第5話

男とマチ子の間に緊迫した空気が流れる。 場の時間は凍り付き、何かの合図を待っているかのようだ。


 指一本でも動かそうものなら、それが試合開始のゴングとなる。


 十中八九マチ子が勝つだろう。 ただ、それでもこの男のたたずまいや仕草からそれを覆しかねない何かを感じ取れる。


 ただのマチ子のストーカーかとも思ったが、存外そうでもないらしい。


 妹にちょっかいを出す男など、僕自らの手で片付けてしまいたいが、それでは意味がない。 またいつ、どこの馬の骨がマチ子に手を出すか分からないから、マチ子自身でこの問題を乗り越える必要がある。 いつでもお兄ちゃんが助けられるわけではないのだ。


「──あ、すいやせん~」


 突然、二人の間に割って入ってきた自転車に乗った少女。 この間の悪いタイミングや聞き覚えのある腑抜けただらしのない声、そんなやつこの世界にたった一人しかいないだろう。 


「遅れっした~。 白座から派遣されました~二牟礼憂奏で~す」


 この場が氷河期に突入した瞬間だった。 

静寂に包まれる中、憂奏は周囲を確認し、マチ子の肩に乗っている僕を見つけ、あ! と声を上げた。


「あんたさっきの! ちょっと私のジャージ返してよね!」


 少女漫画に出てくる遅刻し掛けた転校生が曲がり角で後のクラスメイトになる男とぶつかってあれやこれや揉めた後、クラスで再会するような口調で憂奏は言った。


 明らかに場のテンションを間違えている憂奏に対して、そもそもお前が僕を川に投げ飛ばしたんだろと言う前に男が口を開いた。


「お前が今日来る予定の二牟礼か! 今まで何してた!? 時間すら守れないのか!」


 憂奏は叱責する男を一瞥し、自転車を止め、鞄から何かの書類とペンを取り出した。


「ここにサイン貰ってもいいですか? あ、あとここも」

「お、おう。 ここか?」

「はい。 ありがとうございます。 これ、控えになります」

「あ、はいどうも」


 そんなやり取りを見ていたマチ子は僕を肩から降ろし、憂奏の背後に近づく。


「──マチ子?」

「あんた、お兄ちゃんの何なの?」


 憂奏は振り返って、でっけ~胸筋と言ってマチ子を見上げた。


「確かにお兄ちゃんの着ている服からあんたと同じ匂いがする。 初めはこれがお兄ちゃんの匂いなのかと思ったけど、さっきの口ぶりからして、あれはあんたの服ね。 あたいのお兄ちゃんに気安く近づかないでくれる?」


憂奏はお兄ちゃん? と数秒考え、その後──え!? と驚いて、後ろの男に視線を戻した。


「お兄ちゃん?」

「──ちげぇわ!!」


 男のツッコミが空に響いた。


 マチ子は憂奏の胸ぐらを掴み、顔を近づける。


「あたいのお兄ちゃんはあっちだ」


 マチ子は僕を指差した。


 マチ子の影から憂奏が覗き込む。


「──え!! え、てかゼキエル妹居たの!? はは、にってねぇ~」

「お兄ちゃんの名前を気安く呼ぶな!!」

「わ~ごめんごめん」


 マチ子は憂奏の胸ぐらを掴みながらぐらぐらと揺らした。


「どうして、お兄ちゃんがあんたの服を着てんだ?」

「あ~なるほどなるほど。 そういうことか」


 憂奏は何かに納得したそぶりを見せた。


「あなたお名前は?」

「マチ子、マチ子・バスターキング」

「バスターちゃん、ひょっとしなくてもブラコンだね? それも、重度のブラコンとみた」


 今の短時間で、マチ子が重度のブラコンだと見抜いただと!? 舐めていた、二牟礼憂奏やるな。 常に眠そうな目をしてるから侮っていた。 


「それがなんだ? 兄を好きじゃない妹なんているものか」

「そんなお兄ちゃん大好きっ子のバスターちゃんにいい情報を教えてあげよう」

「なんだ?」


 ちょっと、耳貸して、と憂奏は手招きをする。


 マチ子は唯々諾々とそれに従い、耳を近づけた。


 何やら密談を始め、その様子を見ていると、マチ子の耳が徐々に紅潮していく。


 更に、その密談中チラチラと二人で僕を何度も見ては、目が合うとマチ子はすぐに逸らすを繰り返した。


 一体何を話してるんだ? それに何の時間何だこれは?


「──どうよ、バスターちゃん。 絶対バスターちゃんならいけるって! てか、マチ子ちゃんって呼ぶわ」

「む、無理だよ! あたいにそんな勇気ない!」

「大丈夫! マチ子ちゃんまじ可愛いから!」

「ほ、ほんと? マチ子可愛い?」

「まじ可愛い! 特にそのおかっぱ! 防水加工レベルマックスみたいで超いけてるし!」

「わ、分かった。 今度やってみる」


 終わったのか? 僕の妹にあの女何を吹き込んだ? あいつの言う事だ、どうせろくな事じゃない。 


 いつの間にか携帯の連絡先を交換しているようだった。 警戒していたマチ子をどうやってあそこまで信用させたんだ。 


 それよりも、マチ子携帯持っていたのか。 人間社会に染まってるな。


「マチ子ちゃんの携帯デコってあって超かわいいね! 自分でやったの?」

「あたいこういうの好きで」


 まぁ、マチ子に友達が出来たと思えばいいか。 あの女なのは釈然としないが。


 すると、男が憂奏の肩に手を置いた。


「おい、いい加減こっちも我慢の限界だ。 俺達は何を見させられている」

「あ、さ~せ──」


 憂奏が頭を下げようとした瞬間、マチ子は憂奏を引っ張り、男の顔面をぶん殴った。


 手加減はしているが、凄まじい勢いで男は百メートルほど飛んでいき、地面を転がった。


「あたいの友達に気安く触るな」

「ちょ、え、ま、マチ子ちゃん! うちのクライアントなんだけど! 殴っちゃダメなんだけど! 私クビになっちゃうんだけど!!」


 こうして、二牟礼憂奏は無事、本業に力を入れる事になった。 

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