第4話 鋼鉄の腕

 いつもなら仕事から帰れば即、留美のいる幼稚園へと車を飛ばすのだが、幼稚園にも時間割の都合というものがある。今日は仕事が早く終わったために、時間的に余裕があった。たまにはシャワーを浴びて綺麗になってから迎えに行くのもいいだろう、一平太にそんな気持ちがあったからこそ滅多に点けないテレビを付けたのだ。


「……今回の緊急避難指示、また範囲が拡大した訳ですが、この点どう思われますか」


 アナウンサーがコメンテイターに話の水を向けている。ああ、そう言えば現場監督が避難指示がどうとか話してたっけか。でもあの辺からここまで結構離れてるしな。そんなことをぼんやり考えていると、コメンテイターがテレビの中でこう言う。


「この緊急避難指示ですね、気象庁が発表したものではなく、政府が発表したものなんですね。しかしJアラートも活用されていない。まことにもって意味不明としか言いようがありません」


 その言葉を終えるのを待っていたかのようなタイミングで、テレビにテロップが流れる。また避難指示の範囲が拡大したらしい。一平太の目が動きを止めた。新たに加えられた避難指示区域には、留美のいる森畑幼稚園がある。


 嫌な予感が走った。スマホをポケットから取り出せば、電源スイッチを押しても何の反応もない。故障じゃなければ充電切れ。一平太にとってスマホは遊び道具ではない。朝から晩までやることだらけの彼にとってスマホはただの電話なのだ。しかしだからこそ、バッテリー残量など数日に一回しか気にしない。その結果がこれである。 


 アホか! ボケカス! 自分自身をののしる言葉が頭の中を駆け巡ったが、いまはそんなことをしている時間さえ惜しい。一平太は軽四のキーを手にマンションの外へと走った。




 空に浮かぶ血の色のアーチは目的地にまっすぐ向かうのではなく、道路地図を読み取っているかの如く、つまりカーナビのように中ノ郷のセダンを誘導し続けた。しかしそれもどうやらここが終点のようだ。


 薄汚れた二階建ての一軒家。その二階の窓が破壊されていた。その穴から出入りする無数のハエ。何かが起こっている、いや、すでに起こった後なのかも知れない。


「ここから出ないように」


 中ノ郷にそう言うと、レオミスは車を降りた。


 まだ気付いていない? いや、そんなことはあるまい。こちらが動くのを待っているはずだ。レオミスは聖剣ソロンシードに手をかけ、浮遊魔法を念じると、トン、と地面を蹴った。


 途端に窓の内側から飛び出す大型歩兵竜。血にまみれた大口を開けて絶叫と共にレオミスに襲いかかる。その鼻先にソロンシードの一撃をくらわせるが、元より抗魔法鎧で覆われているだけではなく、宙に浮いているために踏ん張りが効かない。レオミスの体は無情にも弾き飛ばされた。かに思えたのだが。


 飛んで行く哀れな敵に追い打ちをかけようと大型歩兵竜は宙を駆けた。しかしレオミスは空中で回転し、一瞬電柱に足を止めるとバネのように跳ね返り、飛行する大型歩兵竜の下に潜り込む。抗魔法鎧は頭部と胸、腹を覆っているが、下腹部はむき出しのままだ。


 ソロンシードの一閃、大型歩兵竜の下腹部から尾にかけてを一直線に切り裂いた。敵は血を吐くような叫び声を上げて地面に落ちる。路駐していたワンボックスにバウンドし、金属製の門扉を突き破って止まった。


 そのすぐ近くでガス管の交換工事をしていた作業員が驚き目を丸くする。


「な、何や! 何やこれ!」


 作業員たちを餌と認識したのか、大型歩兵竜は頭を持ち上げ吼えた。命の危険を感じた作業員たちが意味不明な言葉を叫びながら逃げ出したのも無理はない。


 並みの歩兵竜なら致命傷の一撃だったが、体が大きな分だけ傷は浅いのかも知れない。すぐにトドメを刺さなければ。駆け寄ったレオミスの耳にそのとき聞こえたのは、小さな子供たちの大きな悲鳴。思わず目をやれば、建物の窓に十数人の子供の顔が並んでいる。


 レオミスは幼稚園というものを知らない。だがこの子供たちの集団に気付いた歩兵竜がどう動くかは予想できた。


 その一瞬を突くように大型歩兵竜は飛び上がり、下腹部から大量の血を噴き出しながら子供たちに突撃した。レオミスが前に回り込むことができたのは限界いっぱいに魔力を消費して高速移動をしたことと、歩兵竜の出血が想像以上に体力を奪っていたこと、この二つが重なった僥倖ぎょうこうと言えた。


 聖剣ソロンシードが敵の喉笛を突く。鎧があるため刺さりはしないが、短時間なら相手の動きをある程度制御できるだろう。レオミスは背後に叫んだ。


「いまのうちに子供たちを建物の奥へ!」


 しかし泣きわめき逃げ惑う子供たちをすぐには一方向に動かせない。やはり自分が何とか倒すしかないか、そうレオミスが思った瞬間、左手のひらの傷がうずいた。それが少し、ほんのごく僅かに握力を削いだのかも知れない。大型歩兵竜は首を振って聖剣の切っ先をずらしたかと思うと腕を振り回し、レオミスの顔を殴り飛ばした。


 レオミスの視界の中で、すべてはスローモーションで動いて行く。飛ばされる自分の体、勝利を確信した敵の目が笑っている、いけない、このままでは子供たちが、だがもう魔力が……


 そのときである。


 うなる鋼鉄の腕が大型歩兵竜の顔面を殴り飛ばしたのは。




 一平太の軽四が森畑幼稚園の前に到着したとき、その入り口門扉はグシャグシャに潰れていた。あまりのことに思考が止まり、立ち尽くす一平太の耳に子供たちの悲鳴が聞こえる。


 見れば一般的な大人の人間より二回りは大きい『怪獣』が幼稚園に迫っていた。意味がわからない。非現実感と命に関わる恐怖が体を凍り付かせる。そのとき、また聞こえた悲鳴。留美が……危ない。留美が危ない? 留美が危ない!


 別の意味での恐怖が一平太の凍り付いた肉体を溶かした。いますぐあの怪獣に飛びかかろうかとも思ったものの、さすがに素手では無謀だとわかるくらいの判断力は残っている。何かないか。何か道具は、武器は。


 一平太の目にそれが映ったのは、単なる偶然だったのかどうか。ガス管の工事だろうか、さっきまで道路を掘削していたのであろう黄色いバックホー。エンジンもかかったままだ。やれる、これなら使える!


 迷わず乗り込み正面の二本のレバーを押し込む。右脇のボタン式のスロットルで高速を選択する。が、遅い。毎日バックホーを使っているのに、こんなに遅いと感じたことは初めてだった。


 それでもバックホーは着実に進む。何とか怪獣の背後までやって来た。怪獣は何かと争っているのか、まだこちらに背を向けたままだ。この距離ならアームの先端が届く。一平太はクローラー(無限軌道)を左右逆回転させながらボディを回した。

「行けえええっ!」


 うなる鋼鉄の腕が怪獣の顔面を殴り飛ばす。衝撃でバケット(ショベル)が飛んだ。怪獣の巨大な体が斜めになり、ゆっくりと、地響きを立てて倒れ込む。一平太はそのとき初めて、若い女が倒れていることに気付いた。白く長い髪の、変わった格好をした女。誰だろう、幼稚園の先生とも思えないが。


 しかしそんなことを考えていられたのもそこまで。怪獣が起き上がろうとしている。まさか、人間だったら首が飛ぶくらいの衝撃だったはずだぞ。これで死なないなんてアリかよ。動揺する一平太の目の前で、怪獣は立ち上がった。フラフラだ。けれどその目は殺意に輝いている。いったい、どうすればいい。パニックになりそうな一平太の耳に、突然声が聞こえた。


「助けてほしいかい」




 大型歩兵竜は殴り倒された。何だあれは、大きな鉄の腕のような物。人が操っているのか。薄れ行く意識の中で、だがレオミスは危険を察知していた。大型歩兵竜は出血で弱ってはいるが、ただ殴っただけで倒せるほど脆弱ではない。聖剣ソロンシードならトドメを刺せるというのに、魔力を使い果たしたこの体はもう動かない。ならば残された手は。


「……リュッテ」


 レオミスの顔の近くに小さな気配が立つ。


「今日はよく呼び出しがかかる日だね」


 精霊の軽口に反応していられる余裕はすでにない。レオミスは言った。


「頼みがある」


「いやいやいや、精霊との契約は神聖なモノだよ。あまりお安く考えてほしくないなあ」


「あの男に精霊の加護を与えてほしい。私の血なら好きなだけ持って行け」


「ああそうなの。じゃあ死んじゃうくらいもらっちゃおうかなあ」


「構わない……おまえが、希望なんだ……頼……む」


 レオミスはそのまま意識を失ってしまった。


「やれやれ、精霊使いの荒い。ま、今回限りの特別大奉仕ってとこかな」


 そうイタズラっぽく言い残すと、小さな気配は消えた。

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