十一.幸せの温度


 村長むらおさとハルのやり取りを聞きつけたのだろう、広場にはひとが集まり始めていた。

 自分たちが場を去ったら、村長むらおさは集まった者たちにどう話すのか不安だ。傍らを歩くハルをそっとうかがい見たが、彼は広場の騒ぎを全く気に留めていない。だからティリーアも覚悟を決めて、村の外れに接する森へと向かうことにする。

 お互い無言で長閑のどかな道を歩いている間に、今しがた起きたことがじわじわとティリーアの内側に浸透していった。考えなしに出てきてしまった自分をハルはかばってくれただけでなく、公衆の面前ではっきり村長むらおさ糾弾きゅうだんしたのだ。

 昨日からの交流で、彼が権威を振りかざすひとではないとわかっている。村長むらおさに対してああいう言い方をした理由が、その場に居合わせた村の者たちにも聞かせるためというのは、明白だった。


 では、ハルとリュライオが去った後、この村は変わるだろうか。

 絶望的だ、と、ティリーアは心の内で結論をくだす。村の者全員が人族に対し村長むらおさと同じ見方をしているわけではないだろうが、やはりここは小さな村で、閉鎖的な環境なのだ。長年――おそらく彼女の誕生以前から積み上げられてきた価値観をひっくり返すのは、よそから来た者には難しいだろう。たとえ、それが創世主ほどの権威者であっても。

 村長むらおさは、少なくとも司竜たちが村に留まる間は引き下がるだろう。心を入れ替えたような素振りでティリーアに接するかもしれない。けれど、ふたりが村を去れば元のやり方に戻すのは目に見えている。

 アスラがいる限り、家族ぐるみで追い出されることはないだろうが、いずれ弟がここを出ることになれば……その時、ティリーアや両親の居場所はあるのだろうか。


 胸の奥に冷たい水が満ちてゆくようだ。今、自分は、決して願ってはいけないことを願おうとした――そう自覚して、全身の血が引いた。口にするのはもちろんのこと、決して悟られてもならない想い。彼はとても優しいひとだから、知ればきっと思い悩むだろう。

 それでも、久しぶりの外出と感情の動揺に疲れ果てた身体は、思うように動いてはくれなかった。さっきから足指の裏が痛くて、つま先に熱がこもっている。

 村の境界を越えれば、そこはもう森の入り口だ。まだまだ生活圏ではあるので道は踏み固められており、樹木と下草は切り払われてひとが歩けるようになっているが、歩き疲れた足で踏み進めるには地面が悪かった。

 徐々に歩みが遅くなる彼女の様子に気づいたのだろう、それまで黙って隣を歩いていたハルが、口を開く。


「少し休もうか」


 長い指が示す先には、伐採ばっさいされた樹の株が並んでいる。高さと角度がちょうどいい株に促されて腰を下ろせば、思った以上に疲労していた自分に気づいた。息を整えながら、自分の心もなだめてゆく。胸の奥深くに芽吹いた感情こころを悟られぬように、と。

 ゆっくり息を吸い、心配そうに覗き込むハルを見あげる。大丈夫、もう、話しても声が震えたりはしないはず。


「ごめんなさい」


 本当なら、感謝するべきだろう。彼は自分の迂闊うかつな行動をとがめることもなく、助けて庇ってくれたのだから。その優しさと義侠ぎきょう心をまぶしく思う。

 それでも彼がこれ以上この村の事情へ深入りするのは、お互いのためにならないと思うのだ。彼らは去りゆく者たちであり、その権威は世界のためにあるものなのだから。

 しかし、ハルは予想していた以上にわかりやすく――動揺した。


「どうして、謝るんだい」


 戸惑うような、確かめるような。こんな話し方もするのだ、と新鮮な驚きが胸に湧く。答えるべき言葉を見つけられず黙って見あげると、ハルはふいに身を屈め、地面に片膝をついた。一気に近づいた距離と間近に迫る紫水晶アメジストの目に、からを被せたはずの心がざわめく。

 彼が心から自分を気遣い、助けようとしてくれていることはわかっている。彼の話は正論で、変わるべきなのはこの村の慣習だとも――以前はそうは思えなかったとしても――今なら理解できる。けれど、正論だけでひとは動かない。

 ひとには、心があるから。胸に巣食う感情こころはいとも簡単に正論ただしさ凌駕りょうがして、ひとをかたくなにならせるものだと知っている。本心では娘を愛そうと願っていた母が、それでもこの十八年間ずっとティリーアに向き合うことができなかったのと、同じく。


 人族であることをもう、恥じなくてもいい。自分が間違いなく両親の娘であると、証明されただけで十分だった。それ以上を望むのは身の程を過ぎたことであり、村で立場が低い両親をいたずらに苦しめるだけだ。

 どちらにしても、人族は竜族ほど長くは生きられない。これまで耐えてこれたのだから、これから先、状況がこれ以上つらくなることなどないだろう。

 感謝しているのは本当で。だからこそ、優しい彼をわずらわせるのはいけない。自分はもう十分に、幸せになれたのだから。


「わたし、もう十分なの。お父さんとお母さんがわたしを見てくれるようになっただけで、いいの。村のひとや長老様が、わたしをどう思っていても」


 あなたが、わたしが無価値ではないと証明してくれたから。

 誰が何を言い、どんな目で見るとしても。わたしは光をべるとても偉いお方に認められたのだと、胸を張って生きてゆけるから。


 言葉にはできない想いを胸に巡らせれば、温かな想いが身体に満ちてゆく。重なる梢の間からこぼれ落ちる陽光ひかりのように、この熱が胸にある限りもうさむさに震えることはないだろう。そんな幸せを望める日が来るなんて、今まで思ったこともなかった。

 強がりでもあきらめでもなく、本心から幸せなのだと伝えたつもりだ。それなのに、ハルは目をみはってティリーアを見ていた。中途半端に挙げられた両手と、川面のように光揺れる双眸そうぼう。深い紫色が一瞬揺らぎ、透明な雫があふれ出した――ように、一瞬だけ錯覚する。


(え、今のは……幻?)


 驚いて瞬いてみれば、現実の彼は涙を流してなどいなかった。ただ、痛ましそうに眉を寄せ、何が言いたげに見ているだけだ。自分の発言が意図せず彼を傷つけてしまったことを悟り、ティリーアはひどく動揺した。

 伝えたかったのは、感謝なのに。真実を知らせてくれたことも、守ろうとしてくれたことも。今までそんな好意を向けてくれるのは弟だけだったから、とても嬉しかったのだと。


「どうしてハルさまが、泣くの?」


 言ってしまってから、後悔する。散々考えて言葉を選んだつもりが――どうして自分はこうも、上手く話せないのだろう。

 



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