第三章 神堕としの魔女
第11話 桜の魔女
「だから待ってて! お姉ちゃん!」
その声を最後に黒いもやの向こう側に私の妹が、
日葵を信じてないわけじゃない。でも敵は強大過ぎる。ウロボロスすらも、メシアが大量に所有しているイデアの一つでしかない。もう永遠に会えないかもしれない。もう永遠に忘れられてしまうのかもしれない。
……だったらせめて最期は笑顔で別れたい。
流れる涙も今だけは忘れて、私は日葵に精一杯の笑顔を送る。
さようなら。日葵。
完全に黒いもやを通り抜け、日葵の姿はみえなくなった。私はうなだれて静かに涙を流した。……でも、これでいいんだ。私が犠牲になれば、日葵はこれからもこの世界で生きていけるのだから。
……これでいい。
涙を拭って顔をあげるとそこは室内だった。私の知らない空間だ。メシアの秘密基地でもない。その白っぽい空間は恐ろしくなるほどに均整がとれていて、だからこそ瞼を開いているとそのうち目が潰れてしまいそうだった。
私は半壊したヘリから無理やりに連れ出される。その直後、私たちをここに連れてきたメシアの男たちごと、ヘリが消滅した。……いや、消滅させられたのだと思う。この、目の前の女に。
直感する。私の所属していたメシアの構成員。それは全てこの女の生み出したイデアだったのだ。でも驚く気力はもう私には残っていない。
「ふん。感動の別れをすませてきたようだな」
私を忌々しそうにみつめるその女は「桜の魔女」と呼ばれる天才的なイデア職人だ。こうして顔を合わせるのは初めてだし、姿も知らないのにそうだと理解する。
彼女の容姿は桜の魔女が生み出すイデアに通じるものがあった。桜の魔女は圧倒的に美しい絵を描く。けれどそこに人間味というものはなく、まるで無慈悲な神が降臨したような錯覚を覚えるほどなのだ。
桜の魔女本人もおおよそ人間とは思えない。金髪金眼のその姿はこの世に存在してはいけないほど美しい容貌だった。古代の哲学者プラトンのイデア論。それにおけるイデア界の女神がそのままの姿で顕現したかのようだ。
青空や桜やひまわり。……月を除くあらゆる美しいものが奪われたこの時代においては、その姿をみるだけでも発狂してしまう人はいるだろう。それほどまでに、耐えがたい美だ。
私もほんの一瞬ですら桜の魔女をみつめることができない。
「礼儀知らずな醜女だな。目を合わせることもできないのか?」
「……」
「まぁいい。お前、ここがどこだかわかるか?」
「……あなたの、アトリエでは」
私はうつむいたままつげる。
「ふん。醜女にしてはやるな。そうだ。ここは私のアトリエ。あらゆる芸術家。あらゆる時代。あらゆる神すらも超越する至高の美が支配する空間だ。お前のような醜女にはさぞまぶしいだろう」
桜の魔女は高笑いした。
「……さっさと
すると桜の魔女はますます高圧的に笑う。
「はっ。そんな矮小な目的のために、貴様のような醜女を連れてくるわけがないだろう。世界の存続は副次的なものだ。この私の完璧なアトリエを貴様で汚すにはもっと高尚な目的が必要だ」
……どういうこと? 私は世界を救うための生贄なんじゃないの?
「これからお前には神になってもらう。私に倒されるべき、神に」
「……神?」
意味が分からない。どうやったら人が神になれるというのか。
「これから戦火に苦しむ人々の元を巡り、スカイアイの力で奇跡を起こしてもらう。時が経てばお前という存在はクリムゾンアイによってこの世界から消滅し、施した奇跡のみが概念となり残る。それは最終的に完璧な神として、全人類の信仰の元にイデアとして昇華されるだろう」
あまりにも突拍子もないことで、理解が難しい。私に人々を救わせて、そしてその功績を神のものだと信じ込ませる。すると人々の思いは結集して、実体を持った神をこの世界にイデアとして降臨させる。
そういうことだろうか? ……けれどイデアがこの世界に生まれた理由は人々の調和が乱れたからだと聞いたことがある。もしも神の元に人々が結束するのなら、この世界からイデアは消えるのではないだろうか?
「お前の考えていることは分かる。だが人が神への信仰の元に一つに結束するのは不可能だ。これまでの歴史を思い出せばわかるだろう。一言に「神」と言ってもその解釈は無数にあり、そしてその無数の解釈を巡って人々は争ってきた」
「……だからイデアは消えないし、神も現れると?」
「意外と利口じゃないか。そういうことだ」
魔女は口元を歪め両腕を天井に伸ばす。
「……それを私が私の美で、イデアで打ち負かす。どうだ。素晴らしい考えだとは思わないか? 私の美が、人類の意志に、神にすらも勝ると証明できるのだから」
「……」
天才は往々にして狂人になるが、目の前の女はまさにその典型だった。発言は異常。なのに至って真面目な声と表情なのが、なおさら恐怖を加速させる。
「常々私は思っていたのだ。桜の魔女――至高である私の生み出す芸術はあらゆる時空間において、唯一無二の美であるべきだと。……だから、私はこの世で美しいとされるものを次々に奪った」
その金色の瞳に、狂気の色が宿る。
「桜に青空、夜空にひまわり。もちろん全てが全て私によるものではないが。イデアというのは、本当に便利だな? 妄執に囚われた愚かな人類は、自らの手で自らの愛した美を足蹴にし、この世界から追い出した!」
桜も、青空も、ひまわりも、全部こいつが……?
「そうだ。千年前この世にイデアを生み出したのは私なんだよ!」
おぞましいほどに美しいその空間に、狂いそうなほど美麗な魔女の、醜悪な高笑いがこだました。
私がいなくなってお母さんや日葵が悲しむことになるのも、結局は二人の未来のため……。メシアに所属することになってからの三年間、私はずっと自らの行いを正当化しようと試みていた。苦しみながら悲しみながら、それでもそこに正しさがあると信じていたから、頑張って受け入れようとしたのだ。
でも信じた全ては偽りだった。怒りをにじませた低い声をあげる。
「……メシアも、あなたの自己満足のための組織でしかなかった。世界を救うなんて大義すらもなかった。……そういうことですか」
「自己満足とは失礼な。絶対的な美の完成を目撃できるのだ。多元宇宙の全ては歓喜の声をあげるだろう」
魔女は寸分の狂いもない完璧な笑みを浮かべた。
「……それにしてもここに来るまで、長かった。世界を分断し、調和が乱れるように仕向け、この世にイデアを生み出し、世界が戦火に包まれてからは敵対しあう全ての国々の信頼を得るのに奔走した」
この女は、本当に何者なのだろう? もしもその言葉が全て妄言ではなく真実だというのなら、これまでの全ては、……悲劇は全てこいつが元凶だということになる。
お父さんが死んだのも、私が連れ去られたのも、そのせいでお母さんと日葵が悲しんだのも、私たちが別れを迎えたことも……。全部……。
煮えたぎるような怒りが湧き上がってきた。だがこの美しくも醜悪な魔女は、自分以外の全てなどどうでもいいという風に、恍惚とした表情で自己陶酔に浸っている。
「……それも全て、神を顕現させるためだ。そしてその権威を私の美で失墜させるためだ。有史以来、人類が信じてきた神という概念。その威厳を全て簒奪する。いや、簒奪ではないな。あるべき場所に戻るだけだ。私という絶対的な美の元にな」
勝てる気はしない。全くしない。私の力の源である
もしかすると、殺されるかもしれない。
それでも私は、……私にはこの巨悪を放っておくことはできなかった。
「おぉ? 私を殺すつもりか?」
私の手には無骨なアサルトライフルが握られていた。
「……あなたは、愚かです。自分の欲望のために、人々を、私の大切な人を苦しめた。私の願いを、家族の幸せを願う気持ちを、もてあそんだ」
「はっ。貴様はこれから神になるんだぞ。そのような矮小なことに気を取られるな。少しは自覚を持て」
「桜も青空もひまわりも……、自分の美では勝てない。そう思ったからこの世界から排除したんでしょう? あなたは、中途半端です。……例え私があなたの思惑通り神になり果てようとも、決して打ち勝てない。あなたは人類の意志に敗北する」
魔女はあからさまに苛立っていた。歪められた表情は、それでもおぞましいほどに美しい。
「……貴様はもう少し状況を理解したほうがいい」
魔女がつげると、私の眼前に映像が浮かんだ。そこにはお母さんと
「万が一、私が命を落とせば今すぐにウロボロス以上の強大なイデアが貴様の家族を襲撃する。アヌ、ゼウス、ミネルバ、ラー、オーディン。豪華な手駒たちだろう? 私の最高傑作の前には、ウロボロスなどただのトカゲだ」
この魔女は美に対して異常なこだわりがある。神の名を冠するのなら、そのイデアも同様に強力である可能性は高い。
「果たして最高神の名を冠するそれらを前にして、貴様の家族は死なずにいられるだろうか? いかに世界の全てを敵に回せる高い城の女と言えど、難しいのではないか?」
「……高い城の女?」
「知らないのか? 白髪の幼女がそれだ。貴様の祖母でもある」
「……え?」
この小さな女の子がおばあちゃん……?
「血は繋がっていないが、貴様の母を子供のころから育てたのはその幼女だ。三千年生きている、私と似たような存在。だが私と同じく決して不死ではない。殺せば死ぬ。貴様は貴様の家族にわずかに残された幸せすらも奪うのか?」
目の前の映像の中で、三人は笑っていた。雰囲気は暗い。私のせいだろう。けれどそれでも、確かに幸せを感じているみたいだ。
「……あなたは、どこまでも卑怯です」
魔女は不敵な笑みを浮かべる。私は唇を噛みしめながら、銃を下ろした。
この魔女は全人類を、……日葵たちを不幸にした巨悪だ。でもそれでも、大切な人たちを犠牲にしてまでは殺せない。……それに、この魔女の目的は人類を滅ぼすことではない。ただ神の地位を簒奪することだけだ。
この魔女を殺さなくても、それでも世界は続いていく。……この世から消えた私が、ノスタルジアを生み出してこの世界の
……なってくれる、はずだ。
「貴様は今日から私の手駒だ。分かったな?」
「……」
魔女が爪を鳴らした。その瞬間、左目に違和感を感じる。鏡を見なくても分かる。魔女は私に
「まずは手始めに、かつてロシアと呼ばれた地域に奇跡をもたらしてもらう。今では他国と同様に数えきれないほどの小国に分裂しているが、その全てに貴様の威光を知らしめて来い。混沌としたこの世界で戦火に苦しむ民を救済するのだ」
もう一度魔女が爪を鳴らすと、今度は何もない空間にメシアの構成員たちが現れる。その正面には軍事用の大きなワープゲートが浮かんでいた。
構成員たちと共に、私は無言で足を踏み入れる。
けど、その寸前に魔女の声が聞こえた。
「貴様の肩に家族の命と幸せがかかっている。そのことを忘れるな」
「……分かってます」
私は無感情な声を出す。そして今度こそ、ワープゲートをくぐった。
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