第2章 世界大戦-1

 西暦1681年 (天和元年)

国内の主要鉄道網と電信網完成。海外保護領との無線通信が始まる。


 西暦1706年 (宝永2年)

日本海軍ハワイに到達。現地島民と友好関係を結ぶ。一部の土地を借り受け、交易所を設置。次いで、南太平洋の島々を訪問。


 西暦1738年 (天文3年)

ラジオの試験放送始まる。


 西暦1740年 (天文5年)

太平洋国家連合が成立。日本との相互安全保障条約が結ばれる。


 西暦1744年 (寛保4年)

日本にて大政奉還成立。天皇を頂点とした立憲君主制となる。三権分立となり、議会は衆議院と一回の再審議要求権のみ持つ貴族院の2院制。

政務については、天皇の指名する終身制の征夷大将軍が行政を行う事となる。征夷大将軍の継承時は議会の承認が必要。副将軍は5年任期で衆議院議員より選出することになったが、軍事と外交は将軍。他の内政は副将軍が行う形になった。それに伴い織田家の政治を動かしてきた各部は省庁となった。


 西暦1775年 (安永4年)

フィリピン王国、インドネシア王国、オーストラリア王国が独立。日本を含む4カ国間で相互安全保障条約が結ばれる。


 西暦1776年 (安永5年)

アメリカ独立宣言


 西暦1785年 (天明5年)

日本と友邦国の間の海底ケーブル網完成。

首都を名古屋から江戸に移転。東京と名付ける。


 西暦1790年 (寛政2年)

イギリスがオーストラリア西部に植民していた事が判明。対馬のイギリス商館を通じて抗議を行うも、植民していた区域が独立宣言を行い、オーストラリア軍との戦闘になる。イギリス海軍が植民地軍に加勢したため、条約に基づき日本軍が参戦。豪英事変となった。




 1792年、オーストラリア東部の砂漠にて


 私の名は、ジョン・アシュレイ・スペンサー・チャーチル。男爵家の次男であり、栄光ある大英帝国陸軍の大佐である。

 私はオーストラリアの砂漠で、白旗を上げ、武器を離れた所に積み上げて、部下と共に降伏の意を示している。なんでこんな所に来てしまったんだろう。今、私はとても後悔している。

 6ヶ月前、アジアのオーストラリアに植民したイギリス人が日本という国から迫害を受けているので蹴散らして来いという命令を受けて、一個連隊の正規軍と、海軍の軍艦5隻を率いて本国からオーストラリア東部の植民地に意気揚々と出向いてきた。

 だが、植民地に到着した私達が上陸した次の日、軍艦5隻がいきなり沈んだ。理由はわからない。

砲撃も無かった。5隻ともいっぺんに爆発して沈んだのだ。破壊工作を疑い、すぐに捜索したが何も見つからなかった。

 そして、次の日植民地のリーダーと協議を行なった私は、私達が3回目の派遣軍であるということに更にショックを受けた。

 1回目の中隊規模の群は、東にあるオーストラリア軍の基地の攻略に向かったが、帰ってこなかった。次は大隊規模の軍が来て再び東に向かったが、またしても誰も帰らず、我々が軍艦とともにやってきたという訳だ。


 軍艦はいきなり失われたわけであるが、引くわけにはいかない。野戦砲を馬につなぎ、植民地の志願兵を道案内に我々は西に向かった。

 整列し進軍する兵たちを見ていると、我々に戦いで勝てる者など地上にはいない気がする。誇り高いイギリス陸軍は世界一勇敢で、世界最強なのだ。少なくともその時点では私はそう信じていた。

 何事もなく3日ほど進んだあと、それは突然始まった。日が落ち始めた頃野営の準備をしていた兵が撃たれたのだ。まず、20人位のの頭が吹っ飛び兵が倒れる。遅れて小さな銃声が遠くでした時は次の兵の頭が吹っ飛ぶ。パニックになり物陰に隠れたら伏せたりしたが、また何人かが射殺される。20分足らずで我々は100人を失い、日が沈み銃撃は終わった。眠れないまま、一夜が明け、3人1組の斥候を10組出したが、誰も戻らなかった。誇りある戦いとは、立射でお互いに交互に撃ち合い、勇気を示すものだと思う。これでは、戦いでなく狩だ。

 そして、また銃撃が始まり、仲間が次々と殺されてゆく。逃げ出す兵もいるが、陣から離れようとした者は即射殺される。我々はここから逃げられないのだ。

 再び夜になり、銃撃は止んだ。我々は闇に紛れて撤退する事にした。が、動き始めた途端ふたたび銃声が始まる。星明かりの元でも射撃は正確で次々に仲間が失われる。魔法でも使っているのか?何が起こっているのかわからない事で恐怖は倍増する。

 朝が来た。恐怖のあまり、自殺するものや発狂する者もでた。既に人数は出発時の半分もいない。私達は武器を手放し、白旗をあげ、降伏することにした。白旗の意味は通じるのだろうか、前回と前々回来たイギリス軍は降伏しなかったのだろうか?いくら考えても、希望の一筋も見出せない。


 東側の地平線の向こうから箱のようなものが現れる。そこから数人の人が出てきて、白旗を持ち、こちらに向かってくる。使者のようだ。

 近づいてきた敵の兵士は我々とは全く格好が違う。まだらの砂漠色の服を着て、同色の厚みのある、ポケット付きのベストを着ている。背中には何かの入った荷物を背負い、腰にもバッグをつけている。頭には椀の様な兜をかぶり、

顔は目を覆うメガネのようなものをつけ、口の周りは布で覆っている。銃のような物を持っているが、我々のものとは形が違い、銃床も黒い金属製か?優雅さは無く、無機質な冷たさを感じる。

サーベルは持たず、腿にはナイフと、拳銃?

の入っているらしいケースをつけている。


 士官らしい兵が、見事な英語で話しかけてくる。

「初めまして、日本陸軍の山元大尉です」


 山元大尉の言っていることがよくわからない。

ここはオーストラリア王国であり、イギリス国民が勝手に植民する事は違法であり、オーストラリア政府は移民を認めていないため今後も受け入れることはできないので、大英帝国が責任を持って引き上げてもらいたい。これはわかる。

 日本国はオーストラリアに対するイギリス海軍の砲撃に対し、豪日安全保障条約に基づき、海軍を持たないオーストラリア軍に代わり貴君らと戦った。オーストラリアから撤収するなら、今回は補償などは求めない。撤退してしない場合、残念ながら強制的に地上から撤退させることになる。これは、最後がわからない。領土からではなく、地上から撤退とはどういう事だ。数千人の女子供を含む人間がいるのだ。こいつらは何を言っているのだ。

 今回のイギリス軍の勇敢な戦い方には我々日本軍は深く感銘を受けた。歴史にのこる激戦で、名勝負であったのではないかと思われる。ついては、勇敢なイギリス軍とこれ以上戦って傷つけ合うのは我々の本意ではない。ぜひ本国に帰り日英修好条約を検討してもらいたい。

 我が国の対馬には、古くからイギリス商館が存在している。古くから付き合いのある国同士なのだから、仲良くやりたい。こうなると、何を言ってるんだかさっぱりわからない。名勝負?我々は一方的に殺されただけである。何発か銃を撃った兵士もいたが、敵の1人も見ていない。


 だが、口元に笑みを浮かべ、目が全く笑ってない山元大尉を見ていて、私は悟った。わからないでは済まされない。わからないなら皆殺しにされるのだ。そして次の第4次派遣軍にわかる人間が派遣されるかどうか試すつもりなのだ。


 私は名誉にかけ、この件を国に持ち帰り、国王と議会に報告することを誓った。また、私の責任において、半年以内に植民者を国に連れ帰る事も約束し、書面にしてお互いにサインした。


 植民地の集落に戻って、風呂に入り、髭の手入れをしようとした私の顔は10歳も年取り、髪の毛は全て白髪になっていた。


 

 チャーチル卿の後日談


 植民地から船を出し、東インド会社経由で本国に連絡。植民地からの国民の引き上げを東インド会社に依頼した。幹部連中に、極秘情報として、第1次と第2次の派遣軍は全滅して生存者ゼロ。第3次の我々は着いた初日に軍艦5隻が沈められ、3日で連隊が半分殺され、敵の一兵も斃してない。彼等は半年以内に引き上げさせないと、女子供も含めて植民者を皆殺しにするつもりだと言うと、わたしが発狂しているのでは無いかと疑われたが、他の士官や兵の証言からも私が真実を話していると言うのがわかったらしく、植民者の引き上げを始めたのであった。


 本国に戻った俺は、上官に経緯を報告。数日の軟禁のあと、国王陛下と重臣の前でもう一度、宣誓の上経緯を話すことになった。その後はこの事を生涯口にしない事を誓わされ、誓約書を取られた。それが終わると将軍に昇進。すぐに退役となった。有力な貴族スペンサー家の枝に連なる俺は退役で済んだが、俺の部下達はどうなったのだろう。考えたく無い。

  

 実家から分与された多少の財産と、口止め料なのか、かなり増やされた年金のおかげで、退役しても、特別生活に困窮することも無く、俺はロンドンを離れ静かに暮らしていた。

 あの事件から5年後、知人の紹介状を持った支那人が尋ねてきた。執事として雇って欲しいとのことだ。社交界ともほとんど縁が切れ、偶にキツネ狩りをするくらいで、オーストリア出征の後、人付き合いもほとんど無くなり、家族も無い俺にとって、身の回りを世話する数人の召使いがいれば、執事など要らないのであるが、知人の顔も潰せない。会うくらいはと思って面会することにした。

 招かれて部屋に入ってきた支那人の顔を見た時、俺は凍りついた。今でも時々夢に見る、生涯忘れられないと思う顔。リャン・チョウと名乗るその男の顔は山元大尉であった。


 俺は猫の前のネズミ、いや、獅子の前のネズミであった。彼は当然の如く執事となり俺の屋敷に住みついた。軍人が執事になる訳もなく、スパイなのだろうと思ったが、愛国心より、なんだかわからない恐怖の方が大きく、俺は何も言えなかった。帰国後、俺を労うこともなく軍から放逐し、犯罪者のように見張りまでつけた政府に失望してたというのもあるかも知れない。


 10年後、リャン・チョウを執事に迎えた我が家というか、私とその環境は激変していた。

彼は我が家の財務状況を見ると、いくつかの会社を設立するように助言した。拒否権は無さそうだが、形上は助言であった。

 そのうちのいくつかは爆発的に発展した。

中でもスペンサー重工業は画期的な発明や技術革新をいくつも行い、英国のの工業全体の発展にも貢献したと評価されている。最近は軍需産業まで進出しつつあり、あと10年もしたら、私はこの国の経済界の重鎮となっているのは間違いない。ただ、もてはやされている私は何もしていない。小川を流される木端の様にミスター・チョウの助言のままに動いているだけだ。

 二回りも歳下の、知り合いの貴族の女を嫁にもらい、子も出来た。12年が経った時、ミスター・チョウは体の調子が悪いので、故郷の支那に帰るため、代わりに甥のハン・ビンを推薦したいと言う。推薦ではあるが、おそらく拒否権は無いし、拒否したら私は全てを失い、口に拳銃を咥えて引き鉄をひく羽目になるだろう。


 私は自分で言うのもなんだが、決して無能では無い。ミスター・チョウのささやかなスパイ活動は見て見ぬふりはできても、流石に祖国に明らかな不利益をもたらすような事には加担出来ない。

 ただ、彼の仕えた12年の間、全くそのような動きはなかった。本国になんらかの情報は送っているのだろうが、そんな事は各国の大使館が普通にやっていることである。英国と日本の場合、日本のエンペラーの神力が、外国人が本土に入ると落ちてしまうだとかで、修好条約は結んだが、インドのゴアを中心に交易をしているだけである。ゴアに日本商館が設立され、対馬とゴアのそれぞれの商館が大使館の様な役目をしている。

 彼が熱心にやっていたのは兵士の寡婦や、体に障害を残した兵士、孤児、ストリートチルドレンを助ける慈善活動であり、私にも協力を求められた。オーストラリアです多くの部下を失った私としては、その贖罪意識もあり、喜んで協力したのであった。

 ただ、その原因に彼が多少なりとも関与しているのは間違いなく、そして慈善活動に使う金を稼いだのも彼である事を考えると私の心中は複雑である。

 私は慈善活動に対する膨大な私財の投入に対し、本家とは別に男爵位をもらった。膨大とは言ったが、使う以上に私の資産は増え続けていた。

 妻が肺病になって喀血した時、どこからか、自称支那人の医師を連れてきて、エンペラーの秘薬を処方してくれた。支那人に詳しくはない私であるが、いくらなんでも支那服を着て、支那帽をかぶり、丸い眼鏡をして変な髭を生やした支那人はロンドンにはいないと思う。

 半年余りの治療と療養で妻は完治した。奇跡である。予防にと言われ、私と子供達は小さな針を沢山まとめたような物で肩に印をつけられた。

 これを世の中に広げられないかと言ったが、英国では神力が足りないため、作れるようになるのに、あと100年はかかるだろうと言われ、それっきりとなった。

 ゴア経由で運ばれてくる日本の製品、上質な絹や、なんだかわからない材質でできた鮮やかな布などの高級品。ヨーロッパで爆発的に流行している電池を使ったライト(これは英国で特許申請され、それを使って国内でも作られているが、まだまだ性能面では及ばないようである)錆びにくいナイフ等、さまざまな小物の独占販売権を私の会社は持っているため、私の会社の資本はさらに大きくなり、金融業や保険業、建築業、造船業などにも進出。日本からは、船の建造の仕事が依頼された。私はヨーロッパ全体に多少の影響力を持つ身になったが、彼等からは通常の交易以外、特になんの要求も無く、私は寿命を迎えようとしている。3代目執事、ロン・シャオに寿命を伸ばす秘薬は無いのかと聞いたが、歳をとって死ぬのは自然のことであり、病のように薬でどうにかなるものでは無い。これはエンペラーでも同じであると言われた。日本のエンペラーでもどうにもならない事があると知ってちょっと安心した。

  


 西暦1818年

イギリスのスエズ運河開発会社が、フランス人技師レセップスの指揮の元、進めていたスエズ運が完成。


 西暦1823年

イギリスはグラン・コロンビアよりパナマ運河の開発権購入。両国政府により、パナマ運河開発会社が設立される。

 イギリスにて、スペンサー・チャーチル建設機械会社が設立される。


 西暦1840年

スペンサー・チャーチル建設機械会社より、工事用爆薬の販売開始。


 西暦1855年

アメリカ合衆国艦隊、ハワイ諸島に現れる。太平洋における石炭基地の設置と水の供給。港の租借を要求。拒否され艦砲を発射、恫喝を行う。艦隊は帰国途中、行方不明となる。

イギリスを通じての日本からの抗議により、それを知ったアメリカ合衆国は調査団を派遣。

嵐による遭難と結論づけられる。


 西暦1858年

アメリカ政府は再度軍艦を中心とした艦隊を派遣するも、ハワイに到達することなく艦隊は行方不明になる。またしても嵐にあったのではないかと推測される。

  

 西暦1863年

太平洋国家連合が、何ヶ所かで水、石炭、食料の販売と商館の設置を認めるも、移民は認めず。アメリカ合衆国からの、商品輸出に対しては興味を示さなかった。石炭や水、食糧が高価であったため、一方的な貿易赤字となる。


 西暦1870年

イギリスのスペンサー・チャーチル化学工業よが極低温対応の化学合成オイルや質の良い石鹸等、捕鯨産業を必要とし無くなるような商品群が発売される。これによりアメリカ合衆国の捕鯨産業は壊滅的な打撃を受ける。


 西暦1871年

東進するロシア帝国と日本がシベリア東北部にて接触。


西暦1872年

 ロシア陸軍が日本領への侵入を試みるが、失敗。その後1875年、1882年と計3回の出兵が行われるが、いずれも失敗。


西暦1890年

 ロシアは日本に対し宣戦布告。総勢40隻の戦艦、巡洋艦からなる艦隊を極東に派遣。それにウラジオストクにいる数隻の巡洋艦を加えて、大陸と日本本国との分断を狙う。同時に第4次シベリア大攻勢開始。

 これに対し、日本はかねて英国より購入していた戦艦5隻と巡洋艦5隻で迎撃。日本海にてロシア艦隊を殲滅。大陸でもロシア軍を圧倒した。

ただし、大陸でのロシア陸軍の敗北については、ロシアの敗残兵が少なく、その証言も常軌を逸したようなものが多く、悪魔の魔術が使われたのでは無いかと言う怪しげな風説が、その後長く流れた。

 この海戦により、イギリスの戦艦や巡洋艦の圧倒的な強さは伝説となり、世界の海の覇者としての評価は確実なものとなり、イギリスの造船業は活況を呈した。 


 イギリスの仲介で、日露戦争は終結。ロシアはウラジオストクを明け渡し国境線が確定した。これによりロシアは太平洋への窓口を無くした。この後ロシア帝国は財政が悪化。共産主義者の勢力が台頭。帝国はその対策に追われることとなる。 

 ロシア勢力の弱体化したこの頃より英・仏・独の中国進出が加速。清国にて軍の近代化を中心とする洋化運動が始まる。

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