九.噴水の広場へ


 夜中に目が覚めることもなく、夢も見ず、朝までぐっすり眠ったのはいつ振りだろう。

 薄織うすおりのカーテンを揺らす朝の風を心地よく感じながら、ティリーアは夢うつつの意識でゆっくり記憶を巡らせる。

 十八年の間、すれ違い続けた家族だ。真相を知り誤解がとけたとしても、すぐに打ち解けるのは難しい。急ぐことはないのだと思い直す。ハルが言ったように、すべてを今から始めれば良いのだから。


 そのまま微睡まどろみに引き込まれそうになるが、起きねばという理性がかろうじてまさった。昨日一日で起きた数々の変化は、思った以上に心身を疲弊ひへいさせたのかもしれない。それでも、このまま眠って過ごすのはもったいないと思う。

 ゆっくり起きて身支度を整え、窓を開け放つ。カーテンを巻きあげ吹き込む風に陽の匂いを感じて、いつになく心が浮き立つのを自覚した。


 ずっと、自分はわざわいを招く存在なのだと思っていた。陽の下を歩くのにふさわしくない、けがれた存在だと。母が無実であれば、罪過はティリーア自身だろうと。

 けれど、そうではなかった。彼女が人族として産まれたのはわざわいの予兆や罪のしるしなどではなく、一般的な現象なのだと、創世主と光の長が確証してくれたのだ。


「人と竜は、魂が近い存在……」


 同じ姿かたちを持つ、異なるいきもの。彼らがいう『近さ』がどういう意味かはわからない。

 それでもその言葉はティリーアの心に深く落ちて、胸の奥底に熱をともした。自分がという自覚がこれほど心を安んじるだなんて。孤独というさむさに凍りついていた身体を優しく包み込む、陽光ひかりのように。

 彼らは――ハルは、わかっていて、誰もが口にしようとしていなかった禁忌に言及したのだろうか。

 そう思えば彼の姿が無性に恋しくなり、ティリーアは鏡で身だしなみを確認してから急いで階下に降りる。そっと居間に顔を出すと、父がひとり食事をとっているところだった。


「おはよう、ティリーア」

「おはよう、ございます」


 ぎこちない挨拶を交わし、自分の席に着く。テーブルの上には空になった食器がふたり分、手付かずの食事が三つ。一つはティリーアの分だろうから、誰かが既に食べ終えて、誰かがまだ起きてこないのだろう。そっと父を見れば、はにかむような笑顔が返ってきた。


「母さんは、もう少し寝ていたいそうだ。アスラは、何も食べずに朝からどこかへ行ってしまって……困った子だよ。司竜のおふたりは村の視察へ行かれたよ」


 ぎこちないながらも父が自分に笑いかけてくれている現実を実感した途端、胸に何かがあふれて喉が苦しくなった。母はきっと、泣きすぎて具合が悪くなってしまったのだろう。アスラは今、司竜のふたりと一緒に行動しているのだろうか。

 上手く声を出せず、頷きだけ返して自分の朝食をいただく。決して温かな家庭ではなく、自分を交えた会話もほとんどなかったが、ないがしろにされていたとは思わない。自分の席と温かな食事がいつでも用意されていたのは、父が自分を養うと決めたからだ。

 今はまだ、父親として呼びかけることができずにいる。長年培われた距離は大きく、一日で飛び越えられるものではないのだ。それでも、いつかは――そう願いながら、ティリーアは温かなスープに口をつけた。




 普段は自室か、せいぜい家の庭で過ごすことの多い彼女が、広場へ足を向ける気になったのは、浮つく心に誘われた気の迷いかもしれない。あるいは無意識に、司竜ふたりの姿を捜そうとしたのだろうか。

 畑地を縫うように整備された小道を通って、村の中心へと向かう。大きな広場の中央には美しい噴水があり、愛らしい花の咲く樹が植えられていて、憩いの場となっている。とはいえ、家族でここへ遊びに来ることはほとんどないのだが。


 ティリーアにとってこの村は冷たく、怖い場所だ。誰もが彼女をいない者として扱い、目を向けようともしない。すれ違っても声を掛ける者はおらず、挨拶しても返る声はない。

 寂しい、悲しい、といった感情はとうの昔に通り越した。彼らは人族をさげすんでいるが、竜という種族に誇りを持ってもいる。非力な人の娘に暴力を振るったり、力尽くで排除するようなことはしない。であれば、危険はないはずだ。


 わざわざひとが多く集まる場所に出向くのは軽率だろうか。弟に聞かされた、今の季節は広場に植えられた林檎の木が花を咲かせているという話が、頭の片隅に残っていたのは確かだけれど。

 しかしティリーアの目を引きつけたのは、薄紅の可愛らしい花ではなく、広場の中央にしつらえられた噴水だった。

 何の素材なのか透明度の高い石で造られたそれは、真昼の空を映して不思議な青色にきらめいている。ひとの背丈よりずっと高い場所で噴き上げられた水飛沫が風に吹き流され、見上げるティリーアの顔にぱらぱらと降ってくる。まるで晴天から降る霧の雨のようだ。


「きれい」


 口をついたことばに驚く。水の湧き出る泉に似た、自分の名を連想させるこの噴水のことは、嫌いだったのに。たった一晩で、自分の心にこれほどの変化が起きるなんて。

 これまで冷たくいろのなかった世界がにわかに色づいたかのようだった。彼らに会う直前に見た白昼夢を、ぼんやりと思い出す。夜明けとともに光を熱を与え、世界を美しく輝かせる真昼の恒星ほし。彼は今、どこにいるのだろう。

 眼裏に夢を描けばその先を辿れる気がして、ティリーアは噴水の霧を浴びながら目を閉じた。意識を夢にゆだね、心に幻を描く。青い空、天空の輝き、光色の――。


「ティリーア」


 唐突に名を呼ばれ、冷水を浴びせられたかのように意識が覚醒した。確かに霧の雨をかぶってはいたけれど、そうではなく。

 聞き慣れた、ティリーアが最も恐れる声だった。込められた嫌悪の響きに深く心をえぐられる。体が震えて、視線が自然と地面へ落ちた。振り返らなくても、彼がどんな表情で自分を見ているかくらい、はっきり想像できる。


「はい……長老さま」


 滅多に出歩くことないはずの村長むらおさ、長老竜のウルズにここで遭遇するなど。か細く返答したものの、ティリーアは顔を上げることができなかった。



 


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