第9話

 シムルの出血が中々止まらないためか、まだ応急処置は続いていた。その間ミリアムは一人で入口を塞ぎ続けていた。


「この状況、やばくないっすか?」


 その様子を見て、レンがおれの耳元で囁いた。


「もうこの人たち見捨てて、僕らだけで街へ帰りません?」


 おれは誰もこちらを振り向いていないことを確認すると、小さく首を横に振った。


「どうしてですか? まさか責任でも感じてるんですか?」


「そんなわけないだろ!」


 つい声が大きくなってしまった。怪訝そうな表情で振り返るドニトス、おれは更に声を潜めて言った。


「おれだってこいつら冒険者がどうなろうと、知ったことか。でも今この洞穴を出たら、真っ先に襲われるのはおれたちだ。今はミリアムの障壁が少しでも長く持つことを祈るほかない」


「大丈夫ですよ。障壁から出たら、僕がほんの一瞬だけカーバンクルの気を引きます、その間に先輩が飛ぶ準備をしてください。僕一人くらいなら、先輩の持ってきた魔道具アーティファクトで運べるでしょ?」


「おれ、今回、〝旋風ウェントス〟の魔道具と、〝発光ルーメン〟の魔道具しか持ってきてないよ」


「は? 〝飛翔アーラアクィラ〟持ってきてないんですか? 先輩適合者なんですよね? なんで?」


 レンが信じられないといったように、目を見開いた。まるで賄賂を持たずに皇帝に直談判しに来た、間抜けな自由民を見た時のような顔だ。おれはすかさず言い繕った。


「あれの持ち出し、所長の許可が必要なんだよ。しかも時間がなかったから決裁は自分で持ち回らないといけなかったし、係長、課長、部長、総務部長、所長、全員の小言を聞かなきゃならないなんて、面倒くさいだろう、そんなの」


「じゃあ何のために、ここについてきたんですか?」


「お前がついてきてくれって言ったから」


「はあ、信じられないっすよ、まじでありえないっす先輩」


 レンは大きくため息をつき、不貞腐れるように洞穴の壁に寄りかかった。


 後輩の態度としては、どうにも腑に落ちないものを感じたが、それはそれとして、このままじっとしているわけにもいかない。おれらが言い合っている間、入り口付近に集まっていたパーティーたちにも、不穏な空気が漂っていたからだ。おれは立ち上がった。


「シムル、すまん、苦しいか?」


 入口付近ではドニトスとエレナが、シムルの血をとめようと懸命に応急処置を施している最中だった。血で濡れた手を外套で拭い、止血剤を傷口に塗りたくり、包帯を何重にも巻き直す。


「俺のことなら心配しなくていい、ただのかすり傷だ」


 強がりもむなしい。出血量からして、傷は内臓まで達しているはずだ。


「ごめんなさい、私のせいで」


「エレナ、いつから調子、悪かったんだ」


「森に入ってから、でも、今は大丈夫だから」


 しかし、言い終わらないうちにエレナはまたえずいた。


「食あたりだろうか」


 心配そうに目を細めるドニトスとシムル。

 だが、ミリアムだけが視界の端でエレナの様子を見て、違う反応を見せた。


「エレナ、まさかあんた、妊娠してるんじゃないの?」


「そんなこと、絶対ないわ」


 エレナはきっぱりと否定するも、ドニトスは目を見開いていた。しかも、いつの間にかおれの隣に来ていたレンが、おめでたですか? などと空気の読まない発言をして、全員から睨まれることとなった。


「違うならいいの、妊娠中に魔道具を使うと、体調が不安定になるって、聞いたことがあったからつい……ごめんね」


 ミリアムはそう言うと、障壁魔術の維持に集中した。洞穴の外をうろついていたカーバンクルが、また半透明の障壁で覆われた入口に向かって、体当たりを仕掛けてきたからだ。


「相手は誰だ?」


 沈黙を破ったのはシムルだった。


「だから、違うって言ってるじゃないの。どうしたの、急に」


 エレナは困ったように冷ややかに笑った。それもそうだ。エレナはシムルの恋人なのだ。そしてシムルは魔術師だ。当然ながら、魔術師は子供を作れない。


「君とは長い付き合いだ、嘘をついてるってことくらい、顔を見れば、すぐに分かるさ」


 なんだか雲行きが怪しくなってきた。男女関係のもつれで信頼し合っていたパーティーが瓦解するって話は、ここだけに限ったことではないが、今それをやるのは勘弁してほしいところだ。


 エレナもシムルも、言いたいことはあっただろうが、シムルがせき込み吐血したことで、それどころではないという、理性的な判断が各々に下された。


「日の出までに治療師に見せないと」


 ドニトスが呟いた。おれは嫌な予感がしたため、会話に参加することにした。


「この状態のカーバンクルは、確か数時間ほどで、力尽きるということでしたよね?」


「ああ、あと4時間か、5時間か、そのくらいだ」


「そのくらいであれば、カーバンクルが力尽きるのを待って、ここから出ても間に合いますね、夜道の悪路を考慮しても、日の出までには街へ戻れるはずです」


「かもな、だがそれじゃダメだ、時間がない」


 ドニトスは横たわるシムルに目線を落とした。


「カーバンクルを倒して、押し通るということですか?」


「そうだ、何もこの状態のカーバンクルと対峙するのは初めてってわけじゃない。実際に何度か倒したこともある」


「やめろ、ドニトス」


 シムルがせき込みながら、細い声でドニトスを制した。


「今回は状況が悪い。俺のことは気にせず、カーバングルが自滅するまで、ここでじっとしていろ」


 だがドニトスは聞き入れるつもりはないようだ。


「断る。今お前を死なせるわけにはいかないからな。ミリアム、あとどのくらいいける?」


「侮らないで、時間さえかければ、もう一発くらいなら呪歌も打てるわ」


「よし、じゃあミリアムの魔術を中心に作戦を立てよう」


「私も一緒に戦うから」


 シムルの傍らで座っていたエレナが、立ち上がった。


「だめだ、エレナ。お前に何かあったら」


 シムルは手を伸ばし、エレナの腕をつかもうとするも、傷が痛んだのか力なく腕を下ろした。おれは身の安全を守るためにも、シムルに加勢することにした。


「シムルさんの言うとおり、カーバンクルが死ぬのをここで待ちましょう。そもそもシムルさん抜きで、どのようにカーバンクルを倒すつもりですか?」


 おれはドニトスに尋ねた。


「倒す方法は前と同じだ。俺が奴の動きを止め、ミリアムの呪歌で片を付ける。問題はミリアムがエーテルを集めなおす時間と、呪歌を詠唱する時間を稼ぐ方法だ」


「それと、カーバンクルの動きを止める方法もだ。あの状態のカーバンクルは早すぎて、ミリアムの呪歌を命中させられない」


 シムルが上半身を起こしながら言った。


「おい、無理するなって」


「いいから、聞け」


 いつの間にかシムルがその気になっていて、おれは釈然としなかった。さっきのやり取り、なんだったんだ? 嫌よ嫌よも好きのうちってことか?


「誰かが囮になっているうちに、俺が魔法陣で罠を仕掛ける。5分もあれば十分だ。ミリアムはカーバンクルが罠にかかったら呪歌を放って、俺の紋章魔術ごと、カーバンクルの障壁を燃やせ、とどめは――」


「私が囮をやる」


 シムルが言い切る前に、エレナが手を上げた。


「ダメだ囮はドニトスにやってもらう、君はとどめをさす役回りだ」


「逃げるだけなら、ドニトスより私の方が早い」


「また途中で動けなくなったらどうするつもりだ? 大人しく指示に従ってくれ」


 そもそもこのような状況に追い込まれたのはエレナのせいだ。直接それを指摘されずとも、本人は痛感しているのだろう。暗い表情でうつむいた。


「でも、ドニトスだけで、あのカーバンクルから5分逃げ切るなんて、現実的とは思えないけどね」


 ミリアムが言った。カーバンクルはミリアムの障壁魔術を突破できず、また唸りながら洞穴の周囲を徘徊している。


「おいおい、俺を誰だと思ってんだ?」


 ドニトスが不満を漏らした。たとえ無理であっても、男には自尊心という、一時的に知性や理性を低下させる生理的機能が備わっているため、それを言い出せないのだ。そしてどうやらそれはおれにも備わっていたらしい。


「ねえ、貴方、手を貸してくれない?」


 エレナが何故かおれの方を見た。まさかな、おれは自分に話しかけられているとは思わず、レンに視線を移動させた。


「貴方に言ってるの、リュカさん」


 エレナがおれを名指しした。綺麗な女性に名前を呼ばれるのは、多くの場合悪い気はしないが、今日のような状況だと考えものだ。


「あの、こいつの方が若いですし、向いていると思いますよ」


 おれは震えながら、レンを指さした。


「え? 自分っすか? でも自分、魔道具持ってきてないっすよ」


「え? なんで?」


「だって先輩、必要だって言わなかったじゃないですか」


 おれはレンとエレナを交互に見た。


「お願いね」


 エレナはおれの手を取って、潤んだ瞳でじっと見つめていた。

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