本論

聖論

 キリストは復活してから四十日後、弟子たちに見守られながら昇天したという。

 俺が気力を取り戻してはや一週間。今にも昇天しそうである。


「だーからさあ、金払ってんだからさっさと寄こせっつってんだよガキ。バイトか、お前。どうせ頭悪いとこ通ってんだろお。なあ!聞いてんのか?」


 もちろん聞いている。いや聞こえている。俺の脳はすでにこのいわれのない恫喝を雑音として処理することに決めたようだ。

 目の前の五十代半ばくらいのおっさんは、きっと酔っているのだろう。さっきからゲーセンか何かで使えそうなコインを精算機に入れては弾かれている。・・・・深夜バイトは危険だとよく言われるが、結局今時強盗なんてそうそう現れるわけもなく、つまるところ問題なのは彼のような迷惑客なのだ。まったく対応に困る。妙な勢いでバイトの面接を受けた一週間前の俺を今すぐにでもぶん殴ってやりたい。まあ実際必要ではあるのだ―もちろん金の事もあるがそれ以上に、同窓会に出るために人に慣れておくことは。なにせ大学時代も含めると五年近いブランクがある。それを完全に埋めるのは無理にしても、「少しはまし」くらいにはもっていかなければ。

だからと言ってこれはしんどいけれど。どうしようもない。どうせあと五分もすれば諦めてそのまま寝落ちまでがお決まりのコースだ。それまでは耐えよう。これが最適解だ。


「あーくそやってらんねえ。そっちの不手際だからな。もうここでいいや。ここで飲んでやるよ!」


「ちょっとお客様⁉」


 フラグ回収が早すぎる。埒が明かないと思ったのか、おっさんはついに強行手段にでてきた。彼はまだ会計を済ませていない缶ビールを開けようとレジに身を乗り出してきたのである。さすがにそれは看過できない。これを許せば解雇待ったなしだ。何が何でも止めなくては。


「おい離せ!お前が売らないのが悪いんだろうが!」


「だからそれお金じゃないって言ってるでしょうが!」


「ああ?これのどこが金じゃねえってんだ馬鹿ガキ!丸くてギザギザで、ほらなんかそれっぽいだろうが!」


「あんた絶対わかってやってるだろその反応!素面でそれはさすがに―ん?」


 感覚の不調が、もみ合う俺の手を止めた。なんだ?これ。右側の視界が何かにふさがれてるのか?真っ暗だ。瞼に冷たい感触。これは―金属?

 眼前のおっさんがこちらを凝視して口をパクパクさせている。いや、見ているのはこちら(俺)じゃない。

 背後だ。


「見えますかお客様。これ。お金じゃありませんよね」


 耳元から鼓膜へ直接響くような冷たい声音。おっさんの赤らめた顔はすっかり青ざめて、今にも紫色になりそうだ。頷いているのか震えているのか判別がつかない。


「声出して答えてください。『はい』か『いいえ』か。それとも、もう少し近くで見ないと分かりませんか?」


 そう言って後ろの彼女―同じシフトの女子高生―はさらに強くコインを俺の眼球に押し付てくる。彼女は素で勘違いしているのだろうか。俺とおっさんを。それとも普通に俺の事が嫌いなのだろうか。

・・・・やめよう。不毛な議論だ。彼女は天然記念物級の天然だと、そう思うことにしよう。そうであってくれ頼む。

 ―おっさんは彼女の睨みつけに三分ほど耐えた後で、小さく舌打ちして店を出ていった。あれほど喚いていた割にはあっけない最後だった。虚脱感がすごい。一気に体の力が抜けていく。

 カウンターの縁に腰を預けながら、横目で隣を見る。そこにはすでに何事もなかったかのようにスマホをカタカタ叩いている少女の姿があった。確か名前は廻里津めぐりつと言っただろうか。店長に紹介されたとき、「珍しい名前ですね」と何とも当たり障りのないことを言ったら、心底つまらなそうな目で一瞥された挙句無視されたのでよく覚えている。・・・・こう思い返してみるとやっぱり嫌われているのかもしれない。

 まあフリーターでいかにも不健康そうな二十代半ばの男なんて、女子高生からしたら好きになる要素を探す方が難しいだろう。仕方がないことなのだ。これは。だが心のどこかで微かに希望を持っていただけに多少は落胆してしまう。


「あの」


「は、はい⁉」


 心臓が破裂するかと思った。それぐらい唐突だった。廻里津はいつの間にかスマホから顔をあげ、まっすぐこちらを見つめている。


「気持ち悪いです」


 死にたくなった。

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