第8話 母の愛
私とお母さんはまたそれぞれの世界に戻った。お母さんは集中して小説を読んでいて、私は集中して物質や物体について学んでいる。見ているものは全く違うのに、なんだか温かな気持ちになれた。
時間はすぐに過ぎてゆき、お昼になる。すると医務室の扉が開いて、おばあちゃんがやってきた。
「二人とも。私が昼食を作る。これからこの車で食堂まで向かうぞ」
「車、ですか?」
お母さんは不思議そうにしている。普通、食堂に移動するのに車なんて使わないもんね。この要塞は巨大だから行き来しやすいように道路が整備されているのだ。
おばあちゃんは車いすを二つ生み出した。そして一人ずつ、車へと移動させてくれる。おばあちゃんが運転席で、私たちは後部座席だった。
「……運転、できるんですか?」
お母さんはとても不安そうだ。でもおばあちゃんは「大丈夫だ」とつげる。
「私の身長でも差し障りがないように調整している」
それでもなお不安げなお母さんに、私はささやいた。
「おばあちゃん、ヘリコプターも運転できるんだよ。それも物凄く上手いんだ」
それを聞いたお母さんは表情を明るくした。
「そうなんですね。それならお願いします。シロさん」
「あぁ」
おばあちゃんは頷いてから、車を走らせた。
そうして私たちは食堂にやってきた。人がたくさんいた昔の名残なのか、広々としている。テーブルがいくつも並んでいて、椅子の数も多い。手近な机を見るも、埃一つなく綺麗に掃除されていた。
おばあちゃんは私たちを厨房に一番近い席まで連れて行ってくれた。それから一人で厨房に向かう。
「……あの、私も手伝いましょうか?」
お母さんは内気だ。きっとおばあちゃんの気持ちに応えたいって気持ちがあるから、勇気を出したのだろう。でもおばあちゃんは硬い表情であっさりと断った。
「けがをしているだろう。座って待っていればいい」
「そうですよね。……ごめんなさい」
まだ短い時間しか一緒にいないけれど分かる。おばあちゃんは結構不器用な人だ。そこにほんの少しも悪意なんてないのは分かってる。でもお母さんは寂しそうにしていた。
おばあちゃんが厨房に向かうと、お母さんが問いかけてくる。
「……あの、私とシロさんって、本当に仲が良かったんでしょうか? ……愛されていたんでしょうか? 記憶があるときはどんな感じでした?」
おばあちゃんは間違いなくお母さんを愛していた。交流は絶っていたけれどそれだって愛していたからだ。私は口を開いて、そのことを伝えようとした。
でもちょうどその時、おばあちゃんが戻ってくる。
「聞くのを忘れていた。二人は何を食べたい?」
「えっと、私はステーキが食べたい」
「分かった。豚肉になるが、それでいいか?」
「うん」
私が答えたあと、お母さんはしばらく考え込んでから、つぶやいた。
「……材料は何があるんですか?」
「大体のものはある」
「……それなら、私の好きなものでお願いします。私、なにが好きかも覚えてないんです」
私が牛肉を好んでいたから良く牛肉を焼いて出してくれてたけど、お母さんの好きな食べ物は親子丼だったと思う。
けど、おばあちゃんはどうしてか黙り込んでいた。
「……私は君と、二十年間会ってなかったんだ。だから子供の頃の好きな食べ物なら分かるが、今の
「あ、……そう、なんですね」
お母さんもおばあちゃんも二人とも肩をすくめていた。そんな空気が流石に堪えたのか、おばあちゃんは気まずそうにその幼い顔をわずかにほころばせる。
「だが昔の星海が好きな料理なら分かる。君は私の作るオムレツが好きだった」
「そうなんですね。それなら、オムレツでお願いします」
「分かった」
そうしておばあちゃんは厨房に戻っていった。
「……複雑、だったんでしょうね」
「でもおばあちゃんは大切に思ってるよ。星海さんのこと」
「それは、分かってます。表情とか、声とか。優しいですから。……言葉でも伝えてくれましたから。でも、それでも信じられない。信じてあげるべきだと思うんです。……でも」
お母さんが寂しそうにつぶやく。
「私は暗い性格です。この世界の全てが怖いって思うんです。きっと
「大丈夫だよ。手がかかる子ほど、可愛いっていうでしょ?」
「……。だったら私はあなたを、愛せていましたか?」
お母さんはぽつりとつぶやいた。
「あなたは、私の分までたくさん頑張ってくれていたんじゃないですか? だって私はこんな、こんな頼りにならない性格で。もしもあなたにそんな苦労を強いていたというのなら……。やっぱり私は、自分に向けられる愛を信じられません」
これまでお母さんはずっと頑張っていた。お父さんを失っても、お姉ちゃんを失っても、私の前では強くあろうとしてくれた。記憶を失っているとはいえ、本人がそれを否定するなんて私には耐えられない。
「……お母さんは凄い人だったよ。きっと今のお母さんが本当の性格だったんだと思う。けど必死で強くあろうとしていた。いつも私たち家族の心配をしてくれてさ。世界で一番のお母さんだったよ。本当に最高だった」
私が抱きしめると、お母さんは静かに涙を流していた。なにも記憶がなく、自分を肯定するものがなく、ただ内気な本来の性格だけが残った。
それなら私が今すべきことは、お母さんを肯定してあげることだ。お母さんはそれに値する頑張りをこれまでたくさん見せてくれたのだから、例え記憶が戻ったとしても今のままのお母さんでいられるくらいには、私はお母さんを大切にしようと思う。
「あなたが私の娘じゃないのなら、もしかすると恋に落ちてたかもしれませんね。……あ、その、気分を悪くされたのなら、ごめんなさい。気持ち、悪いですよね。お母さん、なのに……」
お母さんは顔を赤らめながら、目をそらした。私は「大丈夫だよ」と笑う。
「人を好きになる気持ちって、どうしようもないから。私だってお姉ちゃんだって分かってるのに、お姉ちゃんを好きだって気持ち、抑えきれなかったんだ」
「……あなたは、美月さんのことが好きなんですね」
お母さんはどこか、切なげな笑顔を浮かべた。
「姉妹なのに、変だって思うかな。星海さんにもずっと隠してたんだ」
私が視線をそらすと、お母さんは慌てて首を横に振った。
「……そんなこと、思いませんよ」
その時、おばあちゃんが料理を持って戻ってきた。
私の前にはステーキ。お母さんの前にはオムレツを置いてくれる。
「誰かのために料理するなんて久々だから、上手くできているか分からないが……」
どこか後ろめたげにするおばあちゃんに、お母さんは笑顔を向けた。
「記憶はないですけど、これが好きだったってことは分かります。……きっとシロさんはいいお母さんだったんでしょうね」
お母さんの心からであろう笑顔と言葉に、おばあちゃんはその大きな青い瞳を潤ませる。けれど視線を背けたかと思うと、ぶっきらぼうな物言いになってしまう。
「……そうありたいと願っていた。だが。……私は君を守れなかった」
「そう、かもしれません。でもそんなこと責めませんよ。きっと、私のためにたくさん頑張ってくれたんだと思います。私もシロさんのこと大好きだったんだと思います」
お母さんはおばあちゃんの手を握り締める。そして心からいたわるように、おばあちゃんの青い瞳をみつめた。
「……だって子は親に似るものっていうでしょう? 私が、この子の、日葵さんや美月さんのために頑張れたのだって、きっとシロさんに似たからです。親の愛情を知らない人は、子を愛することもできない。でもたくさん愛してもらったのなら、子のために頑張れる。……そういうものじゃないですか?」
「……」
おばあちゃんは目を見開いた。涙をこらえるような表情で、私たちに背中を向けた。長い白髪が揺れる。その後ろ姿は小さく震えていた。
お母さんはオムレツに箸を伸ばして、それから口に運んだ。
「とても美味しいです。おかあさん」
「……。そうか。ふふ。良かった」
お母さんの笑顔を見て、おばあちゃんはとても嬉しそうだ。その可愛い顔にはうっすらと涙まで零れ落ちている。
「おかわりもある。好きなだけ食べると良い」
おばあちゃんはそんなこと言うけど、おかわりは無理そうだ。ステーキのサイズはユーラシア大陸みたいになってるし、オムレツも山みたいに膨らんでいる。
おばあちゃんって、もしかしてみんなこういうものなのかな? でも悪い気はしない。きっと私たちのことを思ってくれてのことだから。
「おかあさん。聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「いいぞ。なんでも聞くといい」
「
その瞬間、沈黙が広がる。
お母さんはまだ知らないんだった。メシアのことも、世界崩壊のことも、お姉ちゃんがそれを止めるための犠牲を強いられていることも。
でも記憶を失って混乱しているお母さんに、教えてもいいのだろうか。
「……なにか、悪いことが起きているのかもしれないです。でも私には心から信頼できる人が、……おかあさんと
私たちの表情から察したのだろうか。お母さんは真剣な顔をしている。おばあちゃんは観念したように、ため息をついた。
「
「……なんとなくですけど。アーティファクトが秩序だったもので、イデアが完全な空想をもとにしたもの……。これで合ってますか?」
「合っている。この世界がイデアによって崩壊しかけている。そのことも覚えているか?」
お母さんは首をかしげていた。覚えていないみたいだ。おばあちゃんは懇切丁寧に説明を始める。イデアが世界を侵食する。その頻度が指数関数的に上昇していること。そのせいで人類が近い将来、崩壊すること。それをお姉ちゃんを犠牲にして防ごうとするメシアという組織があること。
そして、例え世界が崩壊することになろうとも、私たちがメシアからお姉ちゃんを助けようとしていること。あまりにもぶっ飛んだ話だからか、お母さんは目をぱちくりさせている。
「……状況は、一応理解できました。ですが、私たちにそんな組織を相手取る力なんて、あるんですか?」
「おばあちゃんならなんとかできると思う。でも私は無力だから今日弟子入りしたところ」
「……命の危険は、ないんですか? そんな、世界の全てとつながる組織。明らかに危険ですよね?」
お母さんは表情をこわばらせる。おばあちゃんは小さく頷いた。
「……危険だな。死ぬ可能性も当然ある。奴らは桜の魔女という天才的なイデア職人と癒着している可能性が高い。あのウロボロスとて奴からすると尖兵でしかないだろう」
「……」
「それでも星海さん。私たち家族はお姉ちゃんのために、世界を滅ぼす覚悟をしたんだ。……覚えていないんだから、無理強いはしない。星海さんが戦う必要はないよ。でも私たちは戦う」
お母さんは今にも泣き出してしまいそうだ。けど強い意志を感じさせる瞳で、私たちをみつめている。
「戦うのは、怖いです。でも、私は、私の無力さのせいで、大切な人が死んでしまう方がもっと怖い。二人が戦うのなら、私も戦います。美月さんに関する記憶はないですけど、大切だってことは分かるんです。だからおかあさん。私のことも鍛えてくれませんか?」
内気な性格だけれど、本質は少しも変わっていない。やっぱりお母さんはお母さんだった。おばあちゃんは不安げに眉を顰めわずかな時間考え込むが、それでもすぐに頷く。
「……いいだろう。星海にも稽古をつけてやる。だが、忘れるな」
おばあちゃんの真っすぐな視線が、私たちを射抜く。
「君たちのことは、絶対に私が守る。……例えこの命を懸けてでもな」
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