことなのですか? これほどまでに寂しいことなのですか?
「対等な存在がいないからだよ。隣で話を聞いてくれる。……辛い時には支えてくれる。それだけで人は幸せになれる」
神様は沈黙した。そして悲痛な面持ちでこんなことをつげる。
――私には、誰もいません。そんな人。
真っ暗闇にぽつりと声が響いた。
「……私が一番大切に思ってるのはお姉ちゃんだから、神様を今のままにしておくわけにはいかない。助けることもできない。……でもおばあちゃんが大切な過去を振り切って生み出してくれた第五の力。それは不可能だって可能にするかもしれない。私がここにたどり着けたみたいに」
神様は沈黙する。けれどやがてはその表情をほんのわずかにほころばせた。
――あなたが私に向けてくれている感情もきっとその一つなのでしょうね。
その瞬間、暗闇が光を取り戻していく。
――あなたが正しいのかは分かりません。でも私も気付いているんです。人々もみんな、心の底ではあなたと同じことを願っている。世界が全知全能の神ではなく、ありふれた愛情によって救われることを。……孤独な時には寄り添い、悲しい時は励ましてくれる。……そんな些細な救いを。
神様は切なげに眉をひそめる。とても人間的な表情だった。
――私も、同じだから分かるんです。分かってしまうんです。
神様は今にも泣き出してしまいそうな顔になっていた。
「……分かった。でもこれでさようならってわけじゃないよ。少なくとも私は、願ってる。だって神様が悲しそうにしてたら、私まで悲しくなる。……共感できるのなら、もうそれは人なんだよ。幸せになって欲しいって思うんだよ」
私が肩をすくめると神様は嬉しそうに微笑んだ。
――もしも私を願ってくれるのなら、次は無力な、だけど人に寄り添えるずっと身近な存在として、この世に産み落としてくれると嬉しいです。……また会いましょうね。日葵さん。あと、……ごめんなさい。あなたの大切な人を神様にしてしまって。
その美しい姿は静かに消えていく。神様とは激しい戦いが繰り広げられるものかと思っていた。けれど目の前にはただただ温かな優しい光だけが広がっていく。私はゆっくりと瞼を閉じる。ようやく全てが終わることを悟った。
しばらくすると温かな太陽の匂いがした。この匂いには覚えがある。いつの間にか私は地面を踏みしめていた。穏やかな風が吹いていて、なにかがさわさわと揺れる音も聞こえる。そうっと目を開けると一面にひまわり畑が広がる。
「日葵。……本当によく頑張ったね」
その輝きの中で、私の一番大切な人が、お姉ちゃんが涙を流しながら笑っていた。
綺麗な黒髪が風に吹かれてさらさら揺れている。背中に生えていた神のごとき翼は、もう消えている。作った本人であるミアですら解除できなかった二つの眼も消えていた。ほんのり赤みががった黒目が私を愛おしそうにみつめてくる。
気付けば私は涙をあふれさせながら、お姉ちゃんの手を握っていた。
「……一緒に帰ろう。お姉ちゃん」
「……うんっ」
その瞬間、世界は余韻もなく崩れる。気付けば私たちはムーンスレイヤーの操縦席にいた。青い世界には見渡す限りイデアがいて私を睨みつけている。けれど神様が消えたのに気付くと瞬く間に散らばっていった。
神様とまた会えるのか、それとも人々はまた争いを始めてしまうのか。そして今度こそ世界は滅んでしまうのか。これから先、どうなるかなんてただの人である私には分からない。……それでも私は願っている。
青く美しい世界に見惚れているお姉ちゃんの頬に、私はそっとキスをした。
第四章 ありふれた愛情による、些細な救い 終
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