終末の聖王女と優しい殺し屋

青によし

第1話


 雪がしんしんと降り落ちる音をかき消すように、荒い呼吸と激しい足音が被さる。背後には走り寄る魔獣が一匹。追いつかれたらただではすまない。

 逃げ続ける内に、古城が見えてきた。城壁は崩れており、門がないため門番もいない。城壁の代わりに雪でしっとりと覆われた古城が、ただ静かに鎮座している。


「あそこに、聖王女がいる」


 そのはずだが、あまりにも人の姿が見えないので不安になる。だけれど、ここは街からも遠い辺境の地。駆け込むところなど他にないのだ。

 いてくれよと願いながら、走り続けるのだった。



***



 古城のエントランスに扉を叩く音が響いた。天井が高く吹き抜けになっているので、こだまするように残響が震える。


「まぁ、珍しい。どなたかしらね」


 古い大理石の床に靴音が足早なリズムで刻まれた。白銀の長い髪を揺らし、足首まで覆うワンピースの裾を踏みつけないように細い指で掴み、すらりとした背格好の娘は扉に駆け寄っていく。

 先ほどまで静まりかえっていた古城は、一気に扉の打音と靴音で賑やかになった。


『魔獣に襲われて……た、助けてください』


 扉に駆け寄ると、くぐもった声が聞こえた。迷わず扉を開ける。


「どうぞお入りになって!」

「えっ、躊躇いもなく開けた?」


 来訪者の青年は、何故か目を丸くしていた。

 扉横に立てかけてあった持ち手の長い槍を掴みながら、青年に声をかける。


「魔獣に襲われたのでしょう? まだ近くにいるに違いないわ、早くお入りください」


 彼がどうして驚いているのかは謎だったが、人を襲った魔獣は必ず退治しなければならない。人の血肉の味を覚えた魔獣は、今後見境無しに襲ってしまうからだ。


「私が外に出たら、すぐに扉をしめてくださいね」


 彼の外套の袖を掴み、強引に城内へと引き入れる。


「あ、あなたは?」

「聖王女と呼ばれております。では、私は魔獣を浄化してきますね」


 そう言い残し、長槍を持って走り出す。


 外に出れば、門から走ってきた彼の足跡が雪の上に転々とついていた。その後をさかのぼるように視線を延ばせば、彼を追いかけてきたのか門の外に真っ黒な狼がいる。だが、ただの狼ではない。目は毒々しい赤色で、牙も鋭く長く飛び出ている。なにより、魔力が黒い湯気のようにゆらゆらと全身から立ち上っていた。


「本能で、引き寄せられてしまったのね」


 唸りながらこちらを見る魔獣とにらみ合う。しばしの膠着の後、魔獣は大きく跳躍し襲いかかってきた。長槍を両手で持ち、頭上で回しながら魔獣をはたき落とすように振り下ろす。すると、長槍が当たった瞬間、魔獣はあっけなく黒い霧状になって消え失せた。


 白銀の髪を寒風になびかせ、長槍を片手に魔獣の消滅を見送る。彼女こそ歴代最強と名高い聖王女、ハルティア・ブリュンヒルドであった。



***



 ブリュンヒルド国の第一王女で、聖女の母から譲り受けた魔を浄化する能力を持つ、それがハルティアである。人々は王女かつ聖女であることからハルティアのことを『聖王女』と呼ぶようになり、いつしかそれが肩書きのようになった。


 ハルティアの住む大陸は、魔物の住処である『魔の森』を囲むように四つの人間の国があった。魔を統べる魔王を封印した四人がそれぞれの国の祖となったと伝えられている。


 魔王が封印されても、魔物そのものがいなくなるわけではない。先ほどのような意思疎通の難しい動物のような魔物を魔獣と呼ぶ。会話が成立する高位魔物ならまだしも、魔獣だと野生動物と同じだ。襲ってきたら退治するしかない。そのため、ハルティアは魔の森から侵入してくる魔物を退治するため、王に命じられて魔の森をのぞむ古城にいた。危険なので使用人はばあや一人だけ。つまり、二人きりでこの古城に暮らしているのだ。


「服を脱いでちょうだい」

「いえ、助けて頂いただけで十分ありがた――え、ちょっと、強引だな、なんだこの人」


 来訪者から血の香りがするのだ。怪我をしているに違いない。この匂いにつられて魔獣が彼を追い回したのだろう。きちんと手当てをしなければまた襲われるだけだ。そう思い、手当てしたいのだが、彼は遠慮して服を脱ごうとしないのだ。だから、無理やり外套を脱がせようと引っ張ったら抵抗されてしまった。


「どうして脱ぐのを抵抗するの。あ、寒いから? もっと暖炉の火を強くしましょうか」

「いえ、暑いくらいですから」


 背はハルティアより頭一つ分ほど高いが細身なため、寒がりなのかと予想したが違うようだ。黒い髪がもっさりと目の上にかかっているが、動く度にちらりと見える目は切れ長で、鼻筋も通っており、全体的に涼やかな面持ちだ。ハルティアより少し年上だろうか、二十代半ばくらいの印象を受ける。


「そうなの? 私は寒がりだから、もう少し温かくても良いくらいだけれど」


 先ほどは上着を羽織る暇もなかったので、内心寒くて震えが止まらなかった。季節が冬というのもあるが、この辺りが特に冷え込む土地なため、昼間でも風が吹くと凍えてしまう。

 だが、ハルティアはめったに来ない客人に格好悪いところを見せたくなくて、やせ我慢をしていた。彼にはすぐ扉を閉めろと伝えたのに、そのままこちらを見ているものだから。仕方なくすました表情を取り繕っていたが、寒すぎて歯がガチガチと鳴っていたくらいである。本当は浄化したら格好など付けてないで、さっさと温かい城内に駆け込みたかったのだ。


「分かりましたよ。自分で脱げますから、ちょっと離れててください」

「素直でよろしい。では私は手当の準備をしてくるわね」


 借りてきた猫のように警戒はしているが、言葉通りに脱ぎ始めたので、ハルティアは客間を出て行く。石造りの古城は冷える。暖炉の熱で暖まっていた客間から一歩出るだけで底冷えするような空気が全身を襲ってきた。

 寒い廊下を進むとリネン類が置いてある部屋に着いた。ここには日常に使うものが置いてある。必要なのは二人分なので、一部屋にまとめてあると楽なのだ。ここで包帯や傷薬を入れた籠を取り出し、客間に戻る途中で傷口を洗う水をくむ。


 ハルティアが戻ると彼は外套を脱ぎ、シャツ姿になっていた。細身かと思いきや、以外と筋肉は付いていたので少し驚く。

 ロキが左の袖をまくると、腕に血が滲むひっかき傷が出来ていた。


「まだ傷口が新しいわね。こんな傷をそのままにしていたら、魔獣に襲ってくれと言っているようなものよ。どうしてこんな場所にいるの?」

「……仕事です」

「大変な仕事ね」

「……え、それだけ?」


 彼は奇妙なものを見るかのように、眉間に皺を寄せている。


「どういう意味かしら。あなた……ええと名前を聞いても?」

「ロキです」

「そう、ロキね。素敵な名前だわ。私はハルティア・ブリュンヒルド、まわりからはブリュンヒルド国の聖王女と呼ばれているわ」


 ロキとは、神話に出てくる悪戯好きな神の名前と同じだ。いろいろ説話はあれど、自由な発想で行動するところが好ましいと思っている。きっと、彼の親もそう願いを込めて名付けたのではないだろうか。


「どんな仕事だとか、危険なことはやめろとか。そういうこと言わないんですね」

「仕事を選べるのは恵まれた人だけだから。一方的にそんな仕事やめなさいって言われても困るでしょう?」


 傷口を洗うために、ロキの手を取る。洗面器の水をゆっくりと傷口に掛けた。慎重に掛けているはずなのに、水が飛び跳ねて辺りを濡らしていく。ロキの視線が水滴を追うので、少し冷や汗が滲んできた。もっと上手く自然な感じで洗えるはずだったのだが。


「……変わった人ですね。王族なら、もっと偉そうなのかと思ってました」

「王族だっていろんな人がいるわ。でも仕事を選べるという意味では、王族ほど恵まれない人達はいないけれど」


 ハルティアは浄化の能力があるから、聖王女として国の守り手を命じられている。もし能力がなければ、政略結婚の駒になっていただろう。力があっても無くても、未来を自分で選べなどしない。

 ただ、結婚そのものに期待などしていない分、こうして聖王女として過ごしている今には満足はしていた。それに、身分の高い家の令嬢は二十歳を過ぎると婚期を逃したと見なされる。もう二十三歳になった自分に今さら縁談が来るとも思えない。きっと聖王女のまま一生を終えるのだろう。


「俺は、配達屋をやっていまして……その、本当は、王族の人に言えないような、少し悪い感じの」


 ロキは少し考え込んだ後、言いにくそうに口を開いた。言いたくないのなら別に無理しなくてもいいのに。ハルティアが己のことを語ったから、自分も語らねばならないと思ったのかもしれない。なんと優しい青年なのだろうかと、ハルティアはほっこりとした気持ちでロキを見つめた。


「配達、どうして悪いの? 立派な仕事じゃないの」

「正規の配達屋じゃないのですよ。正規の値段よりも安くして、代わりに魔の森付近を通ることで、国境ごとの通行税を誤魔化して利益を得てる」


 洗面器のまわりは水浸しになったが、傷口は洗えた。清潔な布でぽんぽんと優しくロキの腕の水を拭き取る。水がこぼれた机は後で拭こうと見て見ぬ振りだ。そして、何食わぬ表情を取り繕って、傷薬の小瓶を手に取った。


「なるほど。確かに『少し悪い感じ』の配達屋ね。でも、職業として成り立つのは理解できるわ」


 そもそも移動するための通行税がとても高いのだ。庶民が他国に手紙を一通送るだけでも、一ヶ月分の給金を払わなければならないと聞く。だから他国からの輸入品は、王族といえどもなかなか手に入らない高級品だ。

 魔の森を通れば国境は関係ない、だが、命の保証もない。それ故に、いくら高額であろうと人々は通行税を払って行き来する。そこに目を付けたのが、この少し悪い感じの配達屋なのだろう。


「あの……開けましょうか?」


 ロキが伺うように申し出てきた。実は小瓶の蓋が開かなくて苦戦していたのだ。平然としゃべりながらも、内心はかなり焦っていた。それを指摘されてしまい、顔がじわっと熱くなる。


「え、えぇ、頼めるかしら」


 ロキに小瓶を手渡すと、くいっと蓋がまわり、すんなり開いてしまった。


「開きました。これ塗り薬ですか、塗ってしまいますね」


 ロキは小瓶の中身を薬指で一掬いした。

「あっ」

 思わず声が出てしまった。

「勝手に塗ってはいけなかったでしょうか」


 ロキが申し訳なさそうに、こちらを見ている。ハルティアは慌てて手を横に振る。


「違うのよ。塗って大丈夫よ。ただ、仕上げの包帯は私が巻くわね」

「は、はぁ」


 ロキは首をひねりながらも、傷薬を塗り始めた。

 変な人だと思われただろうか。さらに冷や汗を滲ませながら、布と包帯を手に取る。


「塗れたようね。じゃあ腕をこちらに伸ばして」


 傷口に清潔な布をあて、それを固定させるために包帯を巻く。言葉にすれば簡単なのだが、実際に巻いてみるとなかなか難しい。というか、とても難しい。まず、布が暴れるのだ、何故だ。ただの布のくせに。


「あのぅ、自分でやりましょうか」

「待って! まだやれるわ。これくらいで諦めたくない」


 傷にあてた布の上に包帯の端を置く。左手で端を押さえながら右手で巻いた状態の包帯をぐるりと腕に沿って回す。ここからが難しい。手は二本しかないから、左手で包帯の塊を受け取らねばならない。だが、そうすると包帯の端の押さえが甘くなって抜けてしまう。おまけにその衝撃で布もずれる。焦るあまり余計に無駄な力が入り、何度やっても一周しか巻けない。

 ロキの呆れたような視線が痛い。ばあやは簡単に巻いていたから、自分だって簡単にできると思っていたのに、こんなに難しいだなんて知らなかった。


「ハルティア様、わたくしめがやりますよ」


 振り向くと背筋の伸びた小柄な老女が立っていた。笑いたいのを我慢しているような、明るい口調だ。


「ばあや! でも、私がやりたいの」

「お気持ちは承知しておりますが、お客人が可哀想です。力一杯腕を握られて痛いでしょうに」


 ばあやの指摘に、血の気がさあっと引いていく。


「ご、ごめんなさい」

「いえ、痛いのには慣れていますから」

「それはそれでどうなの。でも、手当をしようとして痛がらせていては駄目ね。ばあや、お願いするわ」


 ハルティアはロキの横から離れた。入れ替わるようにばあやが包帯を手に取り、ロキの腕に巻いていく。綺麗に隙間なく、なおかつ手早い。あっという間に巻き終わってしまった。


「ありがとうございます。ええと、ばあやさん?」


 ロキが戸惑った様子でお礼を言う。


「いえ、感謝には及びません。わたくしはハルティア様の望むことをお手伝いするだけですから」


 はあやは柔やかに返しながらも、手元は水浸しのテーブルと拭いている。仕事が早い。さすがばあやだわと思いながらも、ハルティアは己のふがいなさに肩を落とす。


「聖王女様、改めて魔物から助けていただき感謝します。手当は驚きましたが、魔物を浄化する姿はとても凜々しくて見惚れてしまいました」


 ロキが立ち上がり、ハルティアの前に来た。

 やはり手当のぎこちなさには呆れられてしまったようだ。聖王女としての印象を崩さないように努めているのだが、どうにも空回ってしまう。


「い、いつもはもっと上手く手当出来るのよ。今日は少し調子が悪かったみたいで申し訳なかったわね」


 言いながらもハルティアの視線は左右に揺れ動く。


「は、はぁ、そうなんですね」

「お客人がお困りになってますから、余計なことを言う口は閉じてくださいまし」


 ばあやに釘を刺され、ハルティアは素直に黙る。ばあやには頭が上がらないのだ。

 すると、ロキがこらえきれないとばかりに笑った。


「す、すみません。不敬ですよね、王族を笑うだなんて」

「いいのですよ。ハルティア様はいつもこのばあやと二人きりですからね。どんな経緯であれ客人が来て嬉しいのですよ」

「では、もしや手当をむきになってやっていたのも、もてなしの一種ですか?」


 ロキが目を見開いてハルティアの方を見た。


「え、あぁ、その、まぁそうね」


 もてなしたい気持ちも嘘ではない。だが、他の理由もあった。むしろそちらの方の比重が大きいくらいだ。だが、ロキにわざわざ言うべきことでもないので、へらりと笑って誤魔化す。


「俺、感動しました。やはり噂通りに聖王女様は素晴らしいお人だ。それなのに、こんな古城に押し込めておくだなんてブリュンヒルド国は酷い扱いをする」

「別に、酷くなんかないわ。ここは魔物の侵入を防ぐのにちょうど良い場所なの」

「でも、側付がばあやさん一人だけだなんて。国のために魔物を退治している聖王女なのだから、もっと大勢の使用人がいて良いはずです。ばあやさんだって一人では大変だろうし」


 確かにばあやに負担を掛けているのは事実だ。でも、ハルティアもばあやも納得して二人でここにいる。


「魔物を退治している危険な場所だから、あまり多くの人を入れたくないのよ」

「ならば魔物に対抗できるような騎士が一人もいないのは何故です? あなただって気を抜けば魔物に襲われるかもしれないのに。助けてくれる人がいないなんておかしい。あなたを正当に扱わないこの国より、もっと待遇の良い国があると思います」


 ロキは優しい。役目を全うして当然の聖王女に対して、純粋に心配する言葉を掛けてくれるなんて。

 性格だけでなく、容姿も前髪が長めなので隠れがちだが、よく見ると整っている。背もハルティアより頭一つ分高く、体格も細身だがしっかりと筋肉がついているのがシャツ越しでも分かる。服装や髪型を変えて微笑めば、多くの女性をとりこにするに違いない。


「ロキは、別の国から来たのね」

「えぇ。他国の人間だからこそ、聖王女様のすごさが分かる。魔物を浄化する力は本物だった。俺の国ならきっと丁重に扱ってくれる。古城に閉じ込めるようなことはしないはずです」

「駄目よ、私はここにいないと。迷惑をかけてしまうから」


 重くなった空気を掻き消すようにばあやが手を叩いた。


「お話はそれくらいにして、お二人とも食事にしませんか。ばあや特製のシチューです、体が温まりますよ」


 小さな窓から外を見れば、もう夕陽が沈みそうだ。


「ロキ、今日は泊まっていくと良いわ」

「そこまでしていただくわけには」

「すぐに真っ暗になってしまうし、手当てしたとはいえ傷が開いたらまた魔物を引き寄せてしまって危ないわ。一晩ゆっくり休んだ方がいいと思うの」

「そうですよ、ロキさん。ハルティア様もこう仰ってますから」


 ハルティアとばあやに引き留めたおかげで、ロキは一晩泊まることになった。

 夜は魔物の力が増す時間だから危険なのだ。しかもこの古城のまわりは、他の地域よりも魔物が多い。泊まらずに出て行けば、ほぼ確実に魔物と遭遇してしまっただろう。だから、少々強引にはなったが、ロキを引き留められて良かった。

 ハルティアは来客用の部屋に案内されるロキの背中を見送りながら、ほっと胸をなで下ろすのだった。



***



 久しぶりにばあや以外と一緒に夕食をとった。ハルティアはこの国から出たことがないので、ロキの配達屋の話はとても興味深かった。通行税を逃れるために、魔の森を沿うようにルートを選択するのだという。魔物以外にも普通に野犬に襲われたり。足下が落ち葉で滑ってしまい、尻餅をついて斜面を降下した話は涙が出るほど笑ってしまった。ロキにとっては恐怖体験だっただろうから、少し申し訳ないことをしたかもしれない。


「明日にはいなくなってしまうのね。またばあやと二人きり」


 寝衣に着替えベッドに入る。寝て起きたら明日になってしまう。もったいなくて、目がさえる。

 ばあやと二人きりが嫌なわけではない。だけれど、やはり客人が来ると楽しい。しかも王家と関係のない人は本当に珍しいのだ。王家の関係者は、聖王女に対しての連絡を預かって来るだけなので、すぐに帰ってしまうから。


 ロキにとっては魔物に襲われて不幸な一日だったかもしれないけれど、ハルティアにとっては楽しい一日だった。もう少し堪能していたいと、そう思っていたのも事実だ。でも、こういう展開は望んでいたわけではない。

 突然、体がベッドに押しつけられた。


「ノックも無しに入室するのは、いかがなものかしら。紳士としては失格よ」


 目を細め、侵入者を見上げた。

 ハルティアの目の前にロキがいる。ノックどころか足音すらもせず、気が付いたらロキが覆い被さっていたのだ。右肩をベッドのシーツに強く押さえつけられていて、簡単に抜け出せそうにない。


「夕食前の話の続きをしに来ました」

「物騒なものを手に持ちながら?」


 ロキの右手には短刀が握られている。研ぎ澄まされているのか、月明かりに刃が煌めいていた。


「あなたと会話してみて、普通に誘ってもこの国から離れると思えなかった」

「だから、脅して国に連れ帰るつもり?」

「お察しの通りです。死にたくなければ、我が国に一緒に来てください」


 ロキの目は醒めきっていた。昼間に浮かべていた表情が嘘だったかのよう。いや、嘘だったのかもしれない。


「嫌だと言ったら?」

「残念ですが殺します。あなたの力は強大すぎて、我が国に恐れて逃げてきた魔物が入り込む」

「ふふ、逃げた魔物がね」


 きっとロキはスヴァーヴァ国の民だろう。四カ国のうちで一番国領に魔物が入り込んでいるから。でも、前提が間違っている。魔物は別に聖王女から逃げてスヴァーヴァ国へ入り込んでいるわけではないのだ。


「笑っている場合ではないでしょう。俺が手を振り下ろしたら、あなたは死ぬ。いくら聖王女とはいえ、身動きのとれないこの状況では俺の方が有利だ」


 ハルティアに脅しなど無意味だ。怖くもない。だって――――


「殺したければ、殺せばいいわ。さぁどうぞ」


 ハルティアはまっすぐにロキを見つめ、笑みを浮かべた。


「は?」


 ロキの醒めきっていた目が動揺したのか大きく開かれる。


 本当は生きていてはいけないのだ。だって、ハルティアを産んだ母は、ハルティアの死を望んだのだから。殺せるなら殺して欲しい。そう思って生きてきた。死ねないから、生きている内は人々の役に立とうと思って魔物を浄化し続けているだけ。死ねるならば、そちらの方がいいし、むしろ積極的に死にたい。


「あなたの国に行くか、死ぬかのどちらかなのでしょう? あなたの国に行くことは出来ないから、答えはもう出ているわ」

「……あんた、酒でも飲んでんのか」


 口調が急にぶっきらぼうになった。きっとこれがロキの普段の話し方なのだろう。


「いいえ、怖くてお酒は飲んだことないわ。もし酔って自我をなくしたら、どんなことが起きるか分からないもの」

「酔ってもいないのなら、本気で殺せばいいと言ってるのかよ」

「ええ、その通り……だけど、やはり少しだけ待ってちょうだい」

「やっぱり命乞いか? 聖王女もただの人間だったってことかよ」


 ただの人間だったらどれほど良かったことか。でも、それを今さら言っていても仕方がない。それよりも、早くしなければ。


「魔物の気配が近づいているわ」


 ハルティアが言ったら、ちょうどよく魔物が遠くで吠えた。


「気配が分かるとか……嘘だろ」


 ロキの信じられないものを見る目が痛い。


「どいて、行かなければ」


 ロキの胸元をドンと押し、ベッドから降りる。そして部屋を出ると、ばあやが槍を持って待っていた。魔物の吠えた鳴き声を聞いてすぐに動いたのだろう。さすがばあやだ。


「ありがとう、ばあや」

「いえ、これくらいしか出来ませんから」


 ばあやから槍を受け取り、ハルティアは走り出した。

 エントランスから扉を開けて外へ出る。ベッドから降りた状態で走ってきたから素足のままだ。地面は一面雪が降り積もっていて、一歩踏み出す度に雪にくるぶしくらいまで埋まる。だが、魔物を見つけることに集中しているせいか、冷たさを感じない。


 目を瞑り、意識を集中させる。すると、左前方に禍々しい気配が動いた。

 ハルティアは槍を構え一振りする。大丈夫、寒いけれどちゃんと体は動く。

 唸り声を上げながら飛びかかってくる魔獣をかわしながら、槍を頭上で回し、その勢いのまま魔獣に叩きつける。まるで肉が焼けるような音とともに、黒い霧のようなものが発生する。魔獣の体が浄化しているのだ。

 一撃のダメージが大きかったのか、魔獣の動きが一気に遅くなった。ハルティアは槍の先を魔獣の喉元に突きつけ、あともう少しで突き刺さるという手前で止める。しばし魔獣を見つめたあと、一気に喉元に突き刺した。

 魔獣は最期の咆哮を上げると動きを止め、槍の刺さったところから黒い霧へと変わっていった。


 魔物が浄化されて跡形もなくなった。

 もういいや、これが最後だと達成を感じつつ、ハルティアは振り向いた。そこにはロキが立っていた。


「さぁ、どうぞ。もう心残りはないわ。殺してちょうだい」

「本気か?」

「もちろん」


 ハルティアは槍を手放し、両手を広げて待つ。夜風が寒い。早くしてくれないと、鼻水が垂れてきそう。この寒さじゃすぐに凍ってしまうだろうけど。死ぬのはやぶさかではないけれど、死体から凍った鼻水が見えているのは少し嫌だから、早く殺して欲しい。


 ロキがきゅ、きゅ、と雪を踏みしめて近づいてくる。心に迷いがあるのか、視線がゆらゆらと揺れている。だが、目の前に来てハルティアの目を見てきたとき、迷いは消えていた。


「ごめん」


 つぶやくような、かすれた、ロキの心から漏れ出たような声。


 あぁ、こちらこそごめんなさいだ。こんな役目、やりたくなかっただろうと思うから。

 ロキは先ほどの短刀を振りかざし、ハルティアの心臓をめがけて振り下ろした。


 ――パキン


 短刀が砕ける音が響く。


「嘘だろ……どうして」


 ロキが砕け落ちた刃を見て唖然としていた。その様子を見て、ハルティアは理由に思い至り、深いため息をつく。


「それは、魔剣かしら?」


 魔力を帯びた剣を魔剣と呼ぶ。魔物が強いのは魔を宿しているからであり、魔剣は魔をまとってただの剣よりも威力が増す。普通であれば武器として格も高く有利だ。

 だが、ハルティアに限っては悪手だった。


「もしかして、魔剣も浄化するっていうのかよ」


 ロキの指摘に、ハルティアは頷く。


「私は浄化の力を持つ聖女だから。魔剣の力よりも私の力が勝っていれば、肌に触れる前に浄化されてしまうわ」

「最強の聖王女っていうのは、本当なんだな」


 ロキが小さく笑いながら、後ろに下がっていく。


「もう、殺すのは止めたの?」


 このままロキは去ってしまうのだろう。せっかく楽しいひとときを過ごせたのに、こんな別れ方なのかと寂しくなる。

 数え切れないほどの魔物を浄化の力で倒してきた。民にはとても喜ばれた。その分、魔物退治で名をはせていた人達からは嫉まれた。賞賛も仕事の対価もハルティアに奪われたのだと。

 そう、ハルティアは魔物だけでなく、人からも何度も殺されそうになっているのだ。だけれど、どんな強い武器を装備してきても、ハルティアの体にかすりもしなかったことに絶望する。殺しに来た人々は表情を無くして去って行き、ハルティアの前に二度と現れなかった。


「また来る。覚悟してろ」


 ロキは信じられない言葉を告げた。そして、放心するハルティアを残し、踵を返して去って行った。


「また、来てくれるんだ」


 ハルティアの口から、白い息と共に期待に満ちた声がこぼれ落ちるのだった。


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