人それぞれ

 かなり以前からなのですが、いつ頃からか「人それぞれだろ。押しつけんな」といった言い回しを多く見かけるようになりましたね。かつては「個性」の名の下に平然とルールを破り、「個性」の名の下に皆で同じ格好をしている姿を、当時の私は幼いながらに冷ややかな目で見ておりました。


 とはいえ今回の話とは、あまり関係ございません。少しは関係がありますので、あえて頭に持ってきたわけではあるのですが。


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 この〝近況ノートの切れッ端〟なのですが、表のノートに書けないことを書き連ねるという体裁ではあるのですが、だからといって何でも投稿できるというわけでもありません。なかには過激すぎて投稿を差し控えているものや、無用な軋轢を生みそうであったがために、投稿を見送ったものも多く存在しています。


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 じつは私は数ヶ月前から、ある作品のレビューをしたく、すでに下書きを用意していたりもするんですよね。もちろん良い意味でのレビューですよ。そもそもカクヨムのレビューは〝レビュー〟という一般名詞ではなく、〝おすすめレビュー〟という固有名詞であります。おすすめレビューを書かなければいけませんからね。


 なのですが――。その作品および作者さまと、私のフォロワさまとの間には〝確執があるのかもしれない〟と感じており、投稿を見送っていたんですよね。



 もちろん、そんなことは気にする必要はないのかもしれませんが。私自身、ある元・フォロワさまが〝星消しの悪魔と真摯なる創作者〟に登場する作品へのレビューを投稿された際に、反射的にフォローを解除してしまったんですよね。


 それと同時に「私はあなたへのレビューを書いたこともあるのに、あなたは私はスルーするどころか、私の敵であるそいつへのレビューは書くというのか。いくら親しげに話しかけてくれたとしても、結局そういう対応を執るわけだ」――と、普段は思いもしなかったような、どす黒い感情が湧き出してきてしまったというわけです。


 ああ、普段はこんなことを思ったりはしませんけどね。やはり感情的になると、予期せぬ行動を取ってしまうものです。自戒しなければなりません。


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 そういった理由もありまして、〝このレビュー〟は控えた方が良いのではないかと。迷いに迷い続けた末、ずっとお蔵入りにしているというわけですね。


 しかし、その作品を読み続けるにつれ、やはり私の中での評価は上昇する一方でして、どうしても感謝と喜びを、どこかで発散させたいなと。


 負の感情の発散は生きるうえで必要なことですが、嬉しさや喜びといった正の感情も、同様に発散させる必要があるのです。しかし私の〝正の感情の発散〟が、どなたかの〝負の感情〟の蓄積を誘発させてしまうことは出来れば避けたい。


 もしかすると当のご本人は、私が思うほどの確執や因縁を抱えているわけではない。そう思い込もうともしていたのですが、やはり私の危惧したとおり、むしろそれ以上に、当のフォロワさまは大きなものを抱えておられるようでした。


 念のために申しあげておきますが〝フォロワ〟ですからね。フォロワリストは外部からは閲覧できません。むやみに詮索する方はおられないとは思っておりますが、予め明確にさせていただきます。よろしくお願いします。


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 先に述べました〝お蔵入りにした切れッ端〟の内容なのですが、それは2024年の5月14日に投稿予定のものでした。この時の私はかなりの精神的ストレスを抱えていたのですが、それでも〝この内容〟を投稿してしまうのはリスクの方が勝ってしまうということで、踏みとどまったんですよね。


 結局三日間ほど悩んだ末、〝紙片:誰がための物語か〟と〝定期的に襲ってくるカクヨム疲れ〟の二つに分割し、内容も散文詩風にしてみたり、ぼかすような書き方へと変更した上での投稿を行ないました。



 ちなみに元々投稿予定だったタイトルは〝心はひとつにはならない〟といったものでして。たとえ和気藹々と一緒に何かに打ち込んだとしても、全員が楽しく笑っているとは限らない。裏では憎しみを抱いていたり、気に入らないと思いながらも褒めあったりもしているものだ。そのような感じの内容となっておりました。


 ええ、この時の精神不安には、どうしても過去の成功体験が深く関わってまいります。私がカクヨムにて〝正の感情〟を抱いたのは、あの時がはじめてでしたからね。その確固たる礎が跡形もなく消失してしまった以上、私には何も残されていない。絶望の淵から這い上がろうにも、掴むものは何もない。まさにそういった状態でした。


 たとえ元々は私のファンだった人が、私の最も嫌いなタイプの人のファンになってしまったとしても。とても尊敬している人が、私の好きな作品を激しく憎んでいたとしても。所詮は「人それぞれ」ですので、私は受け入れる以外ありません。


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 私は度々述べておりますとおり、批評企画や感想企画といったものを深く尊敬しております。もちろんこれは書き手として、そして読み手としての評価であるために、私が批評する側やされる側に実際に立つことになると、評価は変わるかもしれません。私もろくに内容を読まず、コメントだけを見てくだらないツッコミを書き込んでくる人には激しい憤りを感じますからね。


 批評する側、もしくはされる側という位置に実際に立たれた方からすれば、「これは許せない」もしくは「とても助けられた」といった評価は当然出てくるものだと理解できます。書き手にも読み手にも評者にも、それぞれに信念があって当然です。



 昨年のカクヨムコンの以前あたりまでは、カクヨムにも多くの批評企画やそれをまとめた作品があり、私も勉強のため、そして単純に読み物として楽しむために、これらの批評やコメントなどを読みあさっておりました。


 お名前を出すわけにはいかないのですが、ざっと数えただけでも六名の評者がすぐに思い浮かびますね。しかし現在も批評活動をされておられるのは、なんと誰一人残っておりません。なかにはカクヨムコンを機に連載中の作品が大いに評価され、批評よりもそちらへ注力されておられる方もおられるのですが、カクヨムを退会された方が二名、活動休止された方が二名、心が折れてしまわれた方も一名おられます。



 現在のカクヨムでも時おり、自主企画での批評や感想を見かけはするのですが。理由はわからないのですが最近のものは、批評内容を嘲笑い、聞き入れるつもりもないのに参加する〝批評カウンター〟や、逆にコメントをくださった方への個人攻撃や人格否定を行なう〝悪質投稿者〟の姿が多く目立っております。なぜなのでしょうね。


 そんな中、まともに批評を行っている企画と言えば私が知る限りでは三つ、すなわち三名の方がおられますね。そのうち一つは実質的に固定客専門となっており、部外者である私には、あまり参考にはなりませんでした。


 もう一つは熱の入った批評をされておられるのですが、そのぶん扱っている作品数が少なく、外野から勝手に見ている私のような読者からすれば、少々読み応えに欠けてしまいます。また作品という形式ではなくコメント欄を利用したものであることも理由の一つですね。


 そして三つめなのですが、これが個人的には最も読み応えがあり、参考になる部分も多いんですよね。



 じゃあ、それの何が問題なのかと申しあげますと、それが件の〝レビューを書きたかった作品〟なのですよね。つまり私がレビューをしてしまうことによって、確実に嫌な思いをされてしまう方がおられるということです。


 もちろん批評内容は、完璧には程遠いとは思います。代弁するつもりはないのですが、おそらく真剣に批評をされる方から見ても、かなり粗が多いものだと推察されます。以前に〝定期的に襲ってくるカクヨム疲れ〟にて、尺度の話を述べたのですが、この方はウェブ小説とファンタジーの定規しかお持ちではありません。批評文そのものの文法も間違っておりますし、すべてが的を射ているというわけではありません。


 したがってこの方が良い評価を下しておられなくとも、別の尺度から読めば名作であることも多いです。実際、私もこちらの企画を機に興味を持ち、読み始めた作品も多くありますし、読む予定でブックマークをつけている作品もあります。



 なぜその作品にこれほどまでに入れ込んでしまっているのかと申しますと。あくまでも作品創りということに関しては、その書き手様はおそらく、私と似たような考え方を持っておられると感じたからですね。もちろんクリエーターにとって、〝似ている〟などという評価は御法度なのは承知です。


 それでもなぜか、その方とは非常に近いものを感じてしまう。それでありながら、その方は私と違って精神面が強く、独りでも懸命に頑張っておられます。すでに膨大な数の投稿をされておられますし、私には読めないジャンルの作品も選り好みせずに読まれております。「これは好きじゃない」と断りは入れながらも、「好きな人には刺さる」としっかりとした評価なさっています。


 批判的なコメントを受けても真摯に返信をされておられますし、批判の中からしっかりと言葉を掬い上げ、自身の作品に反映しておられます。私だったら出来ません。強い言葉どころか遠まわしな苦言ですらも心が折れ、切れッ端にグチグチと書き連ねているような人間です。私と比べるまでもなく、素晴らしい人物だと断言できます。


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 そもそも私には批評を行なうことも、どんなジャンルのどんな内容の作品を読むこともできません。批評する知識もなければトラブルになるのを酷く恐れておりますし、苦手ジャンルの作品には絶対に手を出したくありません。


 しかしその方は私にはできない批評をやってのけ、しかも代表作は私以上の長編を書かれておられ、さらに毎話コメントをくださるような、熱心なファンまでおられます。何もかもが私を越えておられるということもあり、ここまでくると正直なところ、かなり尊敬の念をいだいてしまっているんですよね。



 自分よりも優れた者と出会った時、妬ましく思うか、羨ましく思うか、尊敬の念をいだくか。その線引きがどこにあるのか、未だに判断がつきません。むしろ私はどちらかといえば「妬ましいな。こいつ嫌いだ」と感じることの方が多いです。そんな嫌いな人に自分のファンを取られては、さらに負の感情は増大してしまいます。


 このように負の感情が基本にある私でさえも、その方に関してはあらゆる実力を認めざるを得ません。どこか上から目線のようにも受け取れるかもしれませんが、あくまでも客観的な言葉を選んだまでのことです。また、先に述べた事情もありますので、殊更に言葉を選んでおります。


 そもそも〝評価〟は他人が他人へするものですので、そこに他人の価値観や感情が関わってくるのは当然です。やはり「人それぞれ」なのであり、私がどれだけ妬ましいと思おうが、私が誰に恨まれようが、生じた評価は受け入れるしかありません。



 しかしながら受け入れるにしても、取捨選択の自由はあります。要するに〝使える部分だけを使う〟ということですね。すべてを受け入れ、すべてを言う通りにし、すべてに従う必要などありません。時には断固として拒否することも必要です。


 人間に関してもそうです。誰しも多面性を持つものです。一面が気に入らないからといって全面的に否定する必要もありませんし、逆に一面だけが好きだからといって、すべてを受け入れる必要もありません。そこは好きだがここは死ぬほど気に入らん。それでも良いのではないかなと、私は考えておりますね。


 もちろん嫌いな面が多ければ、その相手を嫌いになっても構いませんし、私だってそうします。そして私が嫌われるという覚悟も当然ございます。好き好んで嫌われたがる人などいないんですけどね。思想の強制よりは余ほど健全だといえるでしょう。


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 今回もだらだらと語ってしまいましたが、あえてまとめるようなことはしません。読まれた方それぞれが、私が何を言いたかったのかを感じ取っていただければ幸いです。私はその評価を受け入れるかもしれませんし、受け入れないかもしれません。


 もしかすると「自分のことを言われている」と、感じ取られた方もおられるかもしれませんが、私はそれについて言及はいたしません。そして何か態度を変えたり、何らかの行動に出るようなこともありません。かといって私への評価が変わってしまったとしても、それは受け入れるつもりでございます。すべては「人それぞれ」です。


 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 このような長文にお付き合いいただき、心よりお礼申しあげます。



※誤字や間違いが多すぎましたので、本文の修正を行ないました。これに関してのお話も、いずれ投稿したいと考えております。

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