第3話-1 表と裏
園遊会から十日経った。
あの場は
その後のことは、何事もないとは言えなかった。
日中はできる限り業務に集中しているが、風の噂とやらはどうしても耳に入ってくる。
――でしゃばりの異国宮女、寵愛欲しさに場を乱す。
――
園遊会の出来事は、格好の噂話となっていた。
ううん、噂に大した尾鰭がついていないだけまだ良い方か。ここに翼や足が生えだしたらいよいよ
玲娜は顔を伏せがちになりながら、大きく吐息する。
朝の仕事は多い。
見られているなとは思っていたが、気まずいことこの上ない。
「気にしないことよ」
足を止めてしまった玲娜に、同じく掃除をしていた
「水漣さんは気になりませんか。私の近くにいると、あなたまで悪く言われてしまうかも」
「別に。誰かが槍玉に上がることは日常茶飯事だもの。少し経てば皆すぐに別の話題に飛びついて、あなたのことなんて忘れるわよ」
歳も玲娜とさほど変わらないだろうに達観している。いや、集団生活に慣れているとも言えるか。
実家にいた頃は、外をひとりで出歩くこともできなかったし、常に世話をされる側だった。いつもひとり。家族と侍女のシーリンが話し相手だった。
今となってみれば、家で雇っていた使用人達にも今の玲娜のような複雑な人間関係があったのだろうと気づく。見ようとしなかっただけで、閉鎖的な女社会、いざこざはあったに決まっている。
立場が変われば見えてくるものもある。ここは耐えてめげずに頑張るしかない。
「次はもっとうまくやろう」
思わず漏れた呟きに、水漣が訝しげに眉を上げる。
「あんたって、なんか変わってるわよね」
「どこがですか?」
「何ていうか……変に
今度は玲娜が眉を寄せる。
「擦れていた方がいいんですか?」
「そんなことないけど。でも多少その方が
複雑な表情をしている水漣に、玲娜は顔が綻ぶのを感じた。
「……心配してくださっているんですか。ありがとうございます」
「なっ……あんたほんとにやりづらい子ね。これも片付けておいて!」
水漣が持っていた掃帚を押し付けられる。玲娜は転げ落ちないよう、二本を腕に抱える。水漣はぷいと顔を背けると建物の中へと戻っていってしまった。
可愛い人だな、と玲娜がほっこりしていると正門から見知らぬ男が入っきてきた。いや、後宮に男はいないと聞くので
若い男だ。隙のない面構えにかっちりと結い上げた髪。浅葱の
丸腰の男は、眼光鋭く尚儀局の殿舎入口で足を止める。
「玲娜という宮女はいるか」
随分よく通る声だ。掃除に勤しむ宮女らが一斉に玲娜の方を向いた。
そんなまさか。
思わぬ名指しに玲娜はたじろぐ。
男が隅の方で固まっている玲娜に気づいた。
「お前か」
「はい。そうです」
「ついてきなさい」
何処へと問う間もなく男が歩き出す。
玲娜はどうしたものかと悩み、慌てて後についていく。
呼びに来たのが女官ならまだしも、武人然とした宦官となると行き先が不安になる。玲娜達のやり取りを遠巻きに見ている宮女らも黙っている。
お叱り、処罰――そんな単語が頭に浮かんでくる。
玲娜の不安を他所に男は淀みなく歩みを進め、後宮の奥へ奥へと潜っていく。一体幾つ門を抜けただろう。
気になることは他にもある。男の姿を認めると、皆が道を脇へと避けて深々と頭を下げるのだ。玲娜はこの宦官を知らないが、後宮では有名な人なのかもしれない。
いよいよ耐えきれなくなり玲娜は声を上げる。
「あの、今私はどちらへ――」
「
取り付く島もない。
男は一際
広々とした室内に独り、取り残される不安たるや。
玲娜は心許なく両の手を握り合わせる。
通された室内は、玲娜がこれまで游国に来て見てきた中で一番豪奢な造りをしていた。
手前に卓と椅子が二脚あり、奥に
濃赤色で統一された調度品は質の良さをうかがわせる。飾られた品々や装飾に至るまで、隅々まで贅を尽くされている。
玲娜ははたと室内を見渡す。
ここは誰かの住まいなのか。生活感が皆無で、てっきり空いている
確認するだけ、と上衣を手に取りかけて――。
「何をしている」
突如背後から飛んできた声に玲娜は飛び上がる。
振り返り、更に飛び上がる。
園遊会で見たままの皇帝陛下の姿が、そこにあったからだ。
陛下は飾り気のない
真っ直ぐに射抜くような視線。
蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。身動き一つできやしない。
その淡々とした瞳の中に――ほんの僅か、面白がるような色を見た気がして――。
玲娜は、おやと目を見張る。
彼の後ろには先程玲娜を連れてきた宦官が、恭しく腰を折っていた。
「いかがいたしましょう」
「このままでよい。
陛下が手を振る。宇恭と呼ばれた宦官が腰を折ったまま後ろへ下がる。
そんな。ふたりきりにされてしまう。
助けを求めて玲娜が目線を向けるも、宇恭はこちらを見もしない。行き場を失くした手が空を切る。
「どうした。不満か」
扉の閉まる音に、玲娜は慌てて床に伏せる。
「滅相もございません」
何故、どうして。そもそも自分が呼ばれた理由は。
いつの間にか男は目の前にまで来ていた。
「面を上げよ」
近づいた声に、玲娜は身を固くする。
恐る恐る顔を上げる。不敬だとわかっているが、じっとその瞳を見つめる。
「……なんだ」
冬空のような、凍てつく美しさを閉じ込めた顔貌に、冴え冴えとした感情の乏しい瞳。その瞳の奥の――やはり拭えない違和感。
――命惜しくば、影を見たことは内密にせよ。
園遊会での陛下の言葉がよぎる。
「……あなたが影ですか?」
顔は全く同じだが、表情がほんの少し違う。何より、かの方は玲娜のことをもっと
玲娜が眉を寄せる。
すると目の前の男は外の気配を窺う素振りを見せた後――ニヤリと笑った。
「わかるかなと思って匂わせてはみたけど、ちゃんと気づいてくれて嬉しいよ」
男は
皇帝陛下のなりでそれをされるのは、かなりの違和感がある。
「上手く立ち回れと言ったのに失敗したんだね、君は」
「……あなた、誰ですか」
「そんなに警戒しないで。私は君の命の恩人だろう?」
腰を折った男の顔が玲娜に近づく。
陛下とは違う、少し苦みのある香の薫りがする。
「陛下の言っていた褒美が来たよ」
「は?」
「だから、褒美。私だ」
いや、意味がわからない。
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