十三.決意の午後
普段からほとんど外出せず体力もないティリーアが、慣れない散歩と広場での出来事、そのあとの号泣で疲れただろうとハルは
ふわりと鼻をくすぐる香水の匂いに距離の近さを再認識し、心臓が熱を帯びて騒ぎ出す。低い声が歌うように紡ぐ言葉は、うまく聞き取れなかった。目を開いていれば、もっと変化を実感できたのかもしれない。
白状すれば、自分の心臓のうるささと顔に集まる熱で、それ以外のことに意識を向けられなかったのだ。目を開けてもいいと言われ、ハルの腕の中から見慣れた景色を目にして、安心と同時に寂しさを感じる。これは――一体どういう心理だろう。
「部屋まで送ろうか?」
「……ううん、ひとりで大丈夫」
魅惑的な申し出につい頷きそうになるが、思い止まった。もう、逃げてばかりいるのはよそうと決めたのだから、甘えるわけにはいかない。
感謝を告げ別れたあとも、ハルは気遣わしげにこちらを見ていた。万が一にも倒れたりしないかと心配しているのかもしれない。その優しさに勇気をもらい、決意を強める。
時刻は昼をすぎて午後に差し掛かる頃、普段なら両親は仕事に出ている時間だが、珍しいことに居間にはふたりが揃っていた。寝間着の母に父が食事をさせている様子を見て、昨夜から今朝までのことを思い出す。おそらく母は昼まで休んでいたのだろう。
いつもまっすぐ部屋へ戻り、食事の時間までは出てこないようにするのが、ティリーアの日常だった。今も、父と母が一緒に過ごしている空間へ立ち入ることをためらう気持ちは大きい。それでも、弟がおらず両親が揃っている状況はまたとない機会でもある。
「……帰りました」
たった一言を、勇気を振り絞って告げる。両親が揃って顔を上げ、父が微笑んだ。母は少し視線をさまよわせていたが、父の様子を見てぎこちない笑顔をティリーアに向ける。
「おかえりなさい、ティリーア。……ごめんなさいね、具合が悪くて、さっき起きたところなの」
ティリーア自身思ってもみなかったことだが、悲痛な
向き合って話そうと決意したのに、今まで会話をした経験が少なすぎて、どう返せばよいかわからない。父が助け舟を出してくれなかったら、ふたりでいつまでも無言のまま固まっていたかもしれない。
「ティリーア、昼は食べたのか? まだなら座って一緒に食べなさい」
着席を促され、ティリーアはようやく我に返った。母は少女のように頬を染めて
会話の少ない食事はいつもと大差ないのに、明らかに変化した空気感がこそばゆい。
「それと、リュライオ殿から話があって……おふたりとも滞在中は引き続き我が家に泊まるらしい。おまえには気苦労を掛けるかもしれないが、よろしく頼む」
「え? はい、わかりました」
思わぬ父の報告に、鎮まりかけた心臓がまたもうるさく騒ぎ出した。広場での一件からずっとハルは自分に付き添っていたので、リュライオの申し出はあの件と別に決められたということだ。
ふいにハルの告げた「
「ティリーア、大丈夫か? 何かあったのか」
「あっ……大丈夫、です」
事情を知らない父から心配そうに尋ねられ、母からも問いたげな視線を投げかけられ、けれど上手に説明することもできなくて、ティリーアは
しばらくそうして心を鎮めてから、父が
やわらかく流れる午後の時間、ティリーアの話を一通り聞いた父が思考に沈むように吐息をこぼした。
「おまえに魔法の能力があったなんて。長老様は気づかなかったのか、それとも……」
父の中に疑いの気持ちが育つのも無理はないだろう。考え込む父の隣で、母は身を震わせ俯いていた。この事実を公表したときに
ティリーアとしても、不安や恐怖がまったく消えたわけではない。それでも、ハルは自分や家族に辛い思いをさせないと約束してくれたのだ。今はそれを信じて、ことの成り行きを見守るだけだった。
不安げな様子の両親にこの場で告げていいものか迷いながらも――、深く息を吸って覚悟を決める。
「長老様のことは、もういいんです。わたしが、……お父さん、と、お母さん、の、本当の娘だったって、アスラと同じ魔法の力が少しでもあるって、知ることができたから」
面と向かってお父さん、お母さんと呼びかけることは、想像以上に気力を要した。けれど言葉にすれば、その呼び方はすんなりと舌に馴染む。父と母の泣き出しそうな表情を見て、ふたりも苦しんでいたのだと改めて思った。
自分が竜族として産まれていれば、きっと仲睦まじい家族でいられたのだろう。だが事実は変わらず、過去は覆らない。人族であるティリーアは、たとえ魔法の素質があるとしても、両親や弟よりずっと短い時間しか生きられないのだ。
だからこそ、
「ハルさまはわたしに、広い世界を見せてくれました。わたしの前にも、無限の
黙って耳を傾ける父と、若干青ざめた様子で見守っている母に、これ以上は心配をかけたくない。ティリーアはできるだけの笑顔で、ふたりへ告げた。
「わたし、二十歳になったら、村を出ようと思います」
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