第7話 旧時代の亡霊
私とあの子が知り合ったのは、もう三十年前くらいだろうか。大雨の夜だった。街を歩いていたら、裏路地から泣き声が聞こえてきたんだ。覗き込むと、そこには小さな女の子がいた。
濡れた地面に座り込んで、雨に降られながら、たった一人で泣いていた。
その日、大勢を巻き込んだテロが起こったことを私は知っていた。イデアを用いたテロだ。そこで両親を失ったのだろう。私はそう考えた。
けれど当時の私はかなり荒んでいたんだ。だからその女の子を拾ってやろう、なんて善意は心のどこにもなかった。無視して、歩き去った。
次の日も私は同じ場所で女の子をみつけた。相変わらずその子は一人ぼっちだった。人通りのある昼であるにも関わらず、行き交う人々は誰もその子を助けようとはしなかった。
濡れた服のままで、ろくに食事もとらず、すっかり彼女は衰弱しきっていた。もう泣き声をあげる元気すらも残っていないみたいだった。ただ静かに、……子供が浮かべるにはあまりにも悲惨な表情で涙だけ流していた。
その時、不意に昔のことを思い出したんだ。私は三千年生きている。だから当然、人が冷たい時代も知っていれば温かい時代も知っている。「旧時代の亡霊」という呼び名は知っているだろう?
あの時の私は間違いなく「旧時代の亡霊」だった。温かな過去に囚われ、ただひたすらにそこに戻ることだけを考えていた。荒んだ現実からは目を背け、過去に溺れて生きていく……。
昔の温かさを思い出したかったのかもしれないな。私はその子を――君の母を拾うことにした。私が近づくと、その子は何もかもすべてを憎んでいるようなまなざしで私を睨みつけた。
だけど私が手を差し出すと、私よりもずっと小さなその手は迷わなかった。
私は少女の名前を知らなかったし、少女自身も自分の名前を教えてくれなかった。だから「
超大国のにらみ合いこそあれど、人々がみんな「星の海」をみつめていた時代。それに由来する名前だ。星海はその名前を好みも嫌いもしなかった。ただ黙って受け入れていた。
ところで、私は孤独だった。「高い城の女」と呼ばれる私は、君も知っていると思うが常識では考えられない力を持っている。だから国だけではなくあらゆる組織から睨まれていたんだ。
でも睨まれていたのは、それだけが原因ではなかった。
かつて私は「世界の敵」になろうとしていたんだ。文字通り、世界の敵だ。自分以外の全てを傷付けようとする暴力の権化。でもそれは憎しみが理由ではなかった。
私は、過去を取り戻したかった。
この世にイデアが現れたのをきっかけに、ますます世界は乱れていった。人も国も自分の願望をイデアによって世界に叶えさせるため、自分とは違う思想を持つ者を積極的に攻撃したんだ。私の愛した人の温かさは失われ、人類も進むべき方向を無くし、各々が別々な方向に向かう……。まごうことなき、混沌の時代の始まりだ。
絶え間ない戦争にテロ。世界がこんな風になったのは、間違いなくイデアが原因だ。そしてそのイデアが生まれたのは、人々が調和を失ったからだった。みんながみんな他者ではなく自己を優先するようになった。
だから私は自分が「世界の敵」になることで憎しみや怒りによって世界を結び、人と人との結びつきを、調和を取り戻そうとした。例えどれほどの犠牲を出そうともだ。
かつて人類が、陣営の違いこそあれど、こぞって月を目指したあの時のように。
もちろん、世界の敵たる私は最後には倒されるべき魔王だ。
私は世界を一つに束ねて、そして、死ぬつもりだった。あらゆる罪を背負って、地獄に落ちるつもりだった。史上最悪の虐殺者として歴史に名を残すつもりだった。過去を取り戻せるのなら、どんな汚れ役でも務めるつもりだった。
そのために何百年もかけて準備してきたんだ。
だがそんなときに気まぐれで星海を拾ってしまった。流石に星海まで世界の敵にするわけにはいかない。だから私は出来るだけの教育を星海に施し、一人で生きていけるように育て上げようと思った。
星海は、可愛かったよ。
最初こそ私に敵意を向けていたが、ご飯を作ってあげたり、温かいお風呂に入れてあげたり、可愛い衣服を与えてあげれば、すぐに私になついてくれた。一緒のベッドで眠ったりもした。幸せな時間だった。今でもそう思う。
ある日、星海は照れくさそうに私を「お母さん」と呼んだ。私は三千年生きてきたが、体がこうだからな。子供なんて一人もいなかった。誰かの親になるというのは初めての経験だった。でも悪い気はしなかった。
だが幸せな時間はあっという間に過ぎていった。着実に星海の独り立ちの日は近づいてくる。私は星海が十八歳になればここから追い出して、たった一人「世界の敵」になるつもりだった。過去を取り戻すために、滅ぼし、滅ぼされるつもりだった。
……でも星海は本当に優秀な子だったよ。私が何をしようとしているのか、気付いていた。
十八歳になった日、星海は涙を流しながら、私を止めようとした。星海は私がどれほど旧時代を愛しているのか分かっていた。だからこそ、その言葉が、間違いなく私から希望を奪うだろうことを理解していた。
「お母さん。私と一緒に生きてっ……」
その頃になると私も、もうすっかり星海にほだされていたんだ。愛娘の言葉に逆らえるわけがなかった。だが願いを叶えるわけにもいかなかった。
なぜなら私はあらゆる国、そして組織から脅威だとみなされている。私が何のためにこの要塞を作り上げたのかは、明白だった。世界と戦争をするためだ。私と共に過ごす限り、星海は普通の人生を歩めない。この狭い世界で一生を過ごすことになる。
だから私は星海を追い出すことにした。
これからもずっと世界の敵にはならない。そう、指切りをして。
それから私は完全に星海との関係を絶った。私と関係が続いていると知られたのなら、星海が面倒ごとに巻き込まれるのは明らかだった。だがそれは間違いだった。私はどんな手を尽くしてでも、君たちを守ってあげるべきだった。
君の父はテロで命を落とし、姉もメシアによってさらわれ、世界の救済を強いられた。……私は、なにも守れなかった。愛娘に普通の幸せな人生を与えてやることもできず、ただ君たちを苦しめただけだった。
私は母親失格だ。おばあちゃん失格だ。
〇 〇 〇 〇
師匠は……。おばあちゃんはその小さな体を震わせて、ぼろぼろと涙を流していた。私はそっと手を伸ばして頭を撫でる。
「泣かないで。おばあちゃん」
「……違う。私にそんな呼び方をしてもらう資格はないんだ」
きっとおばあちゃんは、シロさんでもなく、師匠でもなく、私におばあちゃんと呼んでもらいたかったのだろう。でもおばあちゃんは私たちを守れなかったことに罪の意識を感じている。
「おばあちゃん」
私は優しくおばあちゃんを抱きしめた。おばあちゃんは確かに私たちを守ってくれなかった。けどそれは私たちに普通の人生を歩んでほしかったからだ。
誰も、おばあちゃんを責めない。
「大丈夫だよ。おばあちゃん」
背中を撫でてあげるたび、これまで我慢していたのであろう悲しみが、おばあちゃんの小さな体から溢れ出してくる。おばあちゃんが落ち着くまで私はずっとその体を抱きしめ続けた。
やがて泣き止んだおばあちゃんは赤くなった目元で、遠くを見つめている。
「
おばあちゃんはうつむいて、表情をこわばらせた。
でもお母さんは逃げる先として一番におばあちゃんの要塞を選んだ。それだけおばあちゃんのことをずっと考えていたということだ。信じていたということだ。恨みはしているかもしれない。でも、それだけではないはず。
「大丈夫だよ。おばあちゃん。お母さんはきっとおばあちゃんのこと、好きだったと思うよ? 今は記憶なくしちゃってるけど……」
「……ありがとう。でも私が母親であることを、あの子に伝えるべきではないと思う。守れなかった癖に母親面できるほど、私も面の皮は厚くないんだ」
おばあちゃんは自嘲的な笑みを浮かべた。
「おばあちゃん……」
母親だなんて名乗ってもいいのか、分からなくなるのは理解できる。けれど過去がどうであれ親子の関係すらも否定してしまうなんて。ただの師弟になるなんて……。私は二人に親子であってほしい。
「おばあちゃん。私はおばあちゃんに、お母さんのお母さんでいて欲しい」
「……」
おばあちゃんは私から目をそらした。でも私はじっとおばあちゃんの青い瞳をみつめる。
「……私は知ってる。これまでの辛い人生の中で、お母さんの愛がどれだけ私を救ってくれたか。それは記憶喪失でおばあちゃんがお母さんだって分からなくても変わらないと思うんだ。だからおばあちゃん。お母さんを、お母さんとして愛してあげて欲しい」
おばあちゃんはうるんだ瞳で私をみつめた。それでもその場から動けないようだった。でもきっとおばあちゃんが望んでいることは、この医務室の扉の先にある。私はそっとおばあちゃんの小さな手を掴んだ。
「一緒に伝えよう? 私もそばにいるから」
おばあちゃんは今にも泣いてしまいそうだった。けれど私が孫なうえに弟子だからか、必死でこらえているみたいだった。そのままの表情でこくりと小さく頷いてくれる。
「……そうだな。ありがとう。
医務室の扉を開く。二人で部屋に入ると、お母さんはやっぱり静かに小説を読んでいた。
「星海」
「……なんですか?」
お母さんは他人行儀な視線をおばあちゃんに向けている。おばあちゃんは勇気が出せないみたいだった。さっきから口を開いては、力なく閉じている。私はぎゅっとおばあちゃんの手を握った。
「おばあちゃん」
「……」
おばあちゃんは大きく深呼吸をしてから、お母さんに告げる。
「さっきは師匠だと言ったが、……私は君の母でもある」
「……えっ!?」
お母さんはとても驚いていた。おばあちゃんの見た目は色白の可愛い幼女だ。とても三千歳にはみえない。
「嫌なら受け入れてくれなくてもいい。……ただ、これだけは知っておいて欲しいんだ。私は君を、……星海を今も愛している」
それだけ言い終えると、おばあちゃんは逃げるように医務室から飛び出していった。これ以上反応を見るのが怖かったのだろう。でも一歩進んでくれて本当によかった。
お母さんも混乱しているみたいだけど、それでも少しはおばあちゃんのことを分かってくれたはずだ。おばあちゃんの愛を、知ってくれたはずだ。
そっと自分のベッドに戻る。私も変わってしまったお母さんから逃げようとしていた。けれど逃げてはいけないと思う。おばあちゃんが頑張って向き合ったように、私もお母さんに向き合わないといけない。
手元の端末が震えるから確認してみると、メッセージが届いていた。
『言い忘れていたが、普段はおばあちゃん呼びでいい。だが訓練の時は師匠と呼んでくれると嬉しい。……おばあちゃんだとどうしても甘やかしてしまいそうになるんだ。私は本当に、日葵のことも大切に思っている』
私は小さく微笑んでからお母さんに視線を向ける。
「お母さん。またよろしくね」
お母さんは私と目が合うと、怯えたように目をそらしていた。そのびくびくした態度は、やっぱり記憶の喪失だけが理由ではないように思えた。
……もしかしてこれが本来のお母さんの性格なのだろうか。これまでみていた強いお母さんは、全て私たちのために生み出した仮面だったのだろうか。
お父さんがテロで死んだときも、お姉ちゃんがいなくなったときも、メシアから逃げる時も、いつだってお母さんは強くあろうとしていた。
……記憶を全て失った先にあるのが、きっとありのままの姿だと思う。心が苦しかった。私を不安にさせないために強がっていたとするのなら、私がお母さんに強くあることを強いていたということで。
決してその努力を否定するわけではない。けれど少しくらいは私の前でも弱い所をみせて欲しかったなと思う。……だから、やがてお母さんが記憶を取り戻したら、私は伝えないといけない。
「これまで私たちのために頑張ってくれて、ありがとう」と。
そして「ずっと強がらせてしまって、ごめんなさい」とも。
私はもう一度、勇気を出して声をかける。
「……お母さん」
「……な、なんですか?」
声をかけると、体をびくりと震わせていた。私の「お母さん」という呼び方をまるで受け入れられていないみたいだった。私は肩を落としながら問いかける。
「……もしかして、お母さんって呼ばないほうがいい?」
するとお母さんはうつむきながらも応えてくれた。
「……ごめんなさい。その、やっぱり実感が湧かないんです。誰かの母親だなんて。あ、ごめんなさい。
「気にしなくていいよ。抵抗があるのなら
「……はい」
お母さんはか細い声で頷いた。
お母さんは見た目が若いから、私と姉妹に間違えられることもよくあった。もっともその頼りになる堂々とした性格で、それが間違いだとみんなすぐに気付いていたけれど。
でも今の様子をみれば誰も私たちが親子だなんて気付けないだろう。私が姉で、お母さんが妹だと思う人もいるかもしれない。それくらい、お母さんは頼りなかった。
「その小説、面白かった?」
私が問いかけると、お母さんは小説の表紙に目を落とした。
題名をみるも私の知らない小説だ。
「……面白い、とはちょっと違いますけど興味深かったです。……なんと説明したらいいんでしょうか。ロボットと人間の話なんですけど、人間みたいなロボットが出てくるんです。主人公はそのロボットを狩るのを生業にしていて……」
お母さんは少しずつ、自分の気持ちを言葉にしていった。どうやら小説のことについて話すのには抵抗はないみたいだ。
よほど感銘を受けたらしい。お母さんの話は難しい内容が多かったけれど、その楽し気な表情をみていると私まで楽しい気分になってくる。
「……というわけで、人は共感を求めていて、それを感じられるものなら例え相手がロボットでも人間と同質であるとみなしてしまう……。だからこそただ「機械を壊す」だけなのに悩み苦しむ。……多分ですけど、これは昔の人々の理想を反映したものだと思うんです。憎しみではなく、……愛によって救われて欲しい。例え機械相手であっても、大きな違いがあったとしてもそれでも愛によって融和して欲しい。そんな願いがあったんだって、思いました」
最後まで言い切ると、お母さんは満足げに息をついた。きっと現代社会の状況を知れば、失望するんだろうな。お母さんは。
でも私にたくさん話してくれて嬉しかった。私は思わず微笑んでしまう。それに気付いたのか、お母さんは顔を真っ赤にして小説で表情を隠してしまった。
「そんなに熱心に語ってくれるなんて、その小説面白かったんだね。たくさん話してくれてありがとう。星海さん」
「……その、面白かったですけど、一番よかったのは、感想をあなたに、……日葵さんに聞いてもらえたことですっ」
お母さんは顔を隠したままそんなことをつげる。
「……私、記憶を失って、なんだか自分が完全に一人になってしまったような、そんな気がしてたんです。自分のことすらも分からなくて、娘のことも、母のことも忘れてしまって。あなたとの関係がどうだったのかも分からなくて。仲が良かったんだっていう、実感もなくて」
小説をわずかにずらして、お母さんは目元だけ露わにする。視線は私ではなく、よそを向いていた。赤い頬がわずかにみえている。
「……だから、私の感想を黙って聞いてくれる。それが嬉しかったんです。だってこんな読んだこともないだろう小説の、私の退屈な感想を聞いてくれるって、それだけ私のことを大切にしてくれてるって、そういうことですよね? ……その関係性の証明をくれたのが、嬉しかった。……そういう、ことです。……長い時間喋って、ごめんなさい。……お母さんって呼び方に応えられなくて、ごめんなさい」
しりすぼみに声が小さくなっていった。私は「おどおどするお母さん、滅茶苦茶可愛いな?」なんて思いながら話を聞いていた。まぁもともとお母さん、美人だもんね。流石お姉ちゃんのお母さんなだけはある。
気付けば私の表情は自分でも分かるほどに、ほころんでいた。お母さんが口を閉ざした後、車いすに乗ってお母さんのベッドの隣まで移動する。
「まだ実感はないかもしれないけど、私は本当に星海さんのこと大切に思ってるよ。これまでのことは忘れちゃったけど、これからもよろしくね」
お母さんは私が差し出した手を、顔を真っ赤にしてみつめている。けれど最後には恥ずかしそうではあるけれど握ってくれた。
「……よろしくお願いします。日葵さん」
目線をそらしながらの、それでもきっと心からであろうまぶしい笑顔だった。
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