食べる。

白河夜船

食べる。

 ここのところ毎晩、厭にリアルな夢を見る。古い、大きな家の座敷牢に閉じ込められている夢だ。しかし夢の中の僕が頑なに座敷牢だと信じ込んでいるそこは、目覚めて思い返してみると、どう考えても学生時代に住んでいた狭苦しい安アパートなのだった。

 部屋には僕以外にもひとり、人がいる。


「兄さん」


 彼のことを、僕はそう呼んでいた。現実には兄などおらず、兄と呼び慕う人物も特にいない。だというのに夢の僕は、彼が実の兄であることを疑わず、極々当たり前にその存在を受け入れていた。兄さん。起きてから呟いてみると、ずっと昔から親しんできた言葉のように、その一語が舌に馴染んだ。

 兄さんは気さくで優しい青年だった。いつも朗らかに笑っているが、ふとした瞬間真顔になると、面立ちが整っているせいか冷ややかな彫像めいた印象を受ける。ある日、その彫像めいた真顔で俯いて、兄さんは自分の小指を口に含んだ。白い歯が肉に突き刺さり、「あ」と思う間に、左手から小指がすっと噛み千切られた。傷口は鮮やかに赤いが、血は一滴も滴っていない。

 右掌に唾液に濡れた左小指を吐き出して、兄さんはにっこり笑んだ。何も言われなかったが、何を求められているかはすぐに分かった。だから僕は兄さんの指を食べたのだ。唾液の絡んだ肉は瑞々しく、柔らかく、骨や爪は軽やかに砕け、天上の果物の味がした。

 それからである。

 夜毎、兄さんは僕に躰を分け与えるようになった。少しずつ、少しずつ、僕は兄さんの躰を食べた。指を手を足を骨を小腸を大腸を胃を肺を肝臓を膵臓を心臓を。兄さんの指がなくなった後は、ナイフや歯を用いて僕自身が兄さんの躰を切り取って食べた。食べて、食べて、食べて、食べて、食べて、食べて―――食べている間は幸福だった。兄さんは美味しかったから。

 しかし、食べるほど兄さんは小さくなる。減っていく。いずれ、いなくなってしまうだろう。好物を食べ終えた後の淡い名残惜しさと満足感の裏側に、兄を喪失する悲しみが重く沈んでいるのが辛かった。

 食べたくない。でも食べたい。

 食べてくれと兄さんも望んでいるではないか。

 僕は食べた。食べ続けた。やがて、兄さんは一個の生首になった。

「兄さん」

 囁くと、兄さんは笑った。言葉はなかったが、僕は兄さんの表情に込められた全てを察して、その唇に齧り付いた。殊更に柔らかい肉が口内でとろりと溶けて、芳醇な甘さが舌いっぱいに広がった。美味い。


 頬肉、歯、舌、顎、耳、鼻、髪、頭蓋、脳味噌………


 食べる。食べる。食べる。

 最後に残ったのは、いや残したのは、目玉だった。兄さんの黒い瞳を見詰めながら、一顆頬張る。飴のようにゆっくり転がしていると、目玉はだんだん小さくなって、甘美な余韻を仄かに残して口中からすぅっと消えた。

 翌日も同じように。しかしもう残っているのは一顆だけ。その一顆を口に含むわけだから、僕の視線は自分しかいなくなった寂しい部屋を虚しく彷徨うばかりであった。


 食べた。食べ終えてしまった。


 その日から僕はあの部屋の、座敷牢の、兄さんの夢を見なくなった。元通りの日々に戻ったのだ。しかし胸にはぽっかり穴が空き、躰の一部が欠けてしまったような薄ら寒さが、頼りなさが、悲しさが時折ふっと背筋を震わせた。

 僕は兄さんを永久に喪った―――――

 自室でぼうっとしながら、兄さん、と舌に馴染んだ一語を呟いてみる。不意に肚の内がぞろりと動いた。はっとして今度ははっきり、「兄さん」と呼ぶ。ぞろり。また、また!


「兄さん」


 僕は己の肚をそぅっと撫でた。動いている。蠢いている。嬉しくて、懐かしくて、愛しくて、思わず顔が綻んだ。


 兄さん。

 兄さん。

 兄さん。

 そこにいたのか。よかった。

 あの部屋から、出られたんだね。

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食べる。 白河夜船 @sirakawayohune

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