第5話 幸福な時間の終わり
水奈はそんなことがあっても、家では何事もないようにふるまうつもりだった。
家族に余計な心配をかけるわけにはいかない。今は両親の精神状態だって不安定だ。自分の悩みを打ち明けるわけにはいかない。それならばせめて自分は平常に見られてなければならないと。
そんな状況であり、家に帰っても水奈はもうストレスに耐えられそうになかった。
しかし家で泣くわけにもいかない。自分だけは普通にしていなくてはと。
そう思い、家に帰ってすぐ自室で宿題に打ち込んでいた。
しばらくすると母親が帰って来る音がした。
母親が帰ってくるなり、すぐに二階へ上がって来る足音がした。
宿題に集中してる水奈の部屋のドアにとんとん、とノックした。
「水奈、ちょっと話があるんだけど」
そこには辛辣な表情をした母親が部屋に入ってきた。
またか、と思った。母親がこういった表情で話を持ち出すのはあまりいい話ではない、と昔からわかっていた。
「今宿題してるんだけど。邪魔しないでよ」
もうこれ以上、重い話をされたくない、それなら今は宿題に集中させてくれと。
「大事な話なの。お願い今聞いてちょうだい」
母親に諭され、水奈はしぶしぶ話を聞くことにした。
そして、出てきた話題はこうだった。
「水奈、もしもお父さんとお母さんが別れることになったら、どっちについていきたい?」
「は……?」
突然な重い話。別れるということは、離婚の意味だろう、とすぐに察しがついた。
「お父さんはこれからは自分に合う仕事を探すつもりで、それにはお母さんがいると、お母さんに甘えてやる気になれないとか言ってるの。お母さんも、お父さんがあれだともう水奈とお父さんの二人を養える余裕もないかもしれないの」
「……」
やはりだ。水奈も薄々感じていたことだった。
父親が無職になってから母親は夫婦喧嘩が絶えなかった。あれだけ喧嘩をするのならこういった話が出てきてもおかしくない、とは思っていた。いつかはこうなるだろう、と。
どちらについていか、そんなことすぐに決められるはずもない。
家や学校が変わるのも嫌だ。父親が無職になっただけでも嫌な思いをしたのに、さらに離婚となればもっと辛い。今までは両親が二人揃っていたのが当たり前だったのに、そのどちらかが失われるのだ。そして、心配してたことがあった。
「あなたの大学進学、応援したいつもりだったけど、このままじゃ厳しいかもしれないの。ほら、私達が二人で働いて行けばなんとか学費も出せるって思ってたけど、もしそれができなくなると、諦めてもらうしかないかもって」
進路希望調査についての話をした時には、水奈が将来にやりたいことを認めてくれて「好きなところへ行けばいい」と言っていたのに。
同じ学校の者達は自分の行きたい場所へ行けるのに、自分は高校を出たら働かねばならないのか。今まで一生懸命勉強してきたことはなんだったのか。
それを考えると、心の中がざわついて、考えたくないことまで頭にフラッシュバックする。
水奈をいじめている宮田は水奈の父親のことについてからかった。
しかしあの子達はきっと、好きな学校へ行かせてもらえるのだろう。水奈の家庭がこんなことになっていても、あの子達はあんなことをしておいて、好きな進路を選べる。水奈はそれにはなれないのだ。何もしていないのに、自分だけはこんなに理不尽な想いをする。
ほんの数か月前までのあの幸福な時間は二度と訪れないのだという現実を知った。
学校に居場所がなくても、家に自分を愛してくれる両親がいるのならばそれでいいと思っていた。それも崩れそうだ。もうどこにも居場所がない。
水奈の心の中で、何かが砕ける音がしたような気がした。それはもう、悲しみを通り越して、なんの感情なのかもわからないほどに自分でもなんなのかわからなかった。
そこへ玄関から父親が帰って来る音がした。今日はちゃんと職探しに行っていたらしい。
母親が二階の水奈の部屋にいるとわかったからか、父親も水奈の部屋に入ってきた。
「なんだ、母さんここにいたのか。今日の夕飯はまだかい?」
たった今母親がこんな話を水奈にしたばかりだというのに、父親は空気を読めてない。
「今大事な話をしてるのよ。あなたは今無職でしょ? たまにはご飯くらい自分で作ったらどう? あなたのことについても関係ある話なのよ」
母親はきつい口調で父親にそう言った。ああまたか、と思った。しかも今は水奈の部屋で、目の前でいきなり喧嘩を始めれらえるのはかなりの精神的負担だ。
「もしもあなたと別れることになったらどうするのか水奈の意見を聞いてるの。私達はもうすぐ終わりかもしれないのよ。 こうなったのも、あなたのせいじゃない!」
「だから、俺はちゃんとそのうち仕事を探すって何度も言ってるだろ」
「あなたはそればっかり! そう言いながら日中に家にいる時もあるじゃない! 本当にそのつもりなら真面目に探すでしょ! それをしてないのならもう別々の道を歩むしかないって」
母親がまた怒鳴り口調になってくるのを見て、もう水奈の精神は限界だった。
またここで喧嘩をするのだ、自分の目の前で。もう我慢できなかった。
「二人がそうやって、喧嘩ばっかりするの私はもう嫌! 一緒に住んでる方の身になってよ! 別れるなりなんなりすればいいじゃない!」
普段大人しい娘が急に怒り出したのだ。両親は動揺した。
「水奈……」
水奈にとっては、もはや将来よりも、今の状況から逃げ出したかった
「私は一人で生きていく! 大学なんてもう行かないし、高校卒業したら、こんな家出て行ってやる! なんなら今すぐでも出て行きたいくらいだよ! みんな別々になるってことでいいでしょ! みんなで苦労を分かち合うよりも、バラバラになった方がマシだよ!」
自分でも何を言ってるのかがわからないくらいに、水奈は怒りを爆発させた。
「出て行って、出て行ってよ! もう話しかけないで!」
水奈はもう両親の顔も見たくなかった。すぐに二人を部屋から追い出した。
気持ちをを鎮めることもできず、水奈はやっていた宿題も投げ捨てて、ベッドに横になった。
「もう、嫌……みんな、大嫌い……」
学校のことも、家のことも、将来のことも、何もかもから解放されたい。もう苦しかった。
水奈は一人、枕を涙で濡らした。
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