第17話 ネモフィラの記憶

「これから我々は地球に戻る。それまで約一日かかる。思う存分目に焼き付けると良い」


 おばあちゃんは戦闘指揮所にて一人で戦艦の操作をしている。だからこの声は艦内のスピーカーから聞こえてくるものだ。


 私たちは艦内で唯一自分の目で外を拝める場所。艦橋にやってきていた。ガラスの向こうには白い大地が広がっている。そのさらに向こうには真っ暗な宇宙に浮かぶ地球がみえた。


 ここに来るまでにも地球は拝んだけれど、つぎはぎだらけのパッチワークだった。お姉ちゃんが、……神が元の姿を取り戻させたのだろうか。今の地球は青かった。


「……綺麗。日葵さんと一緒にこんなの見られて、幸せです」


 お母さんは満面の笑みで私に寄りかかって来る。私はうつむきながら「そうだね」と言葉を返した。好きなだけ私に甘えてくれればいいと思う。結末がどうであれ、三カ月にも及ぶ物語の終わりはもう近いのだから。


 やがて戦艦はきしむような音を立てて、月面から浮かび上がった。全長一キロの戦艦を飛行させるためには、途方もない推力が要求される。その轟音と振動は凄まじいものだった。


 戦艦は少しずつ加速し、着実に地球に近づいていった。


 私たち五人はそれまでの間、色々な話をした。最初、共通の話題はお姉ちゃんだけではあったけれど、大気圏に突入する頃になると、お互いのことをたくさん知るようになっていた。


 たった一日ではある。でも私たちは確かに友達になっていた。お互いのことを理解して、心を通わせて。もしかすると明日には、みんな死んじゃうのかもしれない。お姉ちゃんを取り返すのに失敗してしまうのかもしれない。


 それでも、この時間は幸せだった。


 一日が経ち大気圏を抜けると、真っ青な海が広がった。その瞬間、予想していた通り星の数ほどのイデアが咆哮をあげながら私たちの迎撃に上がってきた。大気圏突破直後の襲撃はおばあちゃんも予想していた。だからミアにイデアでの護衛を頼んでいたのだ。


 ウロボロスに匹敵する八十体の神々しいイデアたちが、戦艦を守るように飛行している。襲い来る飛竜たちを次々に蹴散らしていた。戦艦は激戦のなかを悠々と進み、やがて大海原と水平になるように姿勢を制御した。


 海と空のずっと向こうに、神々しい光がみえた。空の一部を切り取ったみたいに、その空間だけが美しく輝いている。きっとあそこにお姉ちゃんがいるのだ。


「あそこを目指すぞ」


 室内におばあちゃんの声が響く。真っ青な海がきらめいて輝くたびに、無限にイデアが現れる。ミアのイデア八十体だけでは物量に対応できなくなってきたのか、無数の軌跡が戦艦から伸びていく。


 ミサイルは的確に敵のイデアだけに追従して、その戦闘能力を奪っていた。あまりの敵の数に戦艦の周囲が爆発の煙で覆われてゆき、視界が悪くなる。


 私は高解像度のカメラから送られてきた映像から目をそらし、薄暗い戦闘指揮所に視線を戻した。レーダーには画面全てを埋め尽くすほどの点が、もはや点だと分からないほどに刻まれている。これが、人類の全てなのだ。


 人類の敵になったのだと、強く自覚する。限りなく強い殺意を全身に受けている。それでも私たちは前に進む。


 こんな異常な密度だ。ミサイルを用いてもまだ処理が追い付いていなかった。おばあちゃんは艦載機の使用に踏み切ったみたいだった。格納庫から400のうちの半分を戦域に投入する。それでようやく全世界のイデアの猛攻をしのげるようになっていた。


「……だがこの調子だと弾薬が持つか怪しいな」


 おばあちゃんが深刻そうに見つめている先の画面は、凄まじい勢いでミサイルや艦砲の残弾が消費されていることを示していた。敵は倒しても倒しても無限に湧いてくる。


 突然、轟音が響いた。戦艦が大きく揺れて、私はしりもちをついてしまう。恐怖を覚えてしまうほどに、激しい揺れだった。お母さんが差し出してくれた手を掴んで立ち上がると、けたたましい警告音が戦闘指揮所に響いた。心臓が激しく鼓動している。


「……まずいな。今ので八十体のうち、五十体が吹き飛ばされた」


 ミアは冷や汗を流しながらぼそりとつぶやいて、私たちの目の前に映像を浮かび上がらせる。恐らくはイデアの視界を映しているのだろう。


 一キロメートルもある船体の三分の一ほども抉られていて、今も熱を持っているのかその断面は赤く染まっている。戦艦そのものをまるまる覆ってしまうほどに分厚い、光り輝く槍のようなものの残光も映っていた。


 極太の槍は空に浮かぶ輝く球状の領域、お姉ちゃんのいる場所から飛んできたようにみえる。レーダーに目を向けると、みっちりと詰まっていたはずの点が、前方部分だけ綺麗に失われていた。どうやら神は人類のイデアごと私たちを吹き飛ばそうとしたらしい。


「……これが神の力か」


 おばあちゃんも動揺を隠しきれていない。


 画面に浮かぶ戦艦の図。その前方半分が真っ赤に染まっているのだ。戦艦は前方の動力を全て失ったようで、高度も凄まじい勢いで低下しつつあった。


 おばあちゃんは目を閉じ、必死で戦艦の構造の修復にあたっていた。流石のおばあちゃんでも、全長一キロの戦艦ともなると負荷は凄まじいようだ。汗をだらだらと流している。こんなおばあちゃんを見るのは初めてで、心細くなってしまう。


 前方に傾いた不安定な体勢ながら、今も人工知能が自動でイデアを迎撃してくれている。でも明らかに戦艦後方の武装だけでは追いついていない。


 大量のイデアの攻撃が戦艦に直撃する。激しい振動が戦闘指揮所にまで伝わってきた。


「ミアっ。頼む」

「戦力の出し惜しみはできないようだな。神に対抗するためにある程度残しておきたかったが……」


 ミアはイデアを戦艦の周囲に顕現させた。ウロボロスすらも蹴散らせるというニ十体。そして神にすらも対抗できる五体。その姿はさっきの八十体よりも遥かに神に近づいている。その分呼び出すのに大きく力を使うのか、ミアの息は荒い。


 おばあちゃんは汗をぬぐいながらも、なんとか戦艦を立て直したようだ。艦内の傾きが少しずつ消えていく。おばあちゃんはさらに残った200の艦載機全ても投入していた。まだ辛うじて戦えている。


 けれどさっきから私たちはただただ見ているだけだ。


「おばあちゃん。私たちにもできること何かない?」

星海ほしみは弾薬を生み出してほしい。少しでも、ほんの少しでいい。あの神の下に近づいて日葵ひまりを送り出すためには弾薬がいる」

「分かった。おかあさん。任せて」


 お母さんは三か月の間、アーティファクトを生み出せる距離を鍛えていた。基礎的な部分はおばあちゃんに育ててもらっていた間に、高い水準まで鍛えられていたのだ。だからおばあちゃんは「影響範囲の短さ」という短所を潰すための訓練をお母さんに課していた。


 その訓練のおかげもあって、お母さんは全長一キロメートルの戦艦のありとあらゆる場所に、正確にアーティファクトを生み出すことが可能になっている。


「おばあちゃん。私は?」

「日葵はこの作戦の核だ。何と呼ぶべきか。……「神の領域」とでもしようか。あそこに侵入するまでに、多少の単独での戦闘は覚悟してもらわないといけない。だから温存しておいてくれ」

「……分かった」 


 今すぐに力になれないのは残念だけど、私が失敗すれば全て無意味になってしまうのだ。私は黙っておばあちゃんたちをみつめる。


「……私が得意なのは言語だけです。申し訳ないです」


 桜がしょんぼりしている。


「桜はミアを支えてあげてよ。疲れてるみたいだから」


 私が微笑むと桜は私に小さく笑顔を浮かべてから、すぐにミアの手を握り締めていた。励ましの言葉をたくさんかけているようだ。自分だって怖いはずなのに。

 

 ……もちろん、私だって恐ろしい。この三か月間、おばあちゃんに詰め込みで教育してもらった。アーティファクトの能力は格段に上昇した。ある程度なら航空機を操縦できるようになっている。とはいえ、私のアーティファクト能力も操縦能力もおばあちゃんの足元にも及ばない。


 シミュレーターでの戦いでだって、私はおばあちゃんに一度も勝てなかった。私は天才じゃない。ただの凡人だ。それがたった一人で、あんな凄まじい攻撃を放ってくる存在の元へと飛ばなければならないのだ。


「……! また来るぞ! シロ!」


 ミアが叫ぶ。画面には「神の領域」の前方で光が収束していくのが映っている。それは刻一刻と輝きを増していた。それに比例するように、辺りから光が奪われていく。


 昼のはずなのに、世界はもはや夜のようだった。おばあちゃんは苛立たしげに強く唇をかみしめている。


「……私が修復できるのはあとニ回が限度だ。こんな頻度で放ってくるのなら、どうしようもないぞ……? 本当に神というのは厄介だなっ……」


 その閃光は極限まで引き絞った弓のようだった。私たちを殺す光でありながら、皮肉にもそれは美しい。だが見惚れている暇なんてない。気付けば閃光が空間を引き裂いて、戦艦の前方をえぐり取っていた。戦艦が激しく揺れ、立っているのでやっとだ。


「神の領域」までかなり近づいたがまだ遠い。全世界から集まってきたイデアが、未だ壁のような密度で全方位に立ちふさがっている。


 状況は明らかに悪かった。絶え間なく艦内に伝わってくる衝撃に、私たちの士気は下がり続けていく。おばあちゃんは必死で修復しているし、お母さんも弾薬を必死で生み出しているけれど、こちらの火砲が減少していくのに対して相手の攻撃はますます激しくなる一方なのだ。

 

――まだ反逆を続けるつもりなのですか。


 突然、脳内に声が聞こえてきた。お姉ちゃんと同じ声だ。


――この体の持ち主に免じて、反逆をやめるのなら今からでも殺すのはやめてあげましょう。


 言葉にはしない。けれど頭の中で、きっと私たちは同じことを伝えたのだと思う。神はしばらく沈黙したのち、こんなことをつげた。


――仕方ないですね。北風と太陽、という寓話もあります。あなたがたには、私に従った先で享受できる素晴らしい未来を教えてあげましょう。これをみれば、考えも変わるはずです。


 月では殺す気満々だったのに、なぜ今になってそんなことを言うのか。


 問いかけると、神は答える。


――美月みつきさんは随分とあなた方を愛しているようで。はっきり言って脅威でしかないのです。今この瞬間も「傷付けるな傷付けるな」とうるさいのです。あなた方を殺めれば、この体を奪い返される可能性もある。それだけは避けねばならないのです。……人類のために。


 言い切ると、突然、ぷつりと音が鳴った。視界が白く染まり、景色が変わる。


 ……次に目を開くと、そこにはネモフィラの美しい花畑が広がっていた。


「おとうさん!」

「どうしたんだ? 日葵ひまり

「だっこ!」


 死んだはずのお父さんに幼い私が甘えていた。それを私は、遠巻きにみていた。私を抱きかかえるお父さんの隣には、今よりもさらに若いお母さんと、背も低くて顔も幼い小さなお姉ちゃんがいた。


 ……これは、あの日の記憶なのだろうか? 神はなぜこんな光景を?


 昔の私たちは楽しそうにネモフィラの青い花畑を歩いている。お姉ちゃんはお父さんに抱っこしてもらった私が羨ましいのか、お母さんに必死で腕を伸ばしていた。お母さんも笑いながら、お姉ちゃんをだっこしている。


 温かい光景だ。けれどこの後どうなるのか私は知っている。今すぐにでも目をそらしたかった。なのに顔をいくら背けても、景色が追いかけて来る。


 ……咆哮が聞こえた。異形の飛竜が現れて、口から炎を漏らしている。飛竜は私たちを睨みつけていた。お父さんはすぐに震える幼い私を下ろして、私たちの前に立ちふさがった。


「今すぐに逃げろ! 逃げてくれっ! 大丈夫。絶対に生きて戻る!」


 そんな必死の剣幕に押されてか、お母さんは私たちを両腕に抱えた。悲痛な表情を浮かべながらも決して振り向くことはなかった。


 お父さんは飛竜に向き直る。お父さんの体はがたがた震えていた。お父さんは決して強い人ではなかった。それでも私たちのために決して逃げなかったのだ。


 お父さんはいつだってそうだった。だから私はお父さんが大好きだった。


「……お父さん」


 届くわけがない。私はただの傍観者でしかないのだ。それでも叫んでしまう。


「お父さん。逃げてっ! 逃げてよっ!」


 お父さんは動かなかった。


 異形の飛竜の口元から紅蓮のブレスが溢れ出してくる。お父さんは勇気を振り絞るみたいに拳を握り締めて、電流を走らせた。目の前に壁を生み出し、ロケットランチャーのようなものも肩に背負っている。


 けれど壁はあっという間にブレスに打ち破られてしまった。お母さんが私に教えてくれたタングステンの壁は、きっとこの日のことをきっかけにお母さんが生み出した最適解だったのだろう。


 決死の覚悟で放ったロケットランチャーすらもブレスに蒸発させられてしまう。炎に包まれる瞬間、お父さんの声を聞いた。


「……すまなかった」


 きっとこれから私たち三人が経験することになる悲しみへの謝罪だった。


 私は涙もこらえきれずに、膝から崩れ落ちた。


 ……お父さんは確かに弱かった。でもいつだって私たちを守ってくれる人で、死んでもいい人なんかじゃなかった。絶対に、そうじゃなかった。


 飛竜のブレスに焼かれていくネモフィラの花畑で、私は空を見上げた。


「なんのためにこんなのみせたんだよ!」


 叫ぶと神の声が聞こえてくる。


――もしも、お父さんを生き返らせることができるのなら、どうしますか?


「……お父さんを?」


――私への反逆をやめるのなら、お父さんを蘇らせてあげます。


 両膝をつく私の前に、お父さんが現れる。


「……頼む。神様、俺を蘇らせてくれ」


 お父さんは今にも泣いてしまいそうな顔で私をみつめていた。お姉ちゃんと同じ、ほのかに赤色の混じった黒目がうるんでいる。


「見たかったんだ。まだ小さな娘たちが成長して、どんな大人になっていくのかを。ただそばにいられるのなら。お父さんとして助けられるのなら、ただそれだけでよかったんだ。……良かったんだよ」

 

 本当に質の悪いいたずらだ。私にお姉ちゃんを諦めさせるため、こんなことをしているのだろう。このお父さんは偽物だ。


――偽物じゃないですよ。


「……えっ?」


――その方は正真正銘、あなたのお父さんです。人は死を恐れるもの。生き返る機会が目の前に存在しているのなら、どうしたって掴みたくなるものなのですよ。


 私はじっとお父さんをみつめる。そっと手を伸ばす。するとその手は幼いころのまま、大きくて温かかった。

 

「……お父さん。本当にお父さんは、お父さんなの?」

「……お父さん?」


 お父さんは困惑するように眉をひそめた。けれどすぐに目を見開く。


「まさか。もしかして神様じゃなくて日葵なのか?」

「……そうだよ」


 私が頷いた瞬間、お父さんの頬を涙がぼろぼろと零れ落ちていく。まるでガラス細工にでも触るみたいに優しく、私の手を握った。


「……こんなに大きくなって。お父さんは飛竜に殺されたんだ。でも次の瞬間、気付けばここにいて。それで神様が生き返る機会を与えてくるって。これからは、また、一緒に暮らせるんだよな……?」


 お父さんは私のおかれている状況を知らないのかもしれない。


 でもそうだとして、……だからって「お姉ちゃんのために死んでください」なんて私には伝えられない。そんなの、できるわけない。いつだってお父さんは私たちのために頑張ってくれたのに。命まで、かけてくれたのに。


「……どう、したんだ? 日葵」


 また涙が溢れ出してきてしまう。


「大丈夫か? もしかしてお父さんが臭かったのか……?」


 お父さんは心底心配そうに自分の匂いを嗅いでいた。お父さん、あざとすぎるよ……。そんなのやめて欲しい。お姉ちゃんのこと、選べなくなるからっ……。


「違う……」

「だったらいったい……」

「……。お父さんは、自分の命とお姉ちゃんの命。どっちの方が大事?」


 お父さんは迷わなかった。


「そんなの、美月みつきの命に決まってるよ」


 やっぱりお父さんはお父さんだ。本当に、大切な人のままなんだよ。十年後の今だって、それは変わらないんだよ。


 ……でもそれでも私は、前に進まないといけない。作戦の要になる私が諦めれば、みんなの努力が、みんなの思いが無駄になる。


「……お父さん。信じられないと思うけど、私ね、今お姉ちゃんを救うために神と戦ってるんだ。ずっと会ってなかったおばあちゃんに助けてもらって、もともとは敵対していた人とも仲間になって……」


 お父さんは驚いていた。けれどすぐに信じてくれたみたいだった。


「……そうなのか。星海はどうしてるんだ?」

「お母さんは、記憶を失ってる。お姉ちゃんを助けるために戦って、それで……」

「生きては、いるんだな。……良かった」


 お父さんは心からほっとした様子だった。だからこそ、伝えるべきか悩んだ。お母さんが私に叶わない恋をしている、なんて伝えたところできっとお父さんを心配させるだけなのだから。


 でも私は未だにお母さんの気持ちにどう答えるべきなのか。その正しい答えを持っていない。このままでいいのだと言い聞かせてはいる。けれど確信なんてなくて、結局はお母さんを苦しめるだけな気がするのだ。


「……どうした? 何か辛いことでもあったのか?」


 私はしばらく悩んでからお父さんに伝えた。


「……お母さん、私に恋したみたい」

「えっ」


 お父さんは愕然とした表情だった。当然だよね。自分の好きな人が自分の娘に恋するなんてさ。でもすぐに真剣な表情で顎に手を当てて悩んでくれている。


「記憶を無くして日葵に恋、か。……なかなかに複雑だな。日葵は誰か好きな人とかいるのか?」

「……うん」


 お父さんはますます難しい顔になった。


「……お父さんとしては、星海が恋をするのは大歓迎なんだ。好きな人ができたのなら、好きなだけその人を愛してあげて欲しい。死んだ俺に囚われないで欲しい。そう思ってる。……でも日葵はお母さんの思いに応えられないんだよな?」

「……残念だけど。もしもお母さんの思いに応えるような事態になったら、きっと私もお母さんも不幸になる。誰も幸せになれないんだ」


 お父さんは唸り声をあげて必死で考えていたけれど、ついには深く頭をさげた。


「すまん。お父さんには分からない。というのもだな、これはきっと日葵の問題じゃないんだ。星海がどう乗り越えるか、だと思う」

「お母さんが?」

「そうだ。日葵はもう最善を尽くしている。追い詰められて追い詰められて、それでお父さんに話してくれるくらい、真剣に悩んでくれたんだろう? 日葵は嫌というほど悩んだ。そして答えを出せないという答えを出した。それならもう、あとは星海が何をするかだ」


 お母さんはもうすっかり諦めていた。私への失恋を受け入れていた。私もそれを受け入れるべきなのだろうか。……私にはもう、できることなんて何もないのだと。


「きっと日葵は星海のことを心配してくれてるんだと思う。星海は強くあろうとはしているが、それでも繊細だからな。でも、やるときはやる人だよ。星海は。だから弱さばかりに目を向けるのではなくて、強さも信じてあげて欲しいんだ。俺が飛竜に襲われたとき、星海はその場にとどまるのではなくすぐに逃げてくれただろ? 強くなければ、あんなことはできない。二人を救うために、星海は決断したんだ」


 お母さんの強さ。……確かに私はずっとお母さんの弱さばかり肯定していた。強さに関しては、むしろ否定していたように思う。全てが全て、偽りの仮面なのだと。


「弱い所だけ認めるんじゃなくて、強い所も信じてあげる。それが真に人を愛するってことじゃないか?」


 お父さんはまばゆい笑みを浮かべた。心のもやが晴れていくようだった。……やっぱりお父さんはお父さんだ。お母さんのことをよく分かってる。私よりもずっと。なんだかちょっと悔しい。でもお父さんが私たちのお父さんで良かったと、心から思う。


「ありがとうお父さん。大好きだよ」


 満面の笑みを向けると、お父さんは泣きそうな顔になった。


「まさかこんなに大きくなった日葵にそんな事言ってもらえるとは。こういうのを幸せっていうのか?」

「……うん」


 居心地のいい時間だった。お母さんがお父さんを好きになったのも分かる。でもだからこそ、お父さんへの愛着はなおさら強くなってしまう。お姉ちゃんを救うため、お父さんを捨てるという決断をしなければならないのに。


 うつむいていると、お父さんは優しく私の頭を撫でてくれた。


「……大丈夫。お父さんのことは生き返らせなくていい。きっとその神様とやらに、馬鹿みたいな取引を持ち掛けられたんだろう。俺の命か、美月かどちらを選べだとか、そういうろくでもないものを」

「でも、お父さん」

「迷わなくてもいい。親はいつだって子よりも先に逝ってしまうものなんだ。美月を犠牲にしてまで生きていたくはない。美月にも日葵にも星海にも、……みんなに生きて幸せになってもらいたいんだ」


 お父さんは明らかに強がっていた。飛竜に睨まれた時みたいに、足ががたがたと震えている。なのにどこまでもまぶしい笑顔を浮かべた。


「星海だって幸せになれるはずだ。あの人はあんな風に見えても強いんだよ。幸せくらい、自分の手でいくらでもつかみ取ってくるさ。だから行ってくるんだ。日葵。お父さんの代わりに、美月を救ってくれ」


 本当に、お父さんは、どこまでも……。私は涙を流しながら、笑顔を浮かべた。精一杯の力でお父さんを抱きしめてつげる。


「さようなら。お父さん」

「……日葵。元気でな。遠い未来でまた会おう」


 その言葉を最後に、お父さんの姿は美しいネモフィラの花びらとなって、消えた。

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