第15話

 頭の中にある色が、サァッと落ちてゆく。

 ――見捨て、られた? ずっと私を守っていてくれたカルロスさんが、そんな?

 初めのうちは、何とか相手をギュウギュウ押して抵抗していた私だが、手がピリピリと痺れてきた。それだけでなく、貴婦人のような女の、そこそこな体重のせいか、足も血が回らなくなり、ジンジンと、舌で舐められるような感触が出てきた。

「あ……たな……わ?」

 ヒタ、ヒタ、と砂の上に水たまりを作っていると、頭上から傲慢な声がする。

「んん……」

「名前は、と聞いて……のよ!」

 やっと言いたいことが分かったが、舌が上手く回らない。

「ヴァニィドギャロヴ……ク、コホッ、コホッコホッ」

「しっかり喋りなさい! あんたみたいなひ弱な女は絶対に彼には向いてないわ!」

 唾が鼻の横に飛んできた。泥のような臭いがする、ベットリとしたその液体で、私の精神力はいよいよ滅入ってきていた。

「ほら! さっさと吐け!」

「ふ、ファニー・ド・キャロルです……」

「フンッ、名前だけじゃない、可愛らしいのは。あんたはそれだけで、自分が彼にふさわしいと思ってるの?」

「そ、そんな……」

「ウソおっしゃい!」

 なぜか、そこそこ重たい貴婦人は涙ぐんでいた。

「私はずっとずっと、グロリア王国に来て苦しんでたの。でも、そこを彼が救ってくれた。彼が私を見放すわけ……」

 それが、現実に見放したのだ。

「……じゃあ、あなたの名前は……グエッ」

「ど……イザベル・シド。まあ、どうせあんたの意識は消え去るのだから、覚える必要も無いんだけどね!」

 胸をガンガンとぶん殴って来て、重さはさらに増している気がする。

「ウエッ!」

 いよいよ、私はこらえきれなくなり、たった今さっき口に入れたばかりのピッツァとスパゲティを吐き出してしまった。

「あぁら、汚いったらありゃしない。彼氏の前でこんなことをする娘なんて到底許されるもんじゃないわ」

 ハイヒールのヒールの部分で、頬っぺたをビシビシ、尖った爪で首をガリガリ……。

「もういや……」

 私の涙腺は、もう堪えることが出来なくなっていた。ジャンとの別れで一生分の涙を流して、もう泣くことはしないし、出来ないと思っていたというのに。

 涙で、どんよりとした空がさざ波のように見える。

 そのうち、段々と目の前の光景はくすんでいく。

 ――あぁ、ジャン……。

 空に向かって、声にならない声で私は呼びかけた。




「お……お……い、ファ……ィ……? ファニ……ファニー!」

 ヒタ、ヒタ、と頬に冷たいものがぶち当たってくる。

 その中で、どこか聞いたことのある冷たい声――じゃない、今は妙に熱い。

「……じゃん……じゃない、よね」

「あ、何て言ったんだ? おい、ファニー、起きてんならさっさと起きろ!」

 今すぐ斬り捨てられそうな声だったもので、私はガバッと体を起こした。

 ゴチン!

「いてっ!」

「痛いっ!」

 つんと尖った鼻が、私のおでこににちょんと刺さった。

「カルロスさん!」

「ファニー、起きてるなら早く起きてくれ……こんなに勢いよく出てこなくてもいいのによ」

「は、はいっ……」

 おでこの辺りを軽くさすりながら、カルロスさんはフッと笑った。

「とにかく、無事でよかった。死なれてたらグロリア王国の剣士としての顔が立たねぇからな」

「まさか、そんな簡単に私みたいな人間が死ぬわけないじゃないですか!」

「……まあ、確かにバカは風邪ひかないって言ったりするけどな」

「誰がバカですかっ」

 私は腕を組み、頬っぺたをぷくぅと膨らませた。

「フハハッ、やっぱ、俺の彼女みたいだな」

 と、カルロスさんは言ってから、しまった、というような顔をして口を押さえた。


「……てか、カルロスさん、なんですぐに助けに来てくれなかったんですかっ!」


 表情の勢いで、私は冗談っぽく言った。

 ――が、これが地雷だったのかもしれない。

 彼は一瞬バツの悪そうな顔をして、黙り込んでしまった。無表情で、何かじっくり考えているようにも見える。

「作戦だ」

「そうなんですか。どんな作戦だったんですか? 気になります」

「どんな……丘の上から奇襲するんだ」

「なるほど」

 歯切れが悪いが、これ以上追及しても大したものは出てこないだろう。カルロスさんのことだし。

「とにかく、最終的には助けてくれて良かったです。ありがとうございます」

「まあ、そりゃぁな」

「……というか、あの……なんでしたっけ、名前、あ、そうそう、イザベル・シドだ。あの女性は倒しちゃったんですか?」

「イザベル……?! いや、倒さなかった」

 一瞬驚いた素振りをし、すぐにまた表情を戻した。

「そうですか……逃げられちゃいました?」

「……まあ、そんなものだな。ふぅ」


 と、城の方ではカウントダウンが始まっていた。

 第一ラウンド終了へのカウントダウンだった。

「ヤバッ、カップル宣言しないとダメじゃないですか! 私たち死んじゃいます!」

「そうか。じゃ、さっさとやろう」

「ど、どうやって……」

「カップル宣言します、で良いだろ。はい、せいの」


「「カップル宣言します」」


 ――恥ずかしいっ。

 何はともあれ、私たちは晴れてカップルになったらしい。

「か、カルロスさん……」

「なんだ?」

「よ、よろしくお願いしますね、これから……」

「何だ、そんなことか」

 鼻で笑い飛ばされ、なんかへこむ。

「カルロスさん、なんか、誓いの何かぐらいあるでしょう?」

「……それは、結婚が決まってからのお楽しみだ」

「えー」

 ポンポンと肩を叩かれると思うと、カルロスさんは私の手を握って引っ張って来た。

「わっ!」

 思わず声が出てしまうと、肉刺まめだらけのガサガサした手はパッと離れてしまった。

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