第五話

 姫が東宮に入内するかもしれないと都に噂が飛び交った。


 それもそのはず、父君の左の大臣が今上様に奏上したからだ。大君を東宮妃として、入内させたいと。大君とは紛れもなく、楓姫の事だが。今上様は驚きながらも否やとは仰せにならなかったらしい。

 けど、大君は交野少将と婚約していたのでは?と困惑なさってはいたが。左の大臣は、「姫は覚悟を決めています」とだけ申し上げた。

 これにより、楓姫の入内は決定事項となる。後は、東宮妃としての準備だけだった。


 聞かされた交野少将は、気が気でない。まさか、あの自身に惚けていた姫が東宮に入内を決めるとは!

 口惜しさと驚きに体を震わせながら、脇息を乱暴に叩く。 


(あの姫、なかなかにやってくれる。やはり、さっさと手に入れておくべきだったか)


 そうは思ったが、雲上人になる姫はもはや手が届かぬ存在。今、自身が手出しをしても破滅の道が待っている。それを物ともせずに、姫を連れ去るか。否、やはり無理だ。あの姫にそこまでの思い入れはない。交野少将は改めて、逃した魚は大きいと知らされたも同然だった。

 

 楓姫は、交野少将に婚約を破棄する旨を文に綴っていた。申し訳なさはあるが、これで良かったのだとも思う。聞けば、東宮様は穏やかで優しい方らしい。最初から、外見の美しさに惑わされずに中身を見れば良かったのだ。自身の愚かしさに吐き気がする。

 あの時の交野少将は確かに美しかった。けど、それだけだ。姫はそう、回顧しながら文を書き終える。静かに瞼を閉じた。さようなら、交野様。わらわはあなたの事はこれきり、忘れる。だから、あなたも元気での。

 そう胸中で呟き、瞼を開ける。もう、激しい恋情の炎はない。けど、東宮様とは穏やかな良い関係を築いていこう。

 決意を秘かにして、女房を呼ぶのだった。


 交野少将に文を送り、姫はやっと肩の荷が下りたと思った。後は入内の儀式を待つだけだ。楓姫はその日を指折り数えた。


 交野少将から、返事は来なかった。これで良いのだ。姫はほうと息をつく。


「姫、月の光を浴びてはなりませぬ」


「そうでありましたな」


「さ、中に」


 母君や女房に急かされて、中に入る。夜空に浮かぶ月は煌々と闇を照らす。やはり、こちらの方が美しい。しばらく見惚れた。

 が、女房達が蔀戸を閉じてしまう。仕方ないので中に入った。


 楓姫はとうとう、入内の日を迎える。居所は東宮御所である梨壺に決まった。儀式を経て、楓姫は後宮に居を移した。


「……ああ、女御。やっと、会えたな」


「……初めてお目もじ致します、宮様」


「私の事は様はつけずとも良い」


 東宮様は気さくに笑う。姫は不謹慎にも、胸が高鳴るのを感じた。東宮様は交野少将など霞む程には威厳があるし、優美な方だ。お顔立ちも何なら、美男だし。


「どうかしたか?」


「何もありませぬ」


「そうか、なら。良いのだが」


 東宮様はからからと笑う。姫は袖で顔を隠しながらも自身の変わり身の早さに呆れるのだった。

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