いなくなったものは……
「彼なら、我々が起きたときにはもういなかったよ。これを残してな」
広間に入ったわたしへお父様が見せたのは、何かの羊皮紙の裏紙。
『感謝する。 クリス』
それだけが、黒いインクで書き込まれていた。
「夜のうちに部屋の窓から出ていったらしい。もう少し色々聞き出したかったのだが……」
「しかし、いつまでも彼を手元においておくわけにもいかないでしょう。むしろ自分から出ていって、面倒が省けたとここは思いましょう。……さあ、とりあえず朝食にしますよ」
マゼロン侯爵の一声で、わたしやお父様も席につく。
出されたパンは、昨日クリスが出してくれたものと同じやつだった。
……なんで悲しんでるのだろう。
そもそもクリスと会った事自体が偶然なのだ。
通りがかって、たまたまちょっと仲良くなったぐらいの人。
例え望んでも、そもそもずっと一緒にいられるような人ではない。
一緒にいられる理由はない。
別れるのは仕方ない。クリスはマゼロン侯爵家やファイエール子爵家にとっては、完全に味方というわけでもないのだから。
……でも、クリスに守ってもらえた一晩は、新鮮だったかな……
「アリア。どうした? もしかして、朝食の量が少ないから不満か?」
「いえ、お兄様。決してそのようなわけでは……」
いつの間にか、食べる手が止まっていたらしい。
隣に座る兄が、わたしの皿を覗き込んでくる。
元々わたしはそんなに食べるタイプじゃない。これぐらいの量がむしろちょうどいい……
「……でも確かに、一昨日より少ないですね……」
3個あったパンが2個になっている。干し肉を使ったパイも、一昨日より明らかに一回り小さい。サラダやスープもなんだか薄味だ。
「すみませんが、これも仕方のないことです。今の状況では、食材を仕入れる目処が経ちません。しばらくは、在庫の食材を切らさないように慎重にならざるを得なく……」
マゼロン侯爵がそう言って、軽く頭を下げる。
「いえ、侯爵様が謝ることはございません。むしろ、そのような状況で我々のための食事まで用意していただくなんて……」
お兄様の言うとおりだ。それに、普段のファイエール家での朝食に比べたら、彩りも豊かで十分過ぎる。
「こうなってしまっては、我々も協力していかないといけません。明日どうなるかさえわからない状況ですから、細かいことは置いといて、何ができるかをまず考えていきましょう」
「ありがたい御慈悲を……ファイエール家一同、この御恩は忘れませぬ……」
お父様が深々と頭を下げる。
クリスも言っていたけど、マゼロン侯爵家の下についている限り、すぐ何かやられる、ということは無いと信じたい。
お父様も革命に真っ向から反対しているわけではないようだ。元々貴族特権をむやみに振りかざすような人では無かったし、まあ予想はついていたが。
「そういう意味では、食料というのはどれほど手に入りづらい状況なのですか?」
「うむ、まだ正確な情報は入ってきてないが……すでにパンや野菜などの値上がりが始まっているらしい」
マゼロン侯爵は苦しい顔つきになる。
「買い占め……ということですか」
「でしょうな……やはり商人の情報網は早い。革命によって内戦状態になることを見越していたのかもしれません」
「でもそれって……庶民も食べ物が手に入らなくなる、ということでは?」
「ああ、アリア。そのとおりだよ」
わたしの疑問に、兄が優しく答える。
「とはいっても、多くの商人は革命に対して極端に平民寄りではない。ある程度平民が困っても、自分たちの利益が確保できるなら知らんぷりかもな」
「ポーレットの言う通りだ。しばらくは、何も気にせず食事にありつけることは少ないだろう」
……これも貴族特権が失われた結果だ。
なんだか、今後の行く末を暗示しているかのようである。
***
……わたしはそれから、マゼロン侯爵家の屋敷から出られない日々が続いた。
わたしだけでなく、お父様も兄も、屋敷から出ることはなかった。
マゼロン侯爵には時々馬車で迎えが来ていて、どうやら貴族議員への誘いの件に関してニッペン商会や、他の革命勢力側の貴族と会っていたらしい。
一回だけ外でクリスを見かけたことも話してくれた。本当にちらっとだったらしいが。
その間、わたしは暇になると、度々屋敷の2階へ上がりバルコニーへ出た。
見えている光景は、わたしが初めて王都に来た日と、そんなに変わっていない。
ただ、やっぱり街にいる人の数は増えた気がする。
たまに馬車が行き交うのも見えた。
あと、兵士を見るのも増えた。
きっと革命勢力側の兵士が、街を巡回しているのだろう。
宮廷貴族やその残党がいないか。それ以外にも不審な人はいないか。
一度、住民同士の喧嘩を兵士が仲裁しているのも見えた。街の警備も兼ねているのだ。
ただ、やっぱり全体として情勢は落ち着いていないらしい。
「お父様、わたしたちはいつ領地に戻れるのでしょうか……?」
「いや、もうしばらくは無理だろう」
そういうわたしとお父様のやり取りも、何度かあった。
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