第4話 もしも明日世界が滅びるのなら
夕食を終えると、お風呂の時間だ。私は一人でお風呂に入ろうとしたのだけれど、お母さんに「
気のせい、だと思うけど。
それからは結局お母さんの押しに負けて、私とお姉ちゃんは一緒にお風呂に入ることになってしまった。お姉ちゃんは三年前よりも成長していたし、凄く引き締まっていた。だからついつい目を向けてしまいそうになる。
必死で我慢していると、湯船の向かいからお姉ちゃんが声をかけてきた。
「ねぇ。
「うん」
「もしも自分を犠牲にするだけで、人類を救えるのだとしたらどうする?」
なんだか突飛なことを聞かれたので、答えに詰まる。
「……人類を救う? なにから?」
「なにからでもいいよ。宇宙人からでも、ウイルスからでも。あるいは、人類自身からでも。とにかくなんでも」
人類とか言われてもいまいち現実味がない。それにこの世界の人類なんて、どうしようもない人が多い。長年世界中で戦争をしてるし、勝手に牛肉を「世界で一番おいしい肉」に変えたり、ひまわりや青空や桜を消滅させてしまうのだから。
仮に自分を犠牲にするのだとすれば、それは何十億人の為ではなく、きっと大切に思う数人の為なのだろう。別に私の交友範囲が狭いとかではなくて、……まぁ実際狭いんだけど。でも友達が多い人でもせいぜい二ケタ止まりだと思う。
そしてその中でさらに、自分の身を投じてでも救いたい、だなんて思う人は一桁かあるいは0か。幸いにも私には命を懸けてでも救いたい人が、二人いる。
「その人類の中には、お姉ちゃんとかお母さんとかもいるの?」
「そうだね。悪い人も良い人も全員」
「……だったら怖いけど、自分を犠牲にすると思う。でもそれは世界のためじゃなくて、お姉ちゃんやお母さんのためだよ。英雄願望なんて、私にはないから」
「そっか。じゃあもう一つ聞くんだけど私やお母さんが「日葵が犠牲にならないと滅んでしまう世界なんていらない!」なんて叫ぶロマンチストだったらどうする?」
「……。お姉ちゃんは世界と私を天秤にかけたら、私を選んでくれるの?」
ぼそりと問いかけると、お姉ちゃんは笑った。
「もちろん。日葵のいない世界なんていらないよ。滅んでしまえばいい」
そういえばお姉ちゃんは電車の中で「日葵のためなら世界だって滅ぼしてみせる」みたいなことを言ってた気がする。滅んでしまえばいい、と滅ぼしてみせる。同じような文面だけど、受動と能動では大きく意味が違うと思う。
でもどちらにせよ、お姉ちゃんの愛はかなり重い。なんだか恥ずかしいけど、嬉しくて。少し不思議な気持ちだ。私は口元を緩めた。
「お姉ちゃんって、私のこと大好きなんだね」
「う、うん。大好きだよ」
なんだかお姉ちゃんの頬が赤い気がする。
ちょっと、恥ずかしいこと言っちゃったかな。私の顔も熱くなった。
「……私も、お姉ちゃんと似たような感じだと思う」
小さく波打つお湯をみつめながら、私はささやいた。
「私が生きるのは、私のためじゃなくて」
口を開けば、本当にその通りだと思う。特にお姉ちゃんがいなくなってからの三年間は、お母さんのためにだけ生きていた。私だけなら、このどうしようもない世界で生きる理由を失っていただろう。
「……私が生きることを望んでくれている、大切な誰かのため。その誰かがいないのなら、私は生きることを諦めるし、その誰かのためなら命を捨てることだってできる。例えその人たちが、私のいない世界に意味なんて感じていないとしても」
お姉ちゃんは悩まし気な表情でつげる。
「日葵のいない世界が、意味がないどころか私たちにとって生き地獄だとしても?」
「……そう言われると、ちょっと迷うかも。自分を犠牲にすれば大切な人を傷付けることになって、自分を犠牲にしなければ大切な人の命を奪うことになるってことでしょ? どちらにしても大切な人は苦しい目にあう……。んー」
しばらく唸り声をあげて考えてみるも、やっぱり答えは浮かびそうになかった。
「……どっちも選べないね」
「……そっか」
「でもそんな状況訪れることないよね? この世界が滅びるって。世界で戦争が始まって長い時間が経過してもみんな生きてるくらい人はたくましいのに。ましてやそんな、人類の存亡がたった一人の命と天秤にかけられるなんてあり得ないよ」
現実的にあり得ない状況なんだから、答えを出せるわけもない。けれど一つ分かることもある。
「でももしも仮に明日世界が滅びるのなら、私は絶対、好きな人に告白する」
「……好きな、人?」
どうしてかお姉ちゃんが今にも泣き出しそうな顔になっている。目がとてもうるうるしていて、右目のスカイアイが普段にもまして美しくみえた。
白い湯気が湯船から昇っていく。
「そ、そっか。日葵もお年頃だもんね。好きな人の一人や二人くらいいるかぁ……」
「……二人はいないよ」
二人って。お姉ちゃんは私を何だと思ってるんだ。
私は見ての通り一途だ。まだ小さいころからずっとお姉ちゃんに恋している。なのにお姉ちゃんはいつまでたっても気付いてくれない。
気付いてもらったところで、恋が実るとは思えないけど。
……ここまで考えて気付いたけど、どうせ振られるのならやっぱり告白なんてしないかもしれない。好きな人に振られる、なんて最悪な状態で世界の終わりを迎えたくはないから。
お姉ちゃんが上目遣いで問いかけてくる。
「えっと、日葵はさ、どんな人が好きなの?」
「優しくて、可愛くて、頼りになって、でも一人で抱え込みがちで……」
「もしかしてそれって好きなタイプじゃなくて、今恋してる相手の特徴……?」
またしてもお姉ちゃんのわずかに赤みがかった黒目がうるうるしている。今にも泣きだしてしまいそうな表情だ。
「そ、そっか。もう心に決めてる人がいるんだね……」
「お姉ちゃんこそいないの? 好きな人。その秘密結社の中とか」
お姉ちゃんは「ないない」と首を横に振った。
「あの人たちは色々と覚悟決まってるから怖いんだ。人間味がないというか。人類のためなら何もかも犠牲にします、みたいなさ。人類よりも大切な人を優先する、みたいなのがないんだよね」
なるほど。高尚というかなんというか。流石「世界を救おう」なんて高い志を持つ組織なだけはある。私のような一般人には難しいかもしれない。けれどお姉ちゃんの隣を歩くためには、目指さなければならない場所だ。
「それにさ、私にも、心に決めた人がいるから」
「えっ?」
お姉ちゃんは三年間、秘密結社で生きてきた。普通ならその心に決めた相手は、秘密結社の人間だと思うけど、そこに好きな人はいない、なんて言った。
「……誰?」
「もう。教えるわけないでしょ?」
お姉ちゃんはほんのり顔を赤くして、私から目をそらした。お姉ちゃんに恋するものとしてはどうしようもなく、気になる。でもいくら問いかけても、お姉ちゃんは答えてくれなかった。
だから私はふざけたふりをして、ぐいっと顔を近づけた。
「……もしかして、私?」
その瞬間、お姉ちゃんの顔は真っ赤になってしまった。
「そ、そんなわけないでしょ! この馬鹿妹!」
湯船のお湯をばしゃりと私にかけたかと思うと、お姉ちゃんは明らかに取り乱した様子で浴室を飛び出して行ってしまった。
湯船のお湯が波打ち音を立てる。
一人浴室に残された私の心臓が、やけにうるさかった。
お風呂から上がった後、私たち三人は三年間の空白を埋め合わせるように、色々なことを語り合った。やっぱりお姉ちゃんは秘密結社のことは話さなかったけれど、それでも私たちの話を聞いて悲しそうにしたり嬉しそうにしたりしていた。
時間はあっという間に過ぎてゆき、眠る時間になった。三年前、お姉ちゃんがいなくなるまでの日常みたいに、私はお姉ちゃんと同じベッドに入った。暗闇の中で目を閉じてみるけれど、それでも興奮は冷めやらない。
好きな人が隣にいるというのもそうだし、今日あったことを思い出すとどうにも眠気が湧かない。あの時はテロリストを倒すのに必死だったから大して考えもしなかったけれど、焼け焦げて死んでいた人たちにも家族がいるはずで。
残された家族がどれほど辛い気持ちを味わうか、私たちは知っている。
お姉ちゃんは私に問いかけた。もしも自分が犠牲になることで、世界と大切な人を救うことができるなら、どうする? と。
大切な人を失うのは地獄だから、そんな世界なら滅んでしまえばいい。そういう残された人たちの気持ちもよく分かる。
けれど、それでも私はやっぱり自分を犠牲にすると思う。
この世界は辛い場所だ。国々は睨み合い、調和することなく。同じ国の人間ですらも傷つけあう。大切な景色を失い、人も失い、この世界に絶望する人も少なくない。
それでも生きているかぎり、私たちは幸せになれる可能性を持っている。
今日の、私のように。
隣で眠るお姉ちゃんの寝顔をみつめる。お姉ちゃんは心から幸せそうな寝顔で、すやすやと寝息を立てていた。人を殺すことなんかと縁があるようには、とても見えない。
……でも、できるだけ考えないようにしていたけれど、やっぱりお姉ちゃんは世界を股にかける秘密結社の人間なのだ。電車の中での迷いのない、きびきびとした射撃。あれは素人のものではない。
スカイアイ、なんて人知を超えた瞳を右目に与えられて。きっと他にもたくさん一般人が知ってはいけないことを、お姉ちゃんは知ってしまったのだろう。
こんな穏やかな日々がいつまで続くのかは分からない。もしかすると明日にでも、幸せは壊れてしまうのかもしれない。
でもそれでも今この瞬間の幸せは本物なのだ。全ての過去が悲しみで満ちていたとしても、近い未来に途方もない不幸にさいなまれるとしても、今この瞬間は決して揺らいだりなんてしない。
温かな幸せの価値は、絶対に揺らがない。
だから私は。
もしも世界が滅びるなんて状況に立たされたら。
少しくらいは迷うかもしれないけれど、怖くて泣いてしまうかもしれないけど、……それでも結局は自分を犠牲にすると思う。
二人がいつか、また心から笑い合えることを祈って。
〇 〇 〇 〇
それは夢だった。私は真っ白な世界にいた。
「この世界は、もうすぐ崩壊するんだって」
その女の人は、お姉ちゃんだった。お姉ちゃんは今にも泣き出しそうな表情をしている。慰めたくて手を伸ばそうとするけれど、動けなかった。
「私はお母さんにも、
私が、世界を救ってみせる。
その一言を境に、お姉ちゃんの存在がこの空間から失われていく。輪郭はぼやけ、体も半透明になり、気付けば私の頭の中からも目の前にいるのが誰なのか。記憶が失われていた。
「さようなら。日葵」
〇 〇 〇 〇
私は文字通り飛び起きた。息が荒くて胸が苦しくて、大量の汗が流れ落ちている。
なにか、とても悪い夢を見たような気がした。夢の内容は覚えていないけれど、今すぐにお姉ちゃんを抱きしめたい気持ちだった。でも、隣をみてもお姉ちゃんはいなかった。
私は大慌てで寝室を飛び出した。なぜここまで焦っているのか、自分にもわからなかった。ただ、お姉ちゃんをみつけないと永遠に取り返しのつかないことになる。そんな気がしていた。
家の中を探し回るも、お姉ちゃんはいない。私は玄関の扉を開けて、家を飛び出した。そこには白い月の光を浴びた、美しい人がいた。お姉ちゃんのはずなのに、どうしてか私の知っているお姉ちゃんな気がしない。
まるで私と永遠の距離を隔ててしまったような。隣を歩くという夢が、もう二度と叶わないような。そんな奇妙な確信を得てしまって、私は飛びつくようにしてお姉ちゃんに抱き着いた。
「おぉっと。日葵? どうしたの」
でもその声はいつものお姉ちゃんの声だった。恐る恐る見上げると、さっきまでのが嘘みたいに、やっぱり私の知っているお姉ちゃんだ。可愛くて、優しい。私の初恋の人。
「起きたらお姉ちゃんがいないから、怖くなって……」
「日葵は甘えん坊だね。大丈夫だよ。もう、いなくならないから」
「……本当に?」
上目遣いでみつめると、お姉ちゃんは恥ずかしそうに目をそらしながら、頭を撫でてくれた。月の光がまぶしくて、私は目を細める。
「……お姉ちゃん。外で何してたの?」
「ちょっと月をみてた」
お姉ちゃんの視線の先にある月を、私も見つめる。理由の分からない恐怖に心を支配されていても、それでも私の口からは自然とその言葉が出てきた。
「……月って綺麗だよね」
感じたままのことを私がつぶやくと、どうしてかお姉ちゃんは顔を真っ赤にしていた。
「お姉ちゃん。どうしたの? 熱でもあるの?」
「ううん。その……。思い出しちゃってさ。……大昔。千年以上前の時代にそういう表現があったことを」
「もしかして『月が綺麗ですね?』」
私が口にすると、お姉ちゃんはますます赤くなってしまう。
「も、もしかして意味知ってるの?」
「ううん。知らないよ。そういえば古典でそんな言葉学んだなぁって。お姉ちゃんは知ってるの?」
「……」
お姉ちゃんは黙り込んだかと思うと、大きく深呼吸を始めた。その表情はあからさまに緊張していた。なんだか私までドキドキしてくる。
だって、まるで告白するみたいな表情だったから。
「あなたを、愛しています」
「……えっ」
時が止まった。お姉ちゃんの瞳が真っすぐに私を射抜く。もしかして、本当に私に告白してるの? なんて、そんな馬鹿みたいなことを考えてしまいそうになるほどには、お姉ちゃんの表情は真剣で。
「えっと……」
だからこそ、言葉が出なかった。顔が急激に熱をもつ。肌寒い夜なのに、全身が火照る。黙り込んでいると、お姉ちゃんの顔が近づいてきた。
「お、お姉ちゃん!?」
もしかしてキス、されちゃうのかな……。私は慌ててぎゅっと目を閉じる。けれど、いつまでたってもお姉ちゃんの唇は、私の唇には触れてくれなかった。そっと目を開けると、お姉ちゃんは私から顔を遠ざけていた。なんともなさそうな顔をしている。
……なんだか、馬鹿みたいだ。
私だけこんなにドキドキして。
「お姉ちゃんのばか」
唇を尖らせながら非難の声をあげていると、お姉ちゃんはまた月を見上げた。
そして不意にこんなことをつげた。
「近い未来、私はこの世界全てから忘れられる。もちろん、お母さんや日葵からも。そしてたった一人、この世界を繋ぎ止めるための
冗談、だと思いたかった。でもお姉ちゃんは今にも泣き出しそうな顔をしている。お姉ちゃんってロマンチストなんだね、なんて茶化すことはできなかった。
私は真っすぐお姉ちゃんをみつめる。
「……一緒に逃げるよ。例え世界の全てを敵に回したとしても。私だけじゃない。きっとお母さんだって、同じ選択をする」
「私を守れば、世界が滅んじゃうとしても?」
「滅んじゃえばいいよ。そんな世界」
私がお姉ちゃんなら、犠牲になっていたと思う。でも私は自分勝手なのだ。自分が犠牲になることは許せても、大切な人が、お姉ちゃんが犠牲になるなんて絶対に認められない。お姉ちゃんが本当にそういう立場にあるというのなら、私は絶対に。絶対にお姉ちゃんが犠牲になるなんて許さない。
お姉ちゃんが自分の犠牲を受け入れていたとしても、絶対に。
私は真っすぐお姉ちゃんに向き合った。そっと頬に手を当てて、間近からその瞳をみつめる。その瞬間、お姉ちゃんの頬は真っ赤に染まった。
「お姉ちゃん」
「……日葵?」
「私ね、お姉ちゃんのことずっと好きだったよ。お姉ちゃんとしても、……一人の女の子としても」
私がささやいた瞬間に、まぶたが大きく見開かれる。氷の結晶のようなスカイアイが右目に浮かんでいるのが良くみえた。これがお姉ちゃんを非日常に縛り付けている全ての象徴だというのなら、私は、妹として、……そしてお姉ちゃんに恋をする一人の女として、お姉ちゃんを日常に引き戻してみせる。
その手段は、極めて単純だ。右目のスカイアイを消す方法なんて知らない。だからそれを塗り潰してしまうほどの強い愛情をぶつける。世間では歪だと思われるものかもしれないけれど、私の心の中で長い時間くすぶっていた気持ちだ。こんなことにならなければ、一生伝えなかったかもしれない気持ちなのだ。
お姉ちゃんがどんな返答をするのかなんて分からない。お風呂でのあの反応だって、私が都合よく解釈しただけかもしれない。
だけど今のお姉ちゃんは、色々なものに縛られている。それを解き放つにはただ「妹」としての愛だけでは全く足りない。世界が滅んでもいい。それだけの重い感情を私が抱えている。その根拠を伝えるには、これしかないのだ。
そっとお姉ちゃんに顔を近づける。お姉ちゃんは逃げなかった。恥ずかしそうに視線をさまよわせたかと思うと、じっと私をみつめて、そのまぶたで氷の結晶のようなスカイアイを覆い隠してくれたのだ。
私はそっと震える唇に触れた。柔らかくて、温かくて、愛おしくて。世界とか、滅亡とか、人類とか、そんなの知るもんか、ってなおさら強く思えてくる。
私はただ、お姉ちゃんのそばにいられるのなら、それだけでいいのだ。
そっと唇を離す。名残惜しそうにお姉ちゃんは瞼を開いた。私はぎゅっとお姉ちゃんを抱きしめて、その耳元でささやく。
「私、お姉ちゃんのこと、好きだよ。お姉ちゃんが犠牲になるのなら、世界だって滅んでしまえばいいって思ってる。だから、話してほしい。もしもお姉ちゃんが大きなものを抱えているのなら、分けて欲しい。お姉ちゃんと同じものを背負う覚悟が私にはあるから。お姉ちゃんの隣を歩くためなら、なんだってする」
お姉ちゃんは今にも泣いてしまいそうな震える声で、つぶやいた。
「私も大好きだよ。日葵。本当に、大好きなんだよ。でもだからこそ、話せないんだよ。知れば、きっと
お姉ちゃんは嗚咽を漏らして小さく震えていた。私はそっとその小さな背中を撫でてあげる。お姉ちゃんはずっと強くあろうとしていた。一人で全てを抱え込もうとしていた。それは私たちのためだ。優しさゆえだ。
でもそんなの、私は絶対に許さない。無償の愛だとかいうけれど、一方的に与えたままいなくなるなんて、それはただのエゴイストだ。私にも返させてほしい。私たちの優しさにだって、寄りかかって欲しい。頼りないかもしれないけれど、忘れないで欲しいのだ。
私はお姉ちゃんの妹で、お姉ちゃんも私のお姉ちゃんだってことを。
「お姉ちゃんだけで抱えないで。私はお姉ちゃんの隣を歩きたいの。もう一人でいなくなって欲しくないの! もしいなくなるとしても、一緒がいいんだよ」
私は真っすぐお姉ちゃんをみつめる。お姉ちゃんは私たちのことを大切に思っている。けれど私だってお姉ちゃんのこと、本気で大切に思ってる。
「だって私、お姉ちゃんのこと大好きだから。キスだってたくさんしたいし、……そういうことだっていつかはしてみたいし、ずっと死ぬまで一緒にいたいんだよっ」
私はもう一度、お姉ちゃんの唇に触れた。月明かりに照らされた頬を、光るしずくが零れ落ちていく。こらえなくてもいいんだよ。本当の気持ちを話してくれていいんだよ。お姉ちゃんは高潔な英雄なんかじゃない。
私のお姉ちゃんなのだ。私たちの家族なのだ。
思いが伝わってくれたのか、お姉ちゃんは涙をぬぐいながら頷いてくれた。
「分かった。でも念のために場所を移そう。目を閉じて」
目を閉じると、ささやくような声が夜の静謐から聞こえてくる。
「……私も日葵のこと、大好きだよ」
柔らかなものが唇に触れた瞬間、私は思わず目を開く。
鼻先で顔を真っ赤にするお姉ちゃんが微笑んでいた。その後ろには青空とひまわり畑が広がっている。太陽もさんさんと輝いていた。私たちは今、お姉ちゃんが一時的にこの世界を上書きして生み出した世界。ノスタルジアにいた。
相変わらず惚れ惚れするほど美しい景色だ。太陽の光と匂いが温かい。真夏みたいに熱くなった私の頬をみて、お姉ちゃんはくすりと笑った。
「いつから私のこと、好きだったの?」
「……ずっとだよ。お姉ちゃん」
私が笑うとお姉ちゃんは恥ずかしそうに微笑んで、ぎゅっと私の手を掴んだ。手を引かれるままに、穏やかに輝くひまわりの間を二人で歩いていく。いつまでもこの非日常みたいな日常に浸って居たかった。これから先、あり得たであろう幸せな毎日を空想していたかった。
けれど私たちの前には向き合わなければならない、冷たい現実がある。
「まず、この世界が滅びる理由を教えて欲しい」
私は浮足立った心を押さえつけて、冷静な声をひねり出した。するとお姉ちゃんも小さく首を横に振ってから、どこまでも真剣な表情に変わった。
「……人の絵画から生まれたイデアが、既存のものを上書きすることがあるのは知ってるよね?」
私は頷く。空が色々な色でつぎはぎになったり、牛肉が「世界で一番おいしい肉」になったり。あるいは自然の美しさを否定するイデア職人が、桜やひまわりなんかをこの世から消してしまったり。
「最近、その頻度が指数関数的に増えてるみたいなんだ。だから秘密結社「メシア」は、このままの調子でイデアの世界への侵食を許せば、全てが秩序を失い、この世が人類にとって意味をなさないものに作りかえられてしまう。そう予想している」
「意味をなさないもの?」
「混沌だよ。例えば神の怒りを買って言葉をばらばらにされたバベルの塔みたいな。人は共通の認識を持ってるでしょ? その認識のおかげでコミュニティを形成できる。けどその認識の対象がころころと書き換えられてしまったら?」
「……よく分からないけど、なんか大変なことになりそうだね」
「まぁそういう認識でいいよ。これも結局一つの例でしかないんだ。イデアが暴走すれば、世界は無数の可能性で滅び得るから」
お姉ちゃんは苦笑いを浮かべて、私の頭を撫でた。世界が滅びる理由はなんとなくわかったけど、でもそんなの、お姉ちゃんにどうにかできるとは思えない。確かにお姉ちゃんは凄い力を持ってるけど、それがどう世界を救うことに寄与するのか分からない。
疑問に思っていると、お姉ちゃんは小さな東屋の長椅子に腰かけた。私もお姉ちゃんの隣に座る。日陰の向こうにはひまわり畑と青空がどこまでも広がっていた。
「……人の自己愛から生み出されるイデアは今も世界を侵食している。けれどね、私がここノスタルジアを生み出している間だけは、この世界を侵食するために余分な力が必要になるからだと思う。……現実への侵食は鈍くなるんだ。もちろんこの世界を構成しているのは青空とひまわりと鳥とミツバチと……。とにかく、現実に比べてはるかに規模は小さい。だから大きな川に小さな石ころを一つ置いた程度にしか、侵食の流れには影響を与えない。でも、もしも石ころのサイズを川を塞ぐほど大きくしたら?」
流れはせき止められる。つまり、世界の崩壊は防がれる? いやでもせき止めた流れはどこに向かうのだろう? それに流れはやがてノスタルジアという世界を削り取り、破壊するはずだ。
私はひまわり畑の上に浮かぶ青空に目を向ける。既に大きなひびが入っていた。
「疑問に思うよね。そんな単純なことで世界は救われてもいいのかって。もちろん、ことはもう少しだけ複雑だよ。川に巨大な石を置いたからって、それで終わりってわけじゃない。脇にそれてまた新たな流れを生み出そうとするでしょ? その流れをせき止めるために、さらに石がいる。しかもやがては川の流れに浸食されて石は破壊されるだろうから、その度に新しい石を補充してやらないといけない」
お姉ちゃんは悲し気に笑った。
「私の生み出した世界が侵食されるたびに、また新しく世界を作って、脇にそれた侵食の流れを止めるために、また世界を作らないといけない。それを、無限に繰り返す。でもいくらこのスカイアイが世界への影響力を増やしてくれるとはいえ、限界がある」
お姉ちゃんは右目の氷の結晶のような青い幾何学模様を指さす。
「メシアに所属した時、スカイアイを与えてもらった。訓練もしてもらった。その代わりに世界を救うことを承諾したんだ。そのときに、もう一つ約束をした。一日だけ日葵たちの元へ帰ることを許してもらう。そしてこれから先ずっとメシアが日葵たちを守る。その対価に私の左目に「
お姉ちゃんは自分の左目を指さした。綺麗な瞳が私をみつめている。右目とは違って、そこには何の模様も入っていない。
「スカイアイは私の世界への影響力を増やす眼だけど、クリムゾンアイは世界から私への影響力を減らす眼。要するに私の生み出した世界、ノスタルジアの侵食への抵抗を高める瞳だね。……でもそれは、同時に、私という存在が世界に属する全てから希薄になり、やがてはみんなの記憶からも失われることを意味する」
クリムゾンアイ。スカイアイと対になる眼。自分の存在がこの世から消えても、それでも世界を、私たちを守ろうとする。お姉ちゃんは想像以上に大きなものを背負っていたみたいだ。
本当に、お姉ちゃんはばかだ。私の知らないうちに秘密結社のメンバーになって、強すぎる力を手に入れて、世界の命運まで背負って。
あり得ないって分かってる。でももしも私がお姉ちゃんのそばにいられたら、その重荷を少しは私に分けてくれたのかな? 一人で、抱え込まなかったのかな……。
「そんな顔しないで。私が悪いんだよ。私が弱いから。ずっと一人で抱え込んでたら、話さなければ。……きっとお母さんも日葵も、私のこと、気付かないうちに忘れられてたはずなんだよ」
「……本気でそれがいいことだと思ってるの? 大切な人を、気付かないうちに忘れることが?」
私はお姉ちゃんの顔を覗き込む。お姉ちゃんは小さく首を横に振っていた。
「でもメシアの人たちは、私にしか世界を救うことはできないって……。だから私が頑張らないといけなかった。じゃないと世界も、お母さんや日葵だって……」
「救いたいならメシアが勝手に救えばいい。もしもお姉ちゃんでしか救えないっていうのなら、悪いのはお姉ちゃんじゃなくて馬鹿なメシアでしょ?」
「……」
お姉ちゃんはうつむいたまま、黙り込んでいた。本当に、どうしてメシアはお姉ちゃんなんかに世界の存亡を背負わせたのだろう? お姉ちゃんはただの女の子で、私のお姉ちゃんだった。
ただ、それだけだったのに。
「……。お姉ちゃん。私ね、もしもお姉ちゃんの存在がこの世界から消えてしまって、記憶から綺麗さっぱり洗い流されたとしても、絶対にお姉ちゃんを思い出すよ」
「……日葵」
「それで、メシアでも世界でも。相手が何であれ、絶対にお姉ちゃんを取り戻す。だからどっちを選んでもいい。お姉ちゃんがどっちを選ぼうとも、私が絶対に助ける。苦しまなくてもいい。お姉ちゃんが何を選んでも、全ての責任は私が持つから」
本当にできるかは分からない。私には力はなくて、心だって弱いのだから。でも決意は本物だ。私はお姉ちゃんを愛していて、その為なら自分の命だって惜しくはない。
私が言い切ると、お姉ちゃんは唇を震わせながらつぶやいた。
「お願い。……助けて。日葵」
私はそっとお姉ちゃんの頭を撫でた。
「……分かった。助けてあげる」
お姉ちゃんはいつだって「自分が何とかしないといけない」と全てを背負おうとしていた。なのに初めて助けを求めてくれたのだ。
「お姉ちゃんはお母さんの娘で、私のお姉ちゃん。……大切な家族。何があっても守るからね」
私が笑うと、お姉ちゃんは恥ずかしそうに頬を赤らめて、私にキスをした。
顔が一瞬のうちに熱を持つ。でも、……そっか。今はお姉ちゃんなだけじゃなくて、私の恋人だもんね。私はじっとお姉ちゃんをみつめた。
世界を裏から救おうとする。そんな秘密結社に私たち家族が対抗できるかなんて、分からない。もしかすると、あえなく全てを奪われてしまうのかもしれない。
それでも私は逃げない。今度こそ、お姉ちゃんのためなら人だって、世界だって滅ぼす。お姉ちゃんは悲しむかもしれないけど、私はもう、迷わない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます