第2話 あやしの市 -2- 季節外れの夜市

 ボクはボクのことをボクと呼んでいるが、ボク、オレ、ワタシ、どれも合っているようで、本当はどれもしっくりとこない。

 自分を表す呼び方として今は「ボク」を使っているが、先になれば変わるかもしれない。

 英語だったらどんなに楽だろうと思う。


「女子のくせに」

「男子らしくない」

「どっちなんだよ」


 これまで何度も言われた。

 ボクは自分の性別がわからないような気がするし、どちらかひとつに縛られるのが苦しかった。


 最初は親から言われたた通りに自分をワタシと呼んでいたが、幼稚園の頃から違和感を抱き始めた。

 周りの男の子たちは「ボク」とか「オレ」とか言っているし、女の子たちは全員が「ワタシ」だった。

 なぜ違うのかがわからなかったし、なんでひとつに決めないといけないかがわからなかった。


「なんでひとつなの?」

 一度母に聞いた。

 母は驚いたような困ったような顔をした。

「なんでもなの」

 母はそうとしか答えなかった。


 母はボクに赤やピンクの服を着せたがった。

「だってこっちの方がかわいいでしょ」

 母はそう言ったが、その頃のボクは赤やピンクがとてもイヤだった。

 色そのものよりも強制されることがイヤだったのかもしれない。


 その頃ボクが一番好きな色はキミドリ色だった。

 クレパスの黄色と緑を合わせると現れる色がとてもきれいで、いろんな絵を描いてはその色に塗っていた。

 キミドリ色は元気になる色。ウキウキした気持ちになる色。

 引っ越す前の駅前にあったケヤキ並木は、新緑の季節が一番きれいだった。

 待ちわびていたように芽吹いてきた若葉を下から見上げると、太陽の光が透けてキミドリ色に輝く。

 ボクはいつまでもその光景を見上げているのが好きだった。


 やっと買ってもらったキミドリ色の水筒を幼稚園に持って行った。

 自分ではとても気に入ったから皆に見て欲しかった。

 しかし一人の男の子が「へんな色」と言って、周りの皆が笑った。


 それがとてもショックだった。


 自分の好みを素直に表すことが恐くなり、皆と合わせないといけないことがストレスになった。


 父はボクに着せ替え人形やぬいぐるみをよく買ってくれた。

 それはそれで遊びもしたが、変身ロボットやヘリコプターも欲しかった。

「どっちかにしなさい」と言われ、それは欲しいおもちゃのことを言ったのか、ボク自身のことを言ったのかがわからず、ひどく混乱した。

 その時の父の困ったような怒ったような顔をはっきりと覚えている。


 なぜボクは皆と違うのだろう。


 ボクはそれがとても怖い。

 皆と一緒にいると呼吸するのが苦しくなって、その場から逃げ出したくなる時がある。

 そんな理由で二学期が始まりしばらくして、ボクは学校に行かなくなっていた。


 ボクは人と違うことが不安でしょうがない。

 他人にどう見られているかがとても気になる。

 自分が何者かが全くわからないし、こんなんじゃ大人になんか全然なりたくない。

 もっと言うと、生きていることの意味がわからない。


 深夜の謎の声を聞くようになって三日目。

 ボクは勇気を出して、あの雲の中に続く木の階段を上ってみることにした。

 昨夜引き返した時から、ずっとそのことが頭から離れず、明日もまた紫色の雲が出ていたら、勇気を出してその階段を上ってやろうと決めていた。


 学校に行かなくなって半年。両親も「無理して行かなくていい」と言ってくれていた。

 それはボクの心を楽にしてくれてはいたが、それはそれでボクなりに「このままでいいのか」と悩んでもいた。

 起きてもゲームしかしていないことへの罪悪感もあったのだと思う。


 小学校低学年の頃、両親の会話を偶然聞いてしまったことがある。


「なんでああなっちゃったんだよ」

「そんな言い方はやめて」

「俺たちの育て方の問題か?愛情はちゃんと注いできたぞ」

「私たちの問題とかそういう話じゃないわ」

「これから大きくなっていくんだぞ、どうするんだ」

「あの子はあの子よ。私たちが受け止めてあげないといけないでしょ」


 幼いながらボクの話題で二人がもめているのがわかったし、特に父親の戸惑いが大きいのがわかった。

 父も母もボクには優しく接してくれてはいたが、内心ではボクのことで悩んでいるらしいことがボクの胸を締めつけた。


 着るものも遊びも無理やり押し付けられることはなくなったし、ボクのことを二人が一生懸命に理解しようとしてくれているのがわかっていただけに、嬉しさと共に心苦しさを感じていたのも事実だった。


 変わり映えのしない自分の部屋で、そうした持って行き場のない感情を持て余していたことと、何か変化を求める気持ちが、一歩踏み出すことを決心させたのかもしれない。


 午前零時を回り、また遠くに声が聞こえ始めたのを確認して、昨日と同じように二階の窓から抜け出した。

 今日は昼間のうちに、お気に入りのスニーカーをベッドの下に隠しておいた。

 中学入学のお祝いに買ってもらった黄色のスニーカー。しばらく玄関のシューズボックスにしまい込んだままだった。


 石段の下から見上げると昨日と同じく紫色の雲が見える。その雲に向かって石段を一段一段と上る。

 木の階段の前に立った。

 階段を見上げて、ドキドキする気持ちを抑えるために一度深呼吸をした。


 階段に右足を乗せるとギシっと音が鳴った。左足もゆっくりと乗せたが、踏み抜くようなことはなさそうだ。

 一歩づつ慎重に登ると、二十段ほど上ったところで視界が開けた。


 驚いた。


 こんな真夜中に「夏の市」が開かれている。

 入り口には提灯を吊るした高いアーチが立ち、その向こうには多くの屋台が並んでいて、行き交う人の姿が見える。

 楽しげな声や音はやはりここからだ。子どもたちの歓声や多くの人のざわめきに混じって、笛や太鼓の音が聞こえる。


 去年の夏に家族で来たので覚えている。あの時見たのと同じ風景が、目の前に広がっていた。

 しかし今は三月、夏の市は七月下旬だ。そんな催しものを開く話も聞いていない。


 ここは一体なんだろう。

 ボクの胸は高鳴った。

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