第20話 救いの炎
摂政サーマインの執務室に呼び出されたのは三兵団長とサン・ハーン。サーマインは怒り心頭だった。敵の
何故あのような大きな力を持った者を見逃したのかと責められ、サン・ハーンは平身低頭で謝罪したが、能力者を探すのは武器を隠し持っている者を探すようには行かないと懸命に反論する。
それはまったく的確な反論であると自身も強大な能力者であるサーマインは思ったものの、一度振り上げた拳はどこかに下ろさねばならない。さてどうしたものか。迷ったあげく、サーマインはこう口にした。
「それにつけても情けないのは黒曜の騎士団と蒼玉の鉄騎兵団です」
え? 揃って目を丸くしたゼバーマンと一平太にサーマインは言う。
「王宮内であれだけの騒ぎがあったというのに、誰一人として駆けつけて来なかったのはどういう了見か」
いやいやいや、それはいくら何でも無茶でしょうが。別に駆けつけなかった訳ではなく、駆けつけたときには終わっていたというのが正確なところなのだし。と弁明したかった二人だが、相手は摂政、お気軽に話しかけられる存在ではなく言葉は選ばねばならない。
ゼバーマンが切り出した。
「お待ちください摂政殿。我らは与えられた役目を全うしたまで。騒動に間に合わなかったのは単に距離と時間の問題であり」
「黙らっしゃい!」
サーマインはこれを一喝で退けた。
「これは事実上サンリーハムとハイエンベスタの戦です。戦は結果がすべて。課程を重視して欲しければ事務方にでも転属なさい。これまでの功績を認めて転属願いはいつでも受け付けましょう」
ゼバーマンの顔はみるみる赤くなって行く。摂政があと一言でも彼の誇りを傷つけるようなことを口にすれば、誰にも抑えられぬ大爆発を起こすに違いない。
と、そこに一平太が小さく手を上げた。
「あのう、いいでしょうかね」
サーマインの眉間に深い皺が寄る。
「何ですか、あなたまで言い訳があるとでも」
「いや、そうやなくて。そろそろ定時なんで帰らせてもらいますね、娘を幼稚園に迎えに行かなあかんもんで」
平然とそう言う一平太に、サーマインはもちろん、ゼバーマンもレオミスも、そしてサン・ハーンも唖然とした。
今度は摂政サーマインの顔に血が上る。
「あ、あなたは! 娘を迎えに行くだけのことがそんなに大事だと言うのですか!」
「はい、大事なんです」
一平太は笑顔でうなずくと、そのまま背を向けた。
「ほしたらまた明日」
執務室を出て王宮内を行く一平太の背中に、遠くからサーマインの声が響いた。
「クキーッ! 何なんですかあの男はーっ!」
幼稚園の先生にバイバイと手を振りながら、留美は軽自動車の後部座席に据え付けられたチャイルドシートに座った。もちろん一平太に抱きかかえられなければ一人では座れないのだが、その際まったく嫌がる素振りを見せない。
そんな素直で手のかからない留美に助かると思う反面、ほんの少し哀しみを感じる一平太だった。
車を出してすぐ、小さな交差点で止まると留美がたずねた。
「一平太ちゃんはええことあったん?」
「え、何で」
「何かニコニコしてるもん」
「ええことは何もなかったなあ。今日も仕事場でえらい怒られたし」
信号が青に変わってアクセルを踏む。
「まあまだいまの仕事場に慣れてないからな、しゃあないんやろうけど」
「一平太ちゃん、怒られるん?」
「怒られるでえ。いっぱい怒られる。留美は幼稚園で怒られへんか」
「留美、怒られるようなことせえへんもん」
「そうか、留美は賢いなあ」
一平太がそう言いつつ、路地に左折したそのとき。
目の前に、雷が落ちた。思わず急ブレーキをかけた車内に鳴り響く、不気味なハープのような音。この音は。
「留美、しっかりつかまっとけよ」
一平太の声は緊張している。歩兵竜が出てくる可能性がある。いや、もっと厄介なモノが出てくるのかも知れない。しかしバックホーほどではなくても軽自動車にも戦闘力はあるのだ、降りて徒歩で逃げ出すより生存確率は高まるはずだ。
だが縦に亀裂の入った空間から現れたのは、意表を突く存在。
人影。大きい。背の高さはゼバーマンほどある。だがゼバーマンをこの人影の隣に置いたら、貧相で華奢に見えるだろう。それくらい太い首、太い腕、厚い胸板だった。緑色の肌に長く伸びて折れたモヒカン、そしてあごヒゲ。人間か?
けれど迷いは無用、このパターンで出現した相手が友好的である訳がない。一平太はハンドルを右に切りながら一気にアクセルを踏み込んだ。一瞬のホイルスピンの後、軽自動車は急加速する。その前に人影が回り込んだ。ブレーキは踏まない。このまま跳ね飛ばす!
しかし強烈な衝撃と共に、軽自動車は無理矢理停止させられた。この車にも精霊シャラレドの加護はある。だからバンパーに傷一つついていないし、エアバッグも出ていない。その頑丈な車を、目の前の巨漢は両手で押しとどめていた。
「竜殺しの英雄よ」
地の底から湧き上がるような低く太い声。
「サンリーハムの結界の外に出る愚かな英雄よ。おまえを最初の生け
一平太の足はまだアクセルを踏み込んでいる。なのに前輪は空回りし、車はピクリとも前進しない。巨漢は右腕を振り上げると、拳でフロントウィンドウを殴りつけた。もちろんシャラレドの加護がある以上、ガラスが割れるはずもない。それを確認すると巨漢はニヤリと笑った。
「なるほど強烈な精霊の加護があるな。ではこういうのはどうだ」
巨漢が何を言っているのか、しばらく一平太にはわからなかった。だが。
「冷たっ」
踏ん張っている左足のかかとに氷水のような冷たい感覚が流れ込んでくる。左足を動かせばピチャピチャと水の音。それがどんどん高さを上げていた。
巨漢は言う。
「精霊の加護を突破しておまえをそこから引きずり出すのは至難の業だ。しかしおまえの精霊は水を操ることはできまい。ならば指を咥えて眺めているしかない訳だ、おまえがそこで
一平太は窓を開けようとした。けれどスイッチが反応しない。ドアを開けようとしても開かない。まるで接着剤で封じられたかのように。水はもう腰の高さまで来ている。アカン、留美だけでも助けんと。一平太は振り返って声をかけた。
「留美、大丈夫か、留美!」
返事はない。クソ、一平太はシートベルトを外し、ダッシュボードから赤い脱出用ハンマーを取り出した。そしてシートを倒して後部座席に移る。留美はチャイルドシートで気を失っていた。
一平太はハンマーで後部座席の窓ガラスを叩く。だが割れない。
「シャラレド! 加護を外せ!」
そう叫んでもう一度叩くが、やはりガラスは割れない。
「無駄だ」
巨漢の低い声が笑っている。
「この機械はすでに我が水の結界に捕らわれている。いまさらおまえの精霊が加護を外したところで、その窓は決して割れぬよ」
水は胸の高さまで来た。一平太は留美のシートベルトを外して抱き上げているが、もう天井まで空間は僅かしかない。どうしたら、どうしたらええんや。一平太の頭は混乱している。
そのとき、留美の目が開いた。
途端、世界が赤くなった。車の外が炎に包まれている。
「ぐおおおあああっ!」
炎の中で巨漢が苦しんでいた。
「馬鹿な、こんな……誰だ……おまえたちは誰だ!」
この叫びを最後に巨漢は消えた。同時に周囲を取り巻いていた炎も消え去った。後部座席のドアレバーを引けばドアが開き、一斉に水が流れ出す。留美を抱えて放心状態の一平太に、声をかける者が。
「おいネギ! イッペイタ! 無事なのか!」
ああ、ゼバーマンや。そうか、助かったんか。助けられたんやな。一平太は笑顔を浮かべて、そのまま意識を失った。
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