第226話 退院
「三田先生、ちょっとどいてください」
看護師の相原恵美が、研修医の大輔にシッシッと手を振った。
「いや、ここ俺のデスクだから」
抵抗を試みる大輔だったが、そんなものは何の役にも立たない。
恵美はエタノールクロスを手に、容赦なく大輔のデスクをごしごしと拭いていく。
ここはUNH国連宇宙軍総合病院の医局である。大病院の医局はおしなべて雑然と散らかっている。もちろん、専門の清掃員がいる上に、男女2名の医局秘書が、この場所を清潔な状態に維持しようと努力はしてくれている。にもかかわらず、なぜかすぐに散らかってしまうのだ。よくあるのが、コーヒーのこぼした跡や放置された飲みかけのコーヒー、食べかけの菓子やコンビニ弁当、そして医局のシンクには、ふやけたラーメンが捨てられていたりする。最も恐ろしいのは冷蔵庫の中の消費期限切れの諸々だろう。だがこれは、いちがいに医局の医師がズボラだと言うことではない。コンビニ弁当で昼食、または出前のラーメンが届いたまさにその時、担当患者に急変が起こったりするのだ。全てをそのままに、医師は患者の元に駆けつける。医局に残る惨状は推して知るべしだ。
「三田先生のデスク、特に汚いんですから」
そんな医局の中、せめて素粒子内科の担当医師のデスクだけでも清潔にしたい。牧村医師が、ついにナースの恵美にヘルプを依頼したのだ。
『こんなこと頼んでしまって、本当にごめんなさい。医局のデスク、本当に汚いのよ。特に三田先生!』
大輔のデスクは、牧村の名指しだった。
「違うんだって!」
「何が違うんですか? はい、この雑誌とか、どけてください!」
「いや、このデスクが汚れてるのは、長谷川先生のせいなんだってば」
長谷川潤子は、研修医である大輔の指導医だ。
彼女はなぜかいつも、大輔のデスクで食事をとる。どうしてなのか困惑した大輔は、一度潤子に聞いてみたことがあった。
「先生、どうして自分のデスクで食べないんですか?」
「当たり前だろ青年。そんなことをすれば、私のデスクが汚れる可能性があるからだ」
潤子のその言葉に、大輔は文字通り開いた口がふさがらなかった。
デスクの上に雑然と散らばっている医学雑誌をテキパキと片付け、ブックエンドに立てていく恵美。そして開いたスペースを、エタノールクロスでごしごしとやる。
こりゃいいお嫁さんになるなぁ。
いや、今の御時世そんな言い方をするのは良くないか。
なんて、特に今考える必要のない事柄を思いつつ、大輔はあわててデスクの上の大切なファイルを確保した。
山下美咲の入院日誌だ。彼は今、これをまとまった資料にするためのデスクワークに励んでいる。
「それって山下さんの?」
「ああ。これをしっかりとまとめたら、研究の一助になると思うんだ。まぁ、牧村先生の指示だけどね」
正確には、牧村の指示を受けた長谷川の指示ではあるのだが。
「そう言えば山下さんて、今日?」
「ああ、退院だ」
「山下さん、髪伸びましたね」
山下美咲は、牧村医師と長谷川医師と共に、素粒子内科の診察室にいた。
美咲は惑星調査船サン・ファン・バウティスタ号の元副長だ。なぜ「元」なのかと言うと、サン・ファン号が地球に帰還したのが今から約二年前のこと。地球到着時に袴田素粒子に感染していた彼女は、それからずっとこの病院で眠り続けていた。そして彼女は、袴田素粒子のアイをその頭脳に宿したまま意識を回復したのだ。
「二年も切ってませんからね。早く美容室に行きたいです」
美咲がニッコリと笑う。
人の髪は平均すると月に約1センチ伸びていく。つまり、美咲の髪は二年の入院で約24センチも長くなっていた。副長時代にショートだった髪が、今ではつややかなロングになっている。
「このまますぐに指揮所ですか?」
牧村が少し心配げな声でそう聞いた。
「そうです。私もアイくんも、早くお役に立ちたいので」
美咲がすでに感染源にはならない状態であること。
アイが危険な存在ではないと思われること。
それらを総合的に判断し、美咲は対袴田素粒子防衛指揮所に勤務することになっていた。センドラル墜落の一件以来、アイはあまり表に姿を見せなくなっているが、継続して袴田素粒子の動向を調べてくれている。その結果をいち早く知る、という意味でも彼女の指揮所勤務は妥当な判断だろう。
「何かあったら、遠慮せずにすぐに私か長谷川先生に連絡してくださいね」
「ありがとうございます」
なにしろ二年の入院だ。つきっきりで世話をしてきた二人の医師にとって美咲は、すでに家族のような存在でもあった。
「先生たちも、指揮所に遊びに来てくださいね」
「そうですね。でも多分、お仕事でもうかがうことになりそうなんですけどね」
陽子は潤子に視線を向けた。潤子がちいさくうなづく。
「袴田教授が新たに開発したY素粒子センサーを使った実験ですが、多分指揮所で行われそうなんです。そうなると、ここからも誰かが行くことになります」
「そうなんですね!その時はよろしくお願いします!」
美咲の顔がパッと明るくなった。
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