第2話-4
「これは一体何事か」
ひたとこちらを見据える男の双眸に、
慌てて玲娜は膝をつき、深々と頭を地につける。
玲娜は相当に混乱していた。
あんな偶然が重なった場で会った男が、まさか
游国皇帝――姓は
御年二十二、歴代皇帝の中では相当若年での即位と聞く。
「何の騒ぎだ」
再度皇帝――清月が問う。
「――それで? 彼女は」
彼女というのが、己のことを指しているのはわかった。ひくりと肩が跳ねる。
「……私共も判りかねます」
蓉昭媛の剣のある物言いが玲娜をつつく。自分の口で説明しろと言外に滲ませている。
「そこの娘、面を上げよ」
逃げ場がなくなり、玲娜は恐る恐る上体を起こす。
目を合わせないよう、清月の顎あたりに視線を合わす。
直視せずともわかる。竜顔麗しく、こんな冴え冴えとした美丈夫が二人といるはずがない。
しかし――雰囲気が随分と違う。あのときの彼はもっと気安かった。今はひりつくような圧迫感と覇気に萎縮させられる。
「申せ」
玲娜はどう説明すべきかと躊躇う。その隙をついて、後ろから声が飛んできた。
「この子は
――この声、ロウリンだ。
玲娜は思わず振り返る。
「この場に
「っ、あなた、どういう意味ですか!」
蓉昭媛に嘘を吹き込んだ妃の顔面が歪み、朱に染まる。
「――
清月の視線がすうっと玲娜の背後に向かう。彼の口調がゆったりとしているおかげで、ようやくロウリンの名も正しく聞き取れた。
「玲娜さん、波斯語がわかるのでしょう?」
「な、なんで」
「尚儀長から聞いています」
場の雰囲気に飲まれることなく、琅菻が玲娜の隣に来て背に触れてくれる。玲娜はゆっくりと頷く。
「
「え……?」
「ちなみにあの方が
琅菻が示したのは、気色ばむ先程の妃だ。ギリギリと音がしそうな程こちらを睨んでいる。
「わかりますが……でも」
「これで双方正しくやりとりができますわ、陛下」
琅菻は怖いもの知らずなのか。陛下の表情を確認すると、彼は呆れたような顔で頬杖をついていた。
「相変わらずよく出しゃばるな、貴様は」
「陛下も茶番はお嫌いじゃないでしょう」
「……その態度は疾く改めよ」
むっすりと清月が目を細め、そして琅菻の隣にいる玲娜へと視線を向ける。
「名は」
玲娜は迷い、伏礼する。
「
「ふむ」
玲娜は先の事を言うか迷い――何も言わずにいるのは失礼ではないかと判断して、再び深々と頭を下げる。
「陛下、その節は命を助けて頂き、誠に――」
「……余が命を助けたと?」
清月の不審そうな声に、玲娜は固まる。
……もしかしてあの場は隠すべきことだったんだろうか。言ってはいけないことだった?
玲娜が困惑から顔を上げると――そこには同じく戸惑いの色を浮かべた清月がいた。
違う。玲娜は直感的にそう感じた。
顔も声も同じなのに、玲娜と相見えたのはこの人じゃないのかもしれない。――いや、そんなことあり得るのだろうか。
「……大変失礼いたしました。ただの戯言で御座います。お聞き流しくださいませ」
清月は何も言わない。
――そしてようやく話は冒頭へと戻るのである。
◇◇◇
左右からの罵詈雑言に玲娜は辟易する。
琳美人に状況を説明し、蓉昭媛ともうひとりの妃――
琳美人が怒るのは最もだが、それに応戦する楊充媛もどうかと思う。蓉昭媛に至っては会話についていけないため、終始無言だ。
こちらも気になるが、それよりも――。
玲娜はちらと目の前の男を確認する。
彼も波斯の言葉を理解するはずなのだが、反応は薄い。これが演技なら相当なものである。そして、何より玲娜のことを観察するような視線。気になって仕方がない。
互いの言葉を伝えるもおおよそ和解は不可能なようで、故意の情報を流した楊充媛がこの場を退場させられるという形で決着した。謀ったのは事実なので、後日もっと別の形で罰を受けるに違いない。琳美人の侍女含め、だ。
「イルカンドの娘よ」
楊充媛がいなくなったのを見計らって、そっと姿を消そうとしていた玲娜であったが、まあ当然呼び止められるわけで。
清月はじっと玲娜を見つめる。黒曜石のような、深い
「後宮へは、いつ入った」
――ん? 身構えていただけに拍子抜けする。
「は、半月前です、陛下」
「海路か、陸路か」
「陸路、です……?」
「ほう」
清月がくいと口端を持ち上げる。
「成る程な。合点がいった」
何を納得したのかわからないが、清月は得心がいったようだ。
「今日は大儀であった。日を改めて褒美を贈らせる。受け取れ」
「あ、ありがとうございます」
清月が席から立ち上がる。重い衣擦れの音と共に玲娜の目の前で膝をつく。ぐっと顔が近づき、彼の口が耳元に寄せられる。傍の蓉昭媛が息を呑むのがわかった。鼻を擽る甘い香の薫りに、玲娜は身を固くする。
「――命惜しくば、影を見たことは内密にせよ」
「…………え」
玲娜が思わず彼の顔を見つめてしまうが、ついと視線を逸らされ、彼はそのまま退席してしまう。
別の意味で心臓が
玲娜が青褪めていると、隣から咳払いが聞こえた。
横を見ると、蓉昭媛がじっとりとしたした目で玲娜のことを見ていた。――いや、蓉昭媛だけじゃない。他の妃嬪らからも物言いたげな視線を感じる。
ああ、やってしまった。
玲娜は先程よりも青褪める。
皇帝陛下に顔を覚えられる――後宮におけるその意味を、玲娜も知らないわけじゃない。
女の園は怖いのだ。
「行きましょう、玲娜さん」
琅菻が腕を引いてくれたおかげで、玲娜は逃げるようにその場を後にしたのだった。
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