第23話 スローモーション

 男の子が右手に持ったナイフで俺を刺そうとした。

 俺は何が何だか分からず、馬車のルーフから身を乗り出し、両手で男の子の左手をつかんだまま固まっていた。


(えっ!? えっ!? えっ!? 何だコレ!?)


 あまりに予想外の出来事に混乱した。

 助けるべき対象が、俺を害しようとしているのだ。


 前世日本で、交通事故にあった友人から、事故の際風景がスローモーションで見えたと聞いたことがある。

 人間の脳は危機を察知すると、脳が回転速度を上げて危機から回避しようとするのだと友人は言っていた。


 友人からこの話を聞いた時は、ウソじゃないかと思ったが、今、まさに俺が危機的な状況にあり、全てがスローモーションで見えている。


 だが、見えているだけで、体が反応しない。


 目の前で男の子がナイフを振りかぶる。

 角度から俺の首筋を狙っていると、瞬時に理解した。


 回避しなくては!

 俺の意識が悲鳴を上げるが、体は反応しない。

 俺の意思に反して、体は硬直してしまっているのだ。


 男の子の持つナイフが、夕焼けを反射してギラリと光る。

 ナイフの刃の色が変色しているのが見えた。

 体は動かないのに!

 全てが高解像度で見えるなんて!


(殺られる!)


 俺は恐怖のあまり声も出ない。

 男の子のナイフを見ることしか出来なかった。


 だが、視界の端から何かが飛び込んできた。


「ニャー! やっぱり! オマエニャ!」


 ネコネコ騎士のみーちゃんが、男の子の右手に飛びついた。

 俺は男の子の左手をつかんだままだ。

 みーちゃんが飛びついたことで一気に重さが増し、俺はバランスを崩し馬車のルーフから落下した。


「うわっ!」


 俺は地面に背中から叩きつけられた。

 息が詰まったが、背中の痛みで体が動き出した。

 ゴロリと転がり四つん這いになり呼吸を整える。


 俺の横では、みーちゃんが男の子を抑え付けている。

 男の子がみーちゃんに怒鳴る。


「何しやがる!」


「それはこっちのセリフニャ!」


 男の右手には、まだナイフが握られている。

 俺は這いずりながら、みーちゃんに知らせた。


「ナイフだ! 色が何か変だ! 多分毒だ!」


「ニャー!」


 みーちゃんは、男の子の右手を中心にくるっと回転し、腕ひしぎ十字固めを極めた。


「へし折ってやるニャ!」


 男の子の右手が曲がってはいけない方向に曲がり、ナイフを取り落とす。


「うぎゃああああ!」


 男の子の悲鳴が響いた。

 だが、みーちゃんは容赦しない。

 今度は左手をロックした。


「みーちゃん! お兄様! 何をしているのですか!?」


 馬車の防護板がスライドして、妹のマリーが顔を出した。

 そのまま、馬車から降りようとしている。

 執事のセバスチャンが一緒にいるが、セバスチャンは、小さな男の子を痛めつけるみーちゃんを見て、どう対応すれば正解なのか迷っているのが表情でわかった。


 二人とも馬車を降りてこちらに来ようとしている。


 まだ、戦いは続いている!

 このフィールドには、魔物がいるのだ!


 俺は慌てて両腕を広げて妹のマリーを止めようとするが、馬車から落ちたダメージで足下が覚束ない。

 膝立ちで必死に声を張り上げた。


「ダメだ! 馬車にいろ! まだ、安全は確保されていない!」


「でも、お兄様! 男の子が――」


「その子は刺客だ! 俺をナイフで刺そうとしたんだ!」


「ええっ!?」


 妹のマリーは、驚いて目を大きく開き男の子を見た。

 そして、地面に落ちたナイフに気が付き、両手を口元に当てる。


 執事のセバスチャンも事態を理解したのだろう。

 ハッとしている。


「セバスチャン! マリーと馬車に入ってろ! 防護板を閉めるんだ! まだ、魔物はいる!」


「かしこまりました! マリー様! さあ!」


 セバスチャンは、馬車から身を乗り出したマリーを無理矢理座らせると、スライド式の防護板を閉めた。


 みーちゃんが、男の子の左腕を締め上げる。


「この魔物襲撃はオマエが仕組んだニャ! 何をしたニャ!」


「痛い! 痛い!」


「言うニャ! 何をしたニャ! こっちの腕もへし折るニャ!」


「ギャー! 言う! 言うよ! 香だ! 魔物寄せの香だ!」


 魔物寄せの香……?

 名前からすると、魔物を呼び寄せるお香なのだろうが……。


 俺はハッとして思い出した。

 甘い匂いがしていた……。

 あの甘い匂いが、魔物寄せの香ではないだろうか?


「あの甘い匂いか!」


「どこにあるニャ! 魔物寄せの香は、今、どこにあるニャ!」


「ば……、馬車の下だ!」


 俺は馬車まで這って進み、馬車の下をのぞき込んだ。


 あった!


 小さな木箱が馬車の下に転がっている。

 俺は手を伸ばして木箱を引っ張り出した。


 木箱の蓋には穴が空いていて、うっすらと煙が上がっている。

 そして、甘い匂いがする。


 この甘い匂いに魔物が引きつけられたのだろう。


 俺は蓋をスライドさせた。

 中には灰が敷き詰めてあり、真ん中に親指程度の大きさの香が置いてあった。

 香はまだ燃えていて、まだ半分ほど残っている。


「ノエル! 御者台にセバスチャンの水筒があるニャ!」


「わかった!」


 みーちゃんの指摘で思い出した。

 御者台には、木製の水筒が備え付けてあるのだ。


 俺は馬車の御者台から筒状の水筒を取り出し、魔物寄せの香に水をかけた。

 ズブズブと音を立てて火が消える。


 甘い匂いがしなくなった。

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