第13話 純白の二翼

「……もう戻って来たのか。なぜ途中で帰って来たんだ? 醜女」

「魔女様。それは……」

「貴様は黙っていろ」


 恐ろしいほどに均整の取れた真っ白な空間で、気が狂うほどに美しい金髪金眼の魔女は表情を怒りに歪めていた。睨まれた桜は怯えたように体を小さくして、うつむいてしまっている。


「醜女。貴様は自分の状況が分かっていないのか? それほどまでに愚かだったのか? つまらない薄情者だったのか? 家族すらも見捨ててしまうのか?」


 美しい見た目のせいで、凄まじい威圧感だ。けれどこのまま人々を救うわけにはいかない。私は日葵のお姉ちゃんで、お母さんの娘でなければならない。


「あなたは、私の最も大切なものを奪おうとしている。日葵ひまりとお母さんが愛してくれた私という人間が、私の中からいなくなれば、……私は何もかもを失うことになる。これまでの思い出も、何もかもを否定することになる……!」


 自分が自分でなくなるのは、死ぬよりもずっと恐ろしいことだ。


「……大切な人間が、死んでもいいのか?」


 冷たい声が突き刺さった。そんなわけはない。けれど、自分の中からずっと大切にしてきたもの。言い換えるのなら生きる意味。存在する意味が失われるのは、途方もなく恐ろしいのだ。


「魔女様! どうして魔女様は、……。魔女様は本当は優しいはずです。だって人の不幸を悲しめる。覚えてます。あの日の表情を、今でも……」

「……被造物の分際で分かったような口を」


 魔女は完全に感情を殺した表情で、桜の首に手をかけた。


「魔女様……?」

 

 桜の声が震えている。その細い首に、力が込められてゆく。


「まじょ、さまっ……」

「黙れ、失敗作が」

「まじょ……さ、ま……」


 桜の目には涙が浮かんでいる。もがくことすらもせず、ただ魔女をみつめていた。光の消えた瞳は絶望に染まっていて、まるで生きることを諦めてしまったみたいだった。


 ……なにが、優しい人だ。なにが、失敗作だ。ずっと、ずっと、桜はお前のことばかり考えてたのに。魔女の幸せを、願っていたはずなのに……。

 

 私の手元に、電流が走った。


 人を殺すためだけの兵器ハンドガンを、私は魔女に向けた。歯がガタガタと震えている。恐怖ではなく、純粋な怒り。どうして、どうして大切な人に殺されかけているのに。


 君は、桜は……。


「やめて、くだ、さい。……みつき、さん」


 そんな心から心配そうな、顔するんだよ。


「わたし、しっぱいさく、なんです。こうなるのも、しかた、ないんです。まじょ、さま、にころ、されるなら……」


 桜は必死で笑顔を浮かべていた。ぼろぼろと涙を流しながら、笑っている。

 

「……そんなわけないだろうが!」


 銃声が響く。真っ赤な血が白い空間に散らばる。


「……くっ」


 魔女は腕を抱えてうずくまった。理不尽な暴力から解放された桜は、床に座り込んで激しくせき込んでいる。でもそんな自分よりもなによりも、一番に魔女のことを心配していた。


「魔女様っ。大丈夫ですかっ?」


 魔女の腕からは血が溢れ出している。それでも鋭く私を睨みつけていた。


「……貴様は本当に愚かだな。醜女。一時の激情で優先順位を見誤る。その感情という愚かさゆえに、貴様の家族は残された微かな幸せすらも失うのだ。……全てのイデアを投入する準備をしろ。高い城の女の要塞を、潰せ」

「……魔女様。やめてください。お願いです。……お願いです」


 桜が涙を流して必死で魔女に懇願している。けれど魔女は聞く様子をみせなかった。本当に、汚い言葉だけど、……くそみたいな世界だ。


 私は、せめて大切な過去だけは汚したくないと思っていた。例えこの世界から私の存在が消えても、死ぬまでみんなのことをこの世の誰よりも大切に思えるのなら、そしてみんなの幸せが守られるのなら、それ以外の全ての理不尽を許容するつもりだった。


 でもその二つのうちの一つを捨てないといけないというのなら、私は。


 日葵とお母さんをこの世界の全てよりも愛した自分を捨てる。


 私が世界を優先する人間になろうとも、日葵もお母さんもおばあちゃんも、三人の人生には関係なんてない。恐ろしいよ。自分が大切だと思っていた人達よりも、どうでもいいって思ってた何十億人を優先するような、まるで神みたいな考え方になるのは。


 でもそれで三人が守られるのなら、私は。


「もしも家族を殺せば、あんたは目的を達成できなくなる。それは分かってるよね? 外道魔女」


 私は極限まで感情を抑えて、口を開いた。魔女は冷徹な視線を私に向ける。


「……ならば完全に服従すると誓え」

「家族に危害を加えないなら、なんでもいうことは聞く。でももしも誰かを傷付けるようなことになったら、私はもうあなたには従わない。今度は、腕だけで済まない。眉間に穴が開く。そう思ったほうがいいよ」

「ふん。……最初からそうしていればよかったものを」


 魔女は腕を抑えながらも立ち上がり、私に背を向ける。


「……今日はもう休め。醜女。貴様が私よりも遥かにか弱い存在であることを忘れていた。万一にも、自殺などされては困る」


 それだけ言い残して、血を流しながら白い部屋を出ていった。無感情のイデアたちが血の掃除を始める。その部屋では、床に座り込みうなだれる桜だけが、私と同じ人間だった。


 白い部屋の真ん中で涙をぬぐいながらうなだれている桜に、私は手を差し出した。


「桜。大丈夫?」

「なんで助けてくれたんですか? ……私なんて、ただの失敗作なのに」


 魔女の言葉を気にしているのだろう。表情が暗い。


 大切に思っていた人に憎しみをぶつけられ、殺されかける。例えるのなら、私が日葵ひまりに殺されそうになるようなものだ。そんなことになれば、私ならもう立ち直れない。


「失敗作だなんて思ってないからだよ」

「……正義感ゆえですか? 私は魔女様と一緒に、この世界を乱したんですよ? あなたがこうなる原因を作ったのですよ?」

「好きな人のためでしょ。私だって好きな人のためなら世界だって滅ぼせる。……それに大好きな人に殺されるとか、最悪じゃない? 私にはあの外道魔女のなにがいいのかは分からないけどさ」


 私がため息をつくと、桜は不満げに頬を膨らませた。でもすぐに穴の開いた風船みたいにしぼんでしまう。


「……私のこの気持ちは、魔女様に植え付けられたものなのかもしれない」


 桜は寂しそうな表情で私をみつめてきた。


「たまに、そう思うことがあるんです。私のこの感情は本物なのか。……疑いたくはないんですが、どうして魔女様を好きになったのか、思い出せないんです」

「つまり魔女は桜に好いてもらいたかった、ってこと?」

「い、いえいえいえ。まさか! そんな恐れ多いこと……」


 桜は顔を真っ赤にして大慌てで首を横に振っている。


「理由がないですよ。私みたいな失敗作に、そんな……」

「私の好きな人も、別にできがいいってわけではないんだ。弱虫だし、弱いし、すぐ泣くし、その癖に私のこと絶対に助けに行くから、とか言っちゃってさ。でもそういうところが大好きで……」

「……いきなり惚気ですか?」


 桜にジト目を向けられた。私は小さく首を横に振る。


「私が言いたいのは、人はどんなところを好きになるか分からないってことだよ。魔女が桜のことどう思ってるかは分からないけど、そんな卑下することないよ。少なくとも私には桜は魅力的にみえる」

「……もしかして、口説いてます?」


 またしてもじとーっとした目で見つめられる。

 

「そんな浮気者にみえる?」


 微笑むと、桜は「いいえ」と口元を緩める。


「美月さんは、きっと底抜けに優しいんでしょうね。敵対している私にすら、そんな、励ますようなこと言っちゃうんですから。……もっと別な形で出会いたかったです。……本当に、ごめんなさい」


 突然、桜は涙を流してしまった。


「美月さんは、消えちゃうんですよね。……神様をこの世に呼び出すための犠牲になって。友達なのかは分からないですけど、これまでの人生で美月さんほど仲良くなれた人はいないんです。なのに、消えちゃうんですよね?」

「……仕方ないよ。それに、私たちはもう友達」


 桜は目を潤ませて、私をみつめる。


「……本当ですか?」

「うん。私も桜とはもっと別な形で出会いたかったけどね。もっと平和な世界でさ、例えば高校とかで隣の席になって、つまらないことで笑い合って……」


 けど桜はイデアであって、人間ではない。この世界が平和でないからこそ、生まれた存在。あり得ないことだってのは分かってる。


 でもそれでも、桜は幸せそうな表情で目を閉じていた。もしもの可能性を思い浮かべているのだろう。


 ……本当に、心から、くそみたいな世界だと思う。でも私には世界を変える神様みたいな力はなくて、自分の全てを犠牲にしても大切な人を救うのが精いっぱいなのだ。


 肩を落としながら無力感に浸っていると、不意に私はこんなことを思った。


 ……もしも本当に神様になれたのなら、もしも神様のもつ力が強大ならば、むしろ私の手で魔女を返り討ちにして、この世界を救うことだって可能なのではないか? あらゆる人々を、……日葵やお母さんだって悲しみや苦しみから解放できるのではないか。


 ずっと魔女の強大さに威圧されて、視野狭窄に陥っていた。でも神と言うのは本来、人よりもずっと強大な存在のはずだ。魔女も人間離れしているとはいえ、人でしかないはずだ。


 それなら、魔女によって乱され混迷に陥ったこの世界。その全てを私の意志で取り戻せる可能性だって、存在しているのではないか。……ほんの少しだけ、希望がみえたような気がした。


〇 〇 〇 〇


「……これが、紅眼クリムゾンアイ


 鏡に映った私の左目は、ほんのり赤みががかった黒色だったはずなのに、今や真紅に染まっていた。昔の私ならオッドアイだとか喜んでいたのかもしれないけれど、今はため息しかでない。こんな、血みたいな色。


 右目の氷の結晶のような青い幾何学模様も相まって、なおさら人間離れしたような印象を感じる。でも、今の私には相応しいと思った。私はこれから人々を助け、救世主になる。そしていずれは神になるのだから。


「……私と同じ色ですね」


 振り返ると桜が白いベッドの上に座っていた。紅い瞳で私をみつめている。その表情は暗い。


 魔女は休めと言ったけど、部屋を用意してくれるわけもなかった。だから桜の部屋を使わせてもらうことになったのだ。桜の部屋は極めて無機質だった。四方を白に囲まれていて、装飾品なんて私が鏡を生み出すまでは一つもなかった。


 あの外道魔女が自分のイデアを大切に扱うわけもない。


「桜のと違ってこの目は汚いけどね。血みたいで。これから神様になるんだから、もう少し透明な綺麗な目にすればよかったのに。これだと悪魔みたいな感じもする」 

「私はそんな風には思いませんよ」

「あの魔女が作った眼だから?」


 桜は小さく首を横に振った。


「ただ、純粋に綺麗だって思っただけです。そんなに綺麗なら、もしかすると助けられた人たちは美月さんのこと、本物の神様だと思うかもしれないって」


 魔女は私が世界から消えてこそ、神は完成すると言っていた。それはつまり、現れた神には私の自我なんて欠片も宿っていないということだ。


 でももしも私が消えないうちに信仰が広がって、私を神だと思う人がたくさん現れたらどうなるのだろう。もしかすると私は、私という自我を持ったまま、世界を救うことだってできるのかもしれない。


 魔女のイデアはきっと強力だ。あのウロボロスですらも魔女の切り札ではない。けれど全世界の人々の願いが集まれば、十二分に戦えるはずだ。


 この世界を乱したのは魔女だ。その手のひらの上で転がされて、ただただやられたままというのも癪だ。つまらない目的のために世界を乱し、家族を引き裂き不幸な目にあわせ、この世から存在を消されて、ゴミみたいに踏みにじられて。


 そんなの余りにも理不尽だ。その理不尽に抵抗できるかもしれないというのなら、荒唐無稽かもしれないけれど一つの可能性として賭ける価値はある。


「……」


 でも鏡に映る私は、やっぱり人の範疇をでない。外道魔女ほど神々しくない。みんなに神だと信じさせるには、何もかも足りない。


「桜。神様ってどんな感じなのかな?」

「私が知っている人で一番神に近いのは、間違いなく魔女様です」


 魔女は外道だけど、その美しさは本物だ。


「この黒髪だと、神様には見えない?」

「……一般的な神様のイメージとはずれるかもしれません」

「そっかぁ。……やっぱり金色とかがいいのかな?」


 もしも手を出せば容姿ですら「美月みつき」という人間を捨てることになる。別に髪を染めることを否定するわけではないけれど、私はお母さんや日葵ひまりと同じ黒髪を気に入っている。ましてや魔女と同じ髪色だなんて、絶対に嫌だ。


 黙り込んで考えていると、桜が不安そうな声で問いかけてくる。


「そんな質問をするなんて、何を考えてるんですか?」

「……」


 桜は魔女のイデアだ。複雑な心境ながら、魔女に心酔している。もしも私の意図を理解すれば、魔女に伝わる可能性がある。


「別に。なんとなく気になっただけだよ」

「……人は、神にはなれませんよ?」


 桜は諭すようにつぶやいた。


「……そういうのじゃ」

「たった一人の人間が、何十億の人々の信仰を集める。それが何を意味するか分かっていますか? イデアがあらゆるものを侵食するように、美月さん。あなたの人格もただでは済まないはずです」


 あなたは、真の意味で、自分が大切に思っていたものを失うかもしれません。


 桜はそっと私の手を握った。その手は温かかった。でも私は首を横に振る。


「私という人間は確かに薄まるだろうね。でもそれでも微かでも、ほんの0.1パーセントでも私が残っているのなら、桜の願いだってかなえてあげられる」

「……私の、願い?」

「人間になることでも、平和な世界で普通の人生を生きることでも、なんでも」


 桜はその紅い目を見開いて、私をみつめている。


「……神様はきっと人類すべてを平等に扱う。けれど私なら大切な人のことはひいきできる。数人のために世界は滅ぼせなくなるだろうけど、それでも大切な人を大切だと思うことはできるよ」


 桜は肩をすくめてうつむいていた。私の手を握る手に力が籠る。


「あなたは、……どこまで他人思いなんですか」

「家族写真を拾った時のこと覚えてる? 私はあの人たちのことなんて、少しも知らない。それでもね、……人間だからさ。知らない人たちでも幸せになって欲しいって思うんだ。それが知ってる人なら、なおさらでしょ? 桜がいい奴だってこと私は知ってる。私は好きな人みんなに幸せになって欲しいって思ってる」


 そのためなら、人間であることもやめる。逃げ続けてもどうせいつか神になってしまうというのなら、私は自分から神になることを選ぶ。日葵やお母さんを幸せにすることを選ぶ。それが今の私の最善なのだ。



 翌朝、見慣れない金髪が、視界の端で揺れていた。鏡に映る私は、昨日よりはずっと神様っぽくなっている。服も普段着ではなく、神話の時代の服装を模した服にした。流石に顔立ちを変えることはできないから、あとは表情の使い方くらいだろうか。鏡の前で、それっぽい表情をとってみる。


 鏡越しに悲しそうな表情の桜と目が合った。


「どう? なかなか様になってるでしょ?」

「……」

「もう。そんな顔しないでよ。好きでやってるんだからさ」

「私、魔女様のことが憎いです。本当に、憎いんです。……なのに、今も好きなんです。どうして、ただただ憎む。そんな単純なことすらもできないのでしょうか? やっぱり私は……。私のこの気持ちは……」


 目を潤ませながらも必死で桜はこらえていた。ずっと、ずっと好きだったのだろう。「好き」に溺れていたかったのだろう。けれど桜は気付いてしまったのだ。ずっと魔女のために生きてきたのに、裏切られてしまった。


 私は桜の綺麗な黒髪を優しく撫でてあげる。 


「大丈夫。私が全部救う。この世界に存在するあらゆる不幸を救う。大丈夫だよ。泣かなくてもいい。……けど、泣きたいのなら今は好きなだけ泣けばいい」


 こらえきれなくなったのか、桜は声をあげて涙を流した。震えるその体をそっと抱きしめる。


 魔女が桜を生み出した。だから私たちは出会い、仲良くなれた。けれど同時に桜は苦しむことになった。……桜という存在を否定することはしない。私が憎んでいるのは魔女の身勝手さだけだ。好きになるように生み出しておいて「失敗作」だなんて侮辱したり、殺そうとしたり。……あまりにも残酷すぎる。


 私は、魔女を許さない。


 私たちは部屋を出て、魔女の元へと向かった。そこには巨大なワープゲートと無感情な人型のイデアたちが並んでいた。その前に立つ魔女は相変わらず、人間とは思えない神のような美しさだ。


「ふん。醜女。貴様にその格好は似合わんぞ。……だが、愚民どもの信仰を集めるにはちょうどいいか。貴様が神になろうと、人々の信仰が神になろうと、私としてはどちらでもいいのだ。ただ、人々から「神」を奪えさえすればな」

「ふんぞり返っていられるのも今のうちだけだよ。外道魔女。あなたは私に倒される。人生の全てを後悔しながら死んでいくことになる」


 魔女は私の言葉を鼻で笑った。


「これだから凡人は。自らの可能性が如何に狭いかを自覚していないのだな?」

「どうとでも言えばいいよ」

 

 私は桜の手を握って、ワープゲートに進んだ。桜も私の手を握り返す。


「私よりその醜女の方が好みか?」 


 魔女は桜に嘲笑を向けた。桜は冷たく目をそらす。


「……好きです。でもあなたのことは、嫌いです」


 魔女の表情が強張るのがみえた。気のせいだと思った。けれど間違いなく魔女は人間的な表情を浮かべていた。こんな外道魔女にも思うところはあるのだろうか? でも私がやることは変わらない。


 私たちは手を繋いで、ゲートを抜けた。


 ゲートの先は、燃え盛る町の中心だった。空を飛竜が飛び交っていて、地上には地竜が這いまわっている。人々は残酷に殺され、抵抗することもままならない。地に膝をついて天に祈る人もいた。


 でもこの世界に神様はいない。願ったって救ってくれない。


 それなら、私が神様になる。全てを救ってみせる。


 電流が空へと向かって走ってゆく。人々を蹂躙していた飛竜が次々に墜落していく。地竜ももだえ苦しみながら、息絶えていく。人々は何が起こったのか理解できていないようだった。


 私はその街の最も高い建物に登って、奇跡を起こした。


 戦火に晒され崩れた街のいたるところの血みどろに、小さな新芽が萌え出る。それは瞬く間に背を伸ばし、大木となりて花を咲かせた。


 人々はかつて、それを桜と呼んだ。


 美しい薄桃色の花びらが、焼けただれた大気を雪のように舞う。人々はみな心を鷲掴みにされたように、それらをみつめている。瞳には涙の色がみえた。たった一人泣き崩れる者がいれば、生き残った者同士抱きしめ合う者もいる。


 やがて、人々の視線は私に向けられた。光を反射し輝く金髪。紅い左目に氷の結晶のような幾何学模様の浮かぶ右目。服装は古代の神を彷彿とさせる。


 静寂を破り、誰かが叫んだ。


「あなたが、……あなたこそが我々が千年間待ち望んだ救世主なのか?」と。


 私の隣の少女――桜が声高に私の知らない言語を叫ぶ。その瞬間、人々は歓喜の声をあげた。


 言葉は分からない。それでも伝わってくる。私を信じるみんなの心。この世界から苦しみを無くして欲しいという願い。大切な人に幸せになって欲しいという希望。その瞬間、私の背中に純白の二翼が生まれた。


 まるで天使のような柔らかい大きな翼だ。私の背丈は軽く超えている。桜は驚きながらも、その紅い瞳で見惚れていた。試しに翼を動かしてみると、光を反射して美しく白く輝いた。行使できる力が確かに強まっているのを感じる。


 桜の花が散る。


 私はもう一度奇跡を起こした。人々が望む物を、食料や安全な場所を、与えられるものなら全てを与えた。


 戦火に殺された人々を蘇らせるには、まだ力が足りない。それでも人々はより強く、私を信仰するようになっていた。歓喜の声は鳴りやまない。この場の誰もが幸せそうな顔をしていた。


 私の隣で涙を流す桜を除いては。

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