六.涙のわけ


 ティリーアは、今まで誰かに逆らったことなどない。うとまれている彼女にあえて話しかける者は多くなかったが、辛辣しんらつな言葉を浴びせられたこともある。

 普段は娘に目を向けず話しかけようとしない母も、時に荒ぶった感情をぶつけてくることはあった。仕方がないことだと思う。きっと母もそれ以上の言葉を村の者や村長から浴びせられ、耐えてきたのだろうから。


 何を言われても、何を言いつけられても、素直に受け止め聞き入れてきた。誰かの言葉を否定し言い逆らうなど、考えたこともなかった。だから彼の言葉だって素直に受け取ればよかったのだ。それが嘘でも、場は丸く収まるだろうに。

 まさか自分が相手を試すような物言いができるなんて――、胸の内側に芽吹いた感情の意味もわからぬまま、ティリーアはハルの紫水晶アメジストのような双眸そうぼうをじっと見つめる。


 あたかも彼の瞳から真意を見抜こうとでもするかのように。

 宝石のようなきらめきをたたえたその目が、ほんのわずか細められた。一瞬、瞳の色が濃くなったように錯覚する。口元からこぼれたのは、楽しげな吐息と。


「嘘じゃないよ」


 なぜかその表情は、とても嬉しそうに見えた。見つめ返したまま何も言えずにいると、彼は微笑んだままもう一度、言った。


「嘘じゃない、――本当だよ」


 それが本当にと理解した途端、心臓が鼓動の仕方を忘れたかのように戦慄わなないた。全身が震え、顔に熱が上ってゆく。

 胸の奥から何かのかたまりが迫り上がって息が苦しくなり、思わず両手で口元を覆い隠した。そうでもしないと、まともに声が出せない気がして。

 瞼が熱く、喉が痛い。

 たった一言が、ただの肯定が、こんなに――。


「嬉しい……そんなふうに言われたの、はじめて」


 泣いてしまいそうな衝動を必死でこらえつつ、ティリーアはかろうじて声を押し出したが、その声は自分でもわかるほどに震えていた。

 手のひらで顔を半分隠しながら、言い訳のように小さく呟く。


「嘘でも、嬉しい……」

「嘘じゃないって」


 さっきとは違い、今度の反応はわりと感情的だった。それで、確信する。

 名付けのいわれになったのは、竜族が用いる魔法用の言語――竜語魔法文字ドラゴンルーンというものらしい。その意味を司竜である彼らが知らぬはずはないのだ。それは青いひとが見せた表情からもわかる。

 だからハルはティリーアの名に込められた意味を知っていて、理解した上で、はっきりであると断言したのだ。

 

 ただ、名前をめたのではない。

 その名を与えられたティリーア自身を呪われるべきものでない、良い存在であると言ってくれたのだ。


「よかったね、姉さん」


 馴染みのある手のひらが優しく肩に触れた。嬉しそうに弾んだ弟の声が、波立つ心をそっと撫でるようにして静めてくれる。


「ぼくも嬉しい。だって、姉さんのことをちゃんと見てくれた、はじめてのひとだもんね」


 まだ細いけれど頼もしい両腕が、ティリーアの身体をぎゅっと抱きしめる。弟の体温を感じていると安心感が満ちてきて、彼女は弟の肩に顔をうずめて頷いた。

 せきを切ったようにあふれだした涙が、小さな肩を濡らしてゆく。それを申し訳ないと思いながらも、どうすれば止められるのかわからなかった。


 ずいぶんと長い時間、そうしていたように思う。これほど泣いたのはいつ以来だろう。物心ついた時にはもう泣くことをあきらめていたから、人目をはばからずに泣くという経験自体がはじめてかもしれない。

 自分の内側にこれほどの、制御できない感情があったことに驚く。そして、叱りつけたり突き放したりせず寄り添ってくれた弟にも感謝した。彼だって、姉に泣き付かれる体験など産まれて初めてだっただろうに。


 その間ずっと何も言わず、ハルとリュライオのふたりは少し離れた場所で様子を見守っていたようだった。やがて泣き疲れて少し冷静になったティリーアは、そのことに気づき、途方に暮れて弟を見る。


「ねぇ……アスラ。どうして、おふたりをこんな場所に、連れてきたの?」


 恐怖感が薄れたぶん、現実を見る余裕がでてきたかもしれない。家を抜け出して遊んでいたアスラがかれらに出会い、村まで案内することになったのだとしても、まず向かうべきは村長むらおさの家だろう。

 かれらがアスラに会いに来たのだとしても、来客を通すのは家の居間だ。それがこんな裏庭に連れてくるとは、いったいどういうことなのか。

 途端、上機嫌だったアスラが罰の悪そうな顔になって視線をそらした。


「おふたりとは丘で会って意気投合してね、せっかく仲良くなったのだしうちに泊まりたいってハルさんが言うから、案内してきたんだ。でも父さんも母さんも帰ってなくて……」


 さっきの話も嘘ではないようだ。けれど事前の約束がないのだから、両親が不在なのも当然である。おそらくまだ村長むらおさに指示された何らかの用事をしているのだろう。


「父さまも母さまもまだ仕事よ。アスラがお連れしたのだから、こんな場所ではなく、居間にご案内してお茶とお菓子をお出ししてね」

「うん、そうしようと思ったんだよ!」


 さまよっていた視線を戻し、アスラは今度は真剣な表情で声をあげた。それでティリーアは、大方の事情を察する。


「大丈夫、今からお菓子を焼く時間はないけれど……わたしも、家へ入るから」

「おねがい姉さん。ぼく、お茶もお菓子もどこにあるかわからなくて」


 両手を合わせて小首を傾げる仕草は愛らしかったが、弟にはもう少し母の手伝いをするよう言い聞かせるべきかもしれない、と姉心に思う。

 目尻に残っていた涙をぬぐいながらゆっくり立ちあがると、離れた場所でハルが笑いをこらえているのがわかった。恥ずかしいような申し訳ないような気分だけれど、不思議ともう怖くはない。


「わたしは裏口から入って準備をするわ。アスラは、おふたりを居間へお通しして」

「はーい」


 竜族のおさたる方々を満足させられるもてなしができるのか、来客を迎えた経験など皆無であるティリーアには想像のつかないことだったが。

 なぜか、それが楽しいことのように思えて。心は自然と浮き立っていた。




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