第33話 おとぎ話のように
目覚めたくない。目を開ければきっと悪夢のような光景が広がっているに違いない。けれど。たとえそれが事実でも、自分は目を見開かねばならないのだ。それが王たる者の覚悟。
リリアは目を開けた。目の前には黒い鉄格子。床と壁は黒いレンガで、他にはいま自分が寝かされている寝台が一つと、便器があるだけ。決して嬉しい光景ではないが、想像していたほど酷くもなかった。
と、そこに。
「目が覚めたかね」
リリアがはっと顔を向けると、隣にも鉄格子の部屋がある。その寝台に座り分厚い本を読む、恰幅の良い老人。頭にはナイトキャップのような物をかぶり、口周りのヒゲは左右にこれでもかと伸びきっていた。
「あなたは何者ですか」
リリアの問いに、老人は本から目を離さずに小さく首をかしげた。
「難しい質問だね。かつては名前を持ち、社会における立場もあったような気がするが、いまはご覧の通り牢獄の住人でしかない」
この老人は敵なのだろうか、それとも。リリアが困惑していると、老人は口元に笑みを浮かべた。
「酷い目に遭って心がささくれ立っているのはわかるが、他者に何者であるかを問うなら、自らが何者であるかを語るべきではないかね」
この言葉はリリアの胸を打ったようだ。慌てて居住まいを正し、老人をまっすぐ見据えてこう言った。
「失礼いたしました。私はサンリーハム国王、リリア・グラン・サンリーハムです」
「サンリーハム。知らぬ国の名だね。だが世界には私の知らないことの方が多いはずだ。おそらく君の国では、君は尊い存在なのだろう。敬意を集める目をしている」
「あの、ここはハイエンベスタの皇宮なのでしょうか」
そうたずねるリリアに、老人はやはり本から目を離さずに首をかしげる。
「ここは見ての通り牢獄だよ。こんな皇宮などありはしない。ただ、ハイエンベスタの皇宮とまったく無関係かといえば必ずしもそうではない。皇宮とここに物理的な距離はさほどないはずだ。心理的な距離は大きいかも知れないがね」
リリアは少し残念そうな、でも少しホッとした顔を浮かべる。
「私は何故ここに入れられたのでしょう。てっきり殺されるものとばかり」
老人は本のページをめくった。
「ここに入れられたからといって殺されない訳ではない。しかしいますぐ殺すつもりは確かにないのかも知れない。普通に考えるのなら、君に利用価値があるのだろう。連中にとって良い価値があるのなら、それは君にとっては悪い価値なのだけれど」
「連中……ハイエンベスタの皇帝たちをご存知なのですか」
このリリアの言葉に老人は初めて顔を上げてリリアを見つめ、そして目を少し細める。
「君の利発さは
「ご存知のことがあるのなら教えてください」
「知ってどうするのかな。君がいまさら何を知ったところで、ここから外に出ることはもうないというのに」
「私には信頼できる仲間がいます。彼らがここにやって来ることを私は信じています」
「信頼か。自分が信頼だと思い込んでいるものが、実はただの希望的観測であったというのは珍しい話ではないのだがね」
「おっしゃりたいことはわかります。でも、彼らは特別なのです」
リリアの眼差しはこの暗い監獄で見つめるにはあまりに力強すぎる。老人は目を伏せ、本を閉じると静かに語り始めた。
「あれはそう、ほんの五百年ほど昔の話……」
それはまるで、おとぎ話のように。
黒い炎が灯る、ほの暗い空間。全身の羽毛をチリチリに焦がしたヒュードルが頭を抱えていた。
「あのとき、ガドラメルの言葉をもう少し真剣に聞いておくべきだった」
しかしそれを明らかに馬鹿にして、ミャーセルは鼻先で笑った。
「にゃ~にヤケドくらいで深刻になってるにゃ。うちは首ちょん切られたんにゃよ。首を」
「少し痕が残っているだけだろう、くだらない」
「く、くだらにゃいにゃと~!」
ヒュードルの言葉に憤るネコ耳娘を抑えたのは、サクシエルの静かな声。
「私は体をバラバラにされましたけどね。それくらいにしておきなさい、二人とも」
椅子に座ったガドラメルは傷跡の残った体をさすった。
「摂政サーマインにあれほどの能力があったとはな。想定外だった」
「とっておきは最後まで隠しておくものですから」
そう言うサクシエルを、椅子に座ったミャーセルが疑り深そうな目で見つめる。
「で、とっておきと言えばあのお姫様にゃ~けど」
「国王陛下ですよ」
「どっちでもいいにゃ。あれは生かしておいて使えるのかにゃ」
「ランドリオ皇帝陛下がそのように判断なされたのです。疑問を差し挟む気ですか」
サクシエルの声に僅かな緊張が走るが、ミャーセルは平然としたものだ。
「そんにゃつもりは毛頭にゃ~いにゃ。ただ厄災の芽は摘んでおいた方がいいと思うだけだにゃ」
これにヒュードルが問う。
「ヤツらがリリア王を取り返しに来ると?」
「来ないと思うかにゃ?」
ミャーセルは問い返す。一瞬の静寂が場を支配した後、サクシエルはふっと笑った。
「来るでしょうね、身の程知らずにも。おそらくは少数の精鋭部隊を送り込んでくるのではありませんか。しかし監獄の場所も皇宮の場所も知る術はあちらにはない。ならばその精鋭部隊を潰せばすべては終わりです」
「リリア王は最後の一押しのための餌、という訳か」
ガドラメルのつぶやきにサクシエルはうなずく。
「皇帝陛下の御心の深淵まではのぞけませんが、そう考えるのが普通でしょう」
「まあそれはそうかも知んにゃいけどにゃ」
含みのあるミャーセルの言い草に、サクシエルは苛立ち始めていた。
「まだ気に入らないことがあるのですか」
「そんなものにゃいにゃ。ただにゃ~」
「ただ、何です」
にらみつけるサクシエルに、ミャーセルは一抹の不安を感じさせる微妙な笑顔を向けた。
「敵を舐めてこっちが得することにゃんて、何一つにゃいにゃ~って思っただけにゃ」
官民問わず、可能な限りの跳躍術士を王宮が求めている。現時点で報酬は約束できないが、王国サンリーハムの一大事を解消するためである。普通に考えて疑わしい内容の募集なのだが、他ならぬ王宮広報官直々の告知に、広場に集まった人々は顔を見合わせた。
「お祖母ちゃんはどう思う?」
家に戻ったリップ・リップ・ウーが祖母のバリタにたずねると、彼女は笑顔でこう答えた。
「そりゃ参加するさ」
「でもお金もらえないかも知れないよ」
「そう、報酬の約束はできない。それでも助けてほしい、王宮は恥を忍んでそう言ってるんだよ。それくらい大変なことが起きて、それくらい切羽詰まってるってことさ」
だから助けるということだろうか。だが、バリタは日頃から王宮の仕事に厳しい。あれがダメこれがダメと苦言を呈することも珍しくないのだ。そんな思いがリップの顔に出ていたのだろう、バリタは小さく首を振った。
「そりゃ王宮の中には鼻持ちならない連中もいるよ。でも前の王様はみんなに優しかった。いまの王様も頑張って優しくあろうとしてる。それは日頃の行いを見ればわかるだろ。そんな王宮があたしらに助けを求めてるんだ、助けない理由があるかい」
リップには返す言葉がない。人を助けるのは良いことだ、これまで漠然とそう思っていた。だが人には助ける理由、助けない理由がある。それを真剣に考えたことが一度もなかった自分に気が付いたのだ。
「さて、それじゃちょっくら行ってくるかね」
立ち上がったバリタに、リップは慌てて駆け寄る。
「私も行く!」
「おやおや、また失敗して泣きべそかくんじゃないのかい」
「大丈夫だもん! 今度は絶対大丈夫だもん!」
そんな孫の様子をバリタは嬉しそうに見つめた。
「じゃ、一緒にご奉公してこようか」
「うん!」
二人の姿は部屋から消えた。外には音もなく夜が近づき、誰もが家路に急ぐ頃。これからやって来る闇の中で、大反攻が始まるのである。
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