第10話 月はおばあちゃんの温かな希望

 悩み事はあるけれど、最近は毎日が楽しい。お姉ちゃんがさらわれているのに、楽しくなってもいいのか、なんて葛藤はあるけれど。これまでの人生を思い返してみれば、楽しい時間の方が少なかった。だから、今くらいはいいと思う。


 楽しくても、辛くても、結局やることは変わらないのだ。


 それにお姉ちゃんを助ければ、世界は終わる。


 世界で一番大好きなお姉ちゃんにこの幸せを分け与えてあげられないのは悲しいけど、それでもこれまで幸せになれなかった分、たくさん幸せになりたいのだ。そう思うのは、悪いことなのかな……? やっぱりよく分からない。


 考えれば考えるほど、分からなくなる。いくら自己正当化を試みても、罪悪感が付きまとうのだ。今もお姉ちゃんは苦しんでいるはずなのだから。


 小さくため息をつきながら、私は大浴場の脱衣所で服を脱いでいた。お母さんも自分の服に手をかけているけれど、どうしてか私をみつめて固まってしまっている。


「どうしたの?」

「あ、いえ。なんでも、ないですっ……」


 目が合うと勢いよくそらす。もしかして自分の体と私の体を比べて心配してるの?  単純に私に性的な興味だけで視線を向けているわけではないようにみえた。自分の体を見下ろしてため息を吐いているのだ。


 ……大丈夫だと思うけど。お母さん、すごくスレンダーでモデル体型だし肌も綺麗だし。……まぁ私と同じで、胸はないけどさ。


 私はさっさと服を脱いで、全裸になってしまう。


「先に入ってるね。星海ほしみさんも早く来るんだよ? 風邪ひいちゃうから」

「は、はい……」


 脱衣所を抜けると、そこにはかつて「満天の星」と表現されたであろう美しい夜空が広がっていた。どんな技術で再現しているのか分からないけれど、閉塞感はなく本物みたいにみえる。


 石で囲われた広い温泉に今すぐ飛び込みたいところだけれど、古典の情報によると体を洗わずに湯船に入るのはマナー違反らしい。しっかり体を洗ってから、湯船につかる。


 昔の夜空は本当に綺麗だ。全てが今の世界とは違う。いや、月だけは同じか。その白い輝きをみつめていると、心が洗われるようだ。


 そういえばお姉ちゃん言ってたな。「月が綺麗ですね」は「あなたを愛しています」と同じ意味を持つんだって。古典文学なんてよく知らないけれど、凄くロマンチックだなと思う。


 同じ美しいものを心から共有できるくらいに許し合った関係。


「……共感するのが、人間か」


 ――例え相手がロボットでも、共感してしまうのなら人間と同じだとみなしてしまう。タイトルも内容も知らない小説だったけれど、どうしてかお母さんの言葉が頭の中に残っている。


 現代の人々はロボットを人間だとみなせるのだろうか?


 人が美しいと思った青空や桜やひまわりを自分勝手に消してしまう。それは美しさに共感できないということだ。仲良くなんて、なれないということだ。お互いを許せないということだ。


 お母さんは昔の人が憎しみではなく愛で融和することを望んでいたのだと、語っていた。だとするのなら、現代はその願いとは真っ向から逆行してしまった状態にある。世界の国々は常に戦争をして、人々もお互いを傷つけあっている。


 もしかすると現代の人類はロボットでもない、自分と同じ人間すらも人だとみなせていないのかもしれない。多分だけど、人々をそんな風にしているのは、この世界に満ちている憎しみなんだと思う。


 憎しみのもつ力は、愛よりもずっと強い。愛は憎しみには勝てない。そのことを私はこれまでの人生で身をもって思い知らされてきた。お父さんの愛は飛竜に勝てなかったし、私たちの愛だって一度はメシアに敗北している。


 私たちは今、お姉ちゃんを救うために必死で頑張っているけれど、本当に救えるのだろうか? もしもメシアに逆らえばきっと世界は敵になる。世界の全ての国とつながるメシアが、私たちという敵対者を前にしていつまでも世界崩壊の未来を秘匿しているとは思えない。そうなれば私たちに向けられるのは、間違いなく憎しみで……。


 数十億の憎しみの前には私の愛なんて、どこまでもちっぽけなものでしかないのではないか。容易に否定されて、潰されてしまうのではないか。


 そんなことを考えていると、なんだか気分が凄まじく暗くなってきた。


 私はかりそめの星空を見上げて、考えることの一切を放棄する。ただ無になることだけを考える。考えて心配しても何も変わらない。世界中を満たす憎しみに負けてしまうことが分かっていても、きっと私たちはお姉ちゃんを救うことを選ぶ。


 ……それだけでいいはずだ。


 それにしても、なかなかお母さんが入ってこない。振り返り脱衣所のすりガラスをみつめていると、騒がしい声が聞こえてきた。


「星海。まだ入っていなかったのか。風邪をひくぞ。ほら、早く入れ」

「で、でもっ」

「大丈夫だ。星海は私より三千歳も若い」

「おかあさんは年取らないじゃないですかっ! そんな綺麗なお肌してて……。嫌味ですかっ?」


 その騒がしさに、なんだか心を救われた気分だった。私は小さく微笑んで、二人のやり取りに耳を傾ける。しばらくすると可愛い幼女なおばあちゃんが、お母さんと一緒に露天風呂に入ってきた。


 体をタオルで隠して恥ずかしがるお母さんとは対照的に、おばあちゃんはその綺麗な体をむき出しに歩いてくる。あまりにも綺麗だから、天使かなにかだと思ってしまう。


日葵ひまり。どうだ湯加減は」

「いい感じだよ。おばあちゃん」

「ほう。そうか」


 おばあちゃんは体を洗わずに湯船に入った。綺麗な白い髪がお湯に浮かんでいる。気持ちよさそうに目を閉じてふぅと息を吐いていた。


「確かになかなかいい湯加減だな」

「おばあちゃん。体を洗わないのってマナー違反じゃないの?」

「三千年生きてきたが、時代によりけりだな。私は古い人間だから体を洗わずに入るのが習慣になっている。でもそれを不快に思う人もいる。……正しさというのは人によって変わるものだ」

「……なるほど」


 ちらりとみると、お母さんは体を縮こまらせながら椅子に座って体を洗っていた。


「……イデアのように自分勝手を押し付けてはいけない。物理法則に従うアーティファクトのあり方が正しい。この考えもあくまで私の中の正しさだ。時代は変わる。もしかすると私はただ、時代に置いていかれただけの老害なのかもしれないな」

「老害って。……そんな言葉使ってほしくないよ」


 おばあちゃんは自嘲的な笑みを浮かべていた。


「この「高い城」にこもり続けて千年近く経つ。今も私の知らぬところで時代はうねり、変容していく。置いていかれていても、おかしくはないだろう」


 正しさとかよく分からない。私たちにとってはお姉ちゃんを助けて世界を滅ぼすことこそが正しいけど、みんなはきっと逆だ。でも確かなことだってある。


「……そうだとしても、私はおばあちゃんが好きだよ」


 私が微笑むと、おばあちゃんはにこやかになった。


「そうか。嬉しいことを言ってくれる」

「訓練はちょっと手加減してくれると嬉しいけどね」

「……ふふ。それはできない相談だな」


 おばあちゃんは愛おしそうに私の頭を撫でてくれる。


「……あの、私も、入ってもいいですか?」


 体を洗い終わったのだろう。お母さんがタオルで前を隠して、温泉のそばまでやって来る。おばあちゃんは「いいぞ」と言うけれど、ためらっているのかなかなか入ってこない。体をみせるのが恥ずかしいのかな? 


 好きな人の前では、恥ずかしくなるのも分かる。でも別に恥ずかしい体じゃないと思うんだけどね。私と同じくらい若々しいし、綺麗だし。


 それにしても、このままだと風邪をひいてしまいそうで不安になってきた。


「星海さん」

「……なんですか?」

「私は星海さんの体、綺麗だと思うよ」


 その瞬間、お母さんは真っ赤になってしまう。


「へ、変態っ。日葵さんの大変態っ……!」 

「全く。私の孫は……」


 おばあちゃんにまで呆れたような目をされてしまった。


 自分でもとんでもないことを言っているのは理解している。でもお母さんは脱衣所でも明らかに自分の体を気にしていた。お母さんが自信を持てない性格だってことは理解しているけれど、客観的にみて綺麗なのだから、お母さん自身にもその綺麗さを疑って欲しくはないのだ。


 だってそれはつまり、自分を愛せていないということだから。私はお母さんに何度も助けられてきた。記憶が消えてありのままのお母さんになっているからこそ、私はそのありのままのお母さんを肯定したいし、これから先、記憶を取り戻したとしても自然体の自分のことを肯定して欲しいのだ。


 誰かのために、強くあろうとする。それはいいことだ。けれどずっと一人で抱え込むなんてあってはならないと思う。特に、ありのままのお母さんを知ってしまった今となってはなおさらだ。


 私はお母さんに、私たちを愛するだけではなく、自分のことだって愛して欲しい。


「……私、星海さんに自分を好きになって欲しいんだ。その為なら何度だって言う。星海さんの体は綺麗だよ」

「ひ、日葵さん!?」

「隠さなくていい。普段だってそうだよ。おどおどしなくていい。自分を信じられないのなら、私を信じて欲しい。私の言葉を信じて欲しい。星海さんは凄い人だよ」


 星海さんは顔を真っ赤にして、私をみつめていた。口元を緩めて、嬉しそうに目を細めている。でもすぐにうつむいてしまう。髪の毛で顔を隠してぼそりとつぶやく。


「……だから、好きになっちゃったんですよ」


 お母さんはタオルを外して、静かに温泉に入った。おばあちゃんは私の肩を叩いてから体を洗うために湯船を出た。温泉には私とお母さんの二人きりになった。


「……というか、本当に綺麗だって思ってくれてるんですか?」

「思ってるよ」


 伝えるとお母さんは心底嬉しそうにした。けれど目が合うとぷいと恥ずかしそうに顔をそらしてしまう。でもぼそりと「……ありがとうございます」という声が聞こえてくる。


「……間違った恋だってことは分かってるんです。でも好きって気持ちなんて、どうしようもなくないですか? 自分の娘なのに、理解はしているのに、……抑えきれないんです」


 お母さんはそのこげ茶の瞳を潤ませて、私をみつめた。


 間違った恋。そう思ったことは私も何度もある。だって恋する相手が同性で身内で血がつながってて。……世間の常識とまるっきり外れてしまっているのだから。


 でも私たちは今、お姉ちゃんのために世界を滅ぼそうとしている。世界はそれを間違いだと断じるだろう。けれど私たちの中ではそれは間違いなく正しいことなのだ。 


 間違いだと思うか、正しいと思うか。それは全て、自分が決めること。


 かつての私は、私を認められなかった。でも幸か不幸か気付けたのだ。世界の崩壊とか、秘密結社とか。途方もないスケールでの二者択一を迫られて、私が何を一番大切に思っているのか。


 常識も世界も人類も全てを破壊してもなお、それでも愛していたいと思う。私はそれほどまでにお姉ちゃんを大切に思っている。そのことに気付いたから、私は初めて自分の気持ちを肯定できたのだ。


「私は間違いだなんて思わないよ。星海さんは、私との間柄を知ってても、それでも私への恋をやめられない。否定できないんでしょ?」

「……でも、私の恋は報われない。そうですよね? 報われない恋は、間違った恋なんじゃないですか? ただの独りよがりの押し付けじゃないんですか? 幸せになれない。誰も幸せにしない。……私だけじゃない。きっと日葵さんだって、辛い気持ちにしてしまう」


 お母さんは肩をすくめて、紛い物の星空を見上げていた。


「……それでも知って欲しいって思ってしまう私は、本当に日葵さんを愛していると言えるのでしょうか?」


 震える声が白い湯気に溶けて消えた。


 私はお母さんのことを大切に思ってる。お母さんには不幸になってもらいたくない。けどお母さんを選ぶわけにはいかない。私が好きなのはお姉ちゃんなのだ。例えお母さんを不幸にしてしまうとしてもだ。


 でもだからって、失恋してそれで全てが終わりってわけじゃない。私たちは家族だ。恋人とかそういう次元を超えて、お互いを大切に思っている。失恋なんか崩れてしまう程、脆い関係じゃない。記憶を失っても無限の距離を隔ててしまったとしても、それでもいつだって私たちは繋がっている。お互いのことを思っている。


 お母さんは私たちのために長い時間、たった一人で強がってくれるくらい優しい人なのだ。お母さんが報われない恋を私に知って欲しいと思うのは、きっと関係が崩れないと信じていることの証明だと思う。


「ごめんね。星海さん。星海さんの気持ちには応えられない」

「……そう、ですよね」


 髪の隙間からみえたお母さんは、こらえきれなかったのか一筋の涙を流していた。必死でそれを隠そうとしながら、湯船から出ようとするお母さんの手を握って、私はぎゅっと抱き寄せた。


「でも私は星海さんのその気持ちは間違った恋なんかじゃないって思うよ。だって私だって恋が報われなくても、星海さんに私のそばにいて欲しい。……こんなエゴをぶつけてしまうくらいには、大切に思ってるんだから。……大切な人のそばにいたい。この気持ちが間違いなら、この世には正しいものなんて何もなくなってしまう。そう思わない?」

「……。本当に、日葵さんはひどい人ですね」


 お母さんは小さく震えながら私を抱きしめた。そしてそのままつぶやく。


「……だったら、私のエゴも聞いてくれますか?」


 こげ茶の瞳が真っすぐ私を射抜く。


「せめて記憶が戻るまでは、あなたのことを、好きでいさせてください」


 微笑みながら涙を流すお母さんの髪を、私はそっと撫でた。


「分かった。……これからもよろしくね。星海さん」

「……はい」


 震えるお母さんの体はとても小さく感じられた。きっと私もお母さんからすれば、こんな感じだったのだろう。お母さんとしての立場があるから、必死で頑張ってくれていたのだ。でも今は、お母さんはお母さんではない。


 それなら、今度は私がお母さんを助ける番だ。お母さんに恩返しする番だ。無垢な恋する女の子になったお母さんを、私が。……無償の愛は綺麗な言葉だけれど、ただ一人に犠牲を押し付けるだけだというのなら、そんなもの、私は認めない。相手がお姉ちゃんでも、お母さんでも。


 思いには答えられない。でも私は「家族」である私にできる全てを、お母さんに与えてあげるつもりだ。……だからお母さんも、少しは自分を好きになってくれると嬉しい。


 私はそっと、お母さんの頬にキスをした。


〇 〇 〇 〇


 お風呂上がりの穏やかな時間、私は談話室で「牛乳」ならぬ「世界で一番おいしい肉乳」なるものを飲んでいた。味はいいけど、名前がひどい。なんだよ。肉乳って。


 飲み終えて視線を戻すと、お母さんはソファの上で集中して小説を読んでいた。思うところはたくさんあるのだと思う。けれどお母さんはお母さんなりに、自分の気持ちと折り合いをつけてくれたのだ。


 でも決してその苦しみを隠して欲しくなんてない。甘えたいのなら好きなだけ甘えてくれればいいし、泣きたいのなら好きなだけ泣いてくれればいいのだ。求めてくれるのなら、私はその全てを受け止める。


「どうしたんですか? 日葵さん」


 じっと見つめていると目が合った。


「楽しそうに小説読んでるなって」

「……日葵さんと同じ空間にいられるだけで幸せです」

「……」


 かけてあげられる言葉なんて見当たらない。私はお母さんの傍に座って、そっと頭を撫でた。お母さんは切なげに微笑んでいる。私のこの行動が正しいのかなんて分からない。でも何もしないなんて選択肢は、私にはなかった。


 二人で寄り添っていると、おばあちゃんが熱心に何やら大きな画面のついた機械を操作しているのがみえた。聞いたところによると何十年か前に打ち上げた人工衛星に接続して、お姉ちゃんの居場所を探っているらしい。


 みつめていると、不意におばあちゃんが声をあげた。


「……美月みつきがどこにいるか、分かった」


 私はすぐにお母さんと二人でおばあちゃんの元へ向かった。おばあちゃんの見つめる先の画面をのぞき込む。


 そこには綺麗な月が映っていた。けれどどうして月?


「……美月の乗っていたヘリの構造に干渉した時、念のため発信機も取り付けておいたんだ。だが捉えられた電波が微弱だったうえに、わずか十秒程度しか観測できなかった」

「それなのにたった一週間で特定できたんですね」

「おばあちゃんすごい」


 おばあちゃんは嬉しそうだ。けれどすぐに神妙な面持ちになる。


「正直、信じられなかったんだ。この結論に達した時は、間違いだと思った。だから断定するまで時間がかかってしまった」


 おばあちゃんは天井を見上げた。


「……美月は、月にいる」

「えっ……」


 月って、夜空に浮かぶ月……?


「信じられないと思う。でも得られた情報を総合すると、間違いなく美月は月。それも静かの海という、アポロ11号の月着陸船が着陸した辺りにいる」

「……月、ですか」

「……月」


 私とお母さんは思わず顔を見合わせる。場所が分かったのはいい。


 ……でもそんな場所に、いったいどうやってたどり着けばいいのだろう? 


 月は地球から約三十八万キロも離れている。地球の直径が約一万三千キロであることを考えると、途方もない遠さにある。宇宙に空気はなく、人が生身で飛び出せば長くはもたない。そんな死の空間の中にぽつりと浮かぶ白い輝き。

 

 長距離ワープが可能な軍事用イデアですら、大陸間の移動が精いっぱいだ。月にたどり着く手段は、科学の衰退したこの世界からはもうほとんど失われている。


 例え仮に何らかの方法で月にたどり着けたとしても、重力の弱さゆえに大気は極めて薄く、その表面の寒暖差も激しい。人が活動するには余りにも困難な環境だ。


 ましてやそんな場所でメシアと戦いながらお姉ちゃんを救い出すなんて、あまりにも非現実的ではないだろうか?


 だが困惑する私たちとは違って、おばあちゃんはどこか楽しそうだった。


「……まさかまた月を目指すことになるとはな。それもかの11号と同じ場所を」


 遠い目をして楽し気に口元を緩めている。かつてはアポロ計画に関わっていただけはある。科学者という人種は、どうやら困難な時ほど燃えるらしい。


「理由は不明だが、メシアは桜の魔女の強大なイデアを利用して月に基地を作った。ならば私たちは今となっては古典的な「科学的手段」で月を目指す」

「……でもお姉ちゃんがこの世界から消えるまで四か月しかないんだよね?」

「準備できる期間はせいぜい三か月だとも言ってませんでしたか? おかあさん」


 宇宙船なんてつくるとなると、凄まじい時間がかかるはずだ。そんな私たちの不安を前にしても、おばあちゃんはわくわくを隠しきれていない。


「ふふ。私を誰だと思っている。この世界で一番のアーティファクト職人でありその始祖。かつては稀代の天才と呼ばれたことすらもある。……あの頃は多くの人手が必要だった。だが今は、設計さえしてしまえば私一人の手でも容易に完成させられる。心配はいらない」


 まったく不安なんて感じてないみたいだ。むしろ少女の頃に戻ったみたいに、今にも飛び跳ねそうな勢いで鼻息を荒くしている。


 そんなおばあちゃんを見ていると、不思議と不安が薄れていった。


「それならおばあちゃんに任せるね」

「頑張ってくださいね。おかあさん。私たちも訓練頑張ります」

「ふふ。大船に乗ったつもりでいればいい。……そうと決まれば時間が惜しいな。二人とも。私はこれから宇宙船の設計に入る。かつて人類の創造したあらゆる船よりも優れたものを作ってみせよう。期待してくれていいぞ!」


 おばあちゃんは満面の笑みでスキップしながら談話室を出ていった。


「……確かに、目的もなしに月なんて目指せないよね」


 おばあちゃんには一人でも月にたどり着ける知識と技術があったのだろう。


 でも同僚もいない孤独な状態で、しかもこの世界からはおばあちゃんの信じた科学も失われようとしている。そんな毎日を生きていれば、月を目指すことに意味なんて感じられるわけがない。 


 けれどきっと、おばあちゃんは意味さえあれば、いつだって月の大地を踏みしめることを望んでいたのだ。かつて初の月面着陸を成し遂げたアポロ11号のクルーと、それを支えつづけた数多の夢見人たちのように。


「おかあさんって、見た目の割に達観しすぎているというか。三千年生きてるから仕方ないのかもしれないですけどね……。でもさっきのおかあさん、なんだか見てて幸せでした」

「ふふ。本当にね」


 私たちは静かに微笑み合う。おばあちゃんはここ千年間、ずっと奪われてばかりの人生だった。心は荒み、萎れてしまっていたのだろう。けれど今日、千年ぶりに恵みの雨が降ったのだ。


 お母さんもやる気になったのか小説を閉じて、端末を取り出している。私も負けじと端末に目を向け、様々な知識を頭の中に詰め込む。いくらおばあちゃんが凄いとはいえ、月でメシアを相手にするのは容易ではないだろう。


 もしかすると私たちは簡単に負けてしまうかもしれない。だけどできる限りのことはするつもりだ。世界が終わってしまうとしても、全人類に憎まれるとしても、それでも。


 それでも私はお姉ちゃんのことを、世界よりもずっと大切に思っている。


 ちらりとみると、お母さんは複雑そうな顔をしていた。けれどすぐに微笑んで、私の手を握ってくれる。


「日葵さんが大切に思う人のためなら、私は努力は惜しみません。だから余計な心配はいりませんよ。私、あなたのことが好きです。でもそれ以上に今は、あなたの幸せを願っているんです」


 お母さんはそっと私のおでこに口付けした。


「……いつか記憶を取り戻して、この思いが消えてしまうとしても、それでも私の恋をほんのわずかでも覚えていてくれるのなら、……それだけでいいんです」


 私は肩をすくめるお母さんを優しく抱きしめた。とげのような痛みが心を苛む。もしもお姉ちゃんが世界のための楔にされなければ、お姉ちゃんが苦しむことはなかった。でもおばあちゃんとは再会できなかっただろうし、お母さんも一生、死ぬまで強がったままだったかもしれない。


 だから良し悪しなんて分からない。でも一つだけ分かることはある。


 私はおばあちゃんのこともお母さんのこともお姉ちゃんのこともみんな大切に思っていて、守るためならどんな努力だっていとわない。私の思う正しさは間違いなく、そこにあるのだ。


第二章 千年後のアポロ 終


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