戦国-5

 領地を拡大した俺は、那古野に戻り、尾張式の産業振興を三河、遠江でも行う。即成教育ではあるが、美濃でやっていることと同じであるため、美濃で実践しながら育った人材も多くて、人手不足ながらなんとかやっている。もう一つは山の多い美濃より、街道や海路が機能しているのでやりやすい。両国の名だたる武将は、ほとんど殺されたか逃げ出した。生き残った者と戦に参加しなかった者は駿河にいる今川と松平の元に行ったため、抵抗勢力の中心になるような者はほとんどいない。


 三河は一向宗が根をはり、信之世界では、家康の (面倒なので以降元信でなく家康と呼ぶ。俺としてはその方がなじみが良い。将来徳川家康を名乗らないならそれはそれで構わない) 父親の広忠の与えた守護使不入の特権が統治の障害となり、家康がそれを取り上げようとしたため、大規模な一揆が起きている。

 俺は一向宗に何も特権を与えてないので、織田領になった今、取り上げるも何もない。仕切り直しである。それに三河一向一揆の中心となった土着の武士達も相当数いなくなってしまったので強権で抑えることもできるのであるが、俺の領民となったからには出来るだけ殺したくないし恨まれたくもない。とはいえ三河には信徒が多い。

 あれこれ考えた末、まず、税制を変え、尾張と同じようにした。所得によって税率を変え、地主や大商人からは多く取ることになった。これで大部分の農民は減税になった。この時代の農民は、自作農でも収穫の半分はもってゆかれて、いざ戦ともなれば兵として徴発され、さらに臨時の税が課されたりさる。おまけに、収穫期だと敵に刈り取られたり、敵に与えぬために味方に焼き払われたりすることもある。落武者の鎧や刀を奪ったくらいでは元がとれない。たまったもんじゃ無いのである。

 結局、現世に夢も希望も無い為に来世に救いを求めて、挙げ句の果てに一向宗にも搾り取られて、やれ一揆だと命まで差し出されるのだから最悪である。一向宗教団は貧困ビジネスとしての一面も持っていると言っても過言では無い。加賀一向一揆が、百姓の持ちたる国として伝わっているのも一向宗が支持されている理由の一つでもあるのかもしれない。だがあそこも僧侶と武士団による集団指導体勢であって、百姓は相変わらず搾り取られている。

 

 遠江はそれほどでも無いが、三河はかなり疲弊していたので、暫く減税と、飢える者達への対策。医療院の設立、単位、度量衡の統一、公平な裁判と、領民の生活を安定させることに努めた。美濃も合わせて織田の支配地の安定発展をはかった内政のための3年間はとにかく忙しかった。永禄元年には遠江、三河にも学校の設立開始。拡大した領地に合わせて、省庁制度をとることになった。内務部、外務部、農水部、財務部、商務部、法務部、文部科学部、軍務部、情報部。それぞれに部長を置き我が領内だけは封建制度から抜け出しつつある。省庁の命名は主上でないのでできない。部もダメな気もするが、明治時代には民間会社にも部長がいたから良しとした。内務係とかだと規模が小さくてイマイチだし。

 領地の外も遠方はともかく、周りに限って言えば小康状態を保ち、大きな戦も無かったので大いに助かった。


 永禄6年。俺は30歳になっていた。領内は安定し日本全体から見れば、狭い地域であるが経済圏としては巨大になっていた。三河で幅を利かせていた一向宗は、わずかな期間ですっかり衰退していた。尾張には、死者を弔い、生者をなぐさめ、わずかな喜捨に感謝し仏の教えを広める真面目な坊主がかなりいる。

 俺が酒色に耽る坊主を排除して、本分を全うする坊主を保護したため、そうなったのだ。幸い、尾張は親父殿の代から経済的に恵まれていたため、一向宗の浸透し難い場所でもあったのも良かったのだと思う。

 織田領になると、尾張からまともな坊主が来て俺の庇護下に仏の教えを広めはじめた。民からみれば、良い着物を着て、酒色に耽り、地獄に落ちると脅して搾取する坊主との差は一目瞭然。心が離れるのは当たり前だ。

 あれこれ策動するたちの悪い者もいたが、不思議な事にそういう者は、ある日突然跡形もなく消えてしまうのだ。食事中一家で消えて、座敷にはまだ温い汁が残ってたとか、朝起きたら一緒に寝ていた夫が居なくなっていたとか、誠に不思議なことである。結局、神隠しにあったのだろうという事になった。この時代、神隠しは不思議な事でも何でもない。証拠も噂も無いし、不思議な消え方が多かったのと、3年間の間に不規則に消えたため、何か怪しいと思ったら者もいたかもしれないが、一向宗側も何も言ってかなかった。

 最後は俺に保護を求めてきたが、俺は熱田大神の神意で動いているので仏教とは関われないと言って相手にしなかった。

 駿河から侵入して、反織田活動をしようとする者もいたが、みんな売られて捕まってしまった。民の中で、今川や松平を懐かしむものなどいなかったのである。

 

 そんな中、北近江の浅井領で大きな一揆が起きた。浅井久政が南近江の六角氏の勢力を退けるための軍費を必要として税を大幅に上げたため、税負担に百姓衆が耐えきれなくなったらしい。浅井軍は敗走。混乱の中で浅井久政と嫡子長政は行方がわからなくなっていた。

 そして、百姓衆の代表が俺に帰属したいと言ってきたのだ。まぁ、冷静に考えれば加賀のように一向宗の後ろ盾がある訳でなく、すぐに六角か朝倉に蹂躙されて前よりはマシ程度の状態になってしまうのは誰にでもわかる。織田領が暮らしやすいという噂は周囲の国に知れ始めていた。

 

 俺は親衛隊改め常備軍5000と輜重隊3000を率いて北近江に進軍。小谷城に駐屯した。六角氏から、北近江は六角氏配下の浅井が支配していた土地なので、速やかに退去して明け渡せば見逃してやるという偉そうな手紙が来た。

この時代の感覚では、天下とは畿内のことである。関東や九州で力を持つ大名であっても、所詮田舎の軍閥。自分達京の周囲を支配する者が天下の支配者で偉いと思っている。

 俺は、雄略天皇の頃、俺の先祖がこの地を支配していたので、この地は織田のものである。今まで六角が使っていたのなら、未払いの賃料として銀1万貫を耳を揃えて払えばこれからも貸してやると返事をしたら、怒って攻めかけてきた。冗談の通じない奴だ。百姓足軽主体の六角軍は武士団を倒されて即壊滅。六角義賢と嫡子義治は殺せなかったが、姿をくらました。これにより俺は琵琶湖周辺を手に入れたのだ。

 この時代の琵琶湖は東西の物流のハブとなっている。水運業が発達していて、大量の物資が琵琶湖の上を行ったり来たりしていたのだ。

 江戸時代でも、商人と言えば近江商人と言われるほど近江は金と物流の中心地となっている。俺がちょっかいを出して大発展した尾張は既に資本でも流通の支配でも、近江を超えていたが、近江まで握ることにより、現在、日本の経済活動の3割くらいは俺の支配下にあるのではないかと思われる。俺の好きな越後の商人は日本全体から見れば大したことは無いのだ。


 今更だが、永禄の世では人があまりにも簡単に死ぬ。死病のペストやコレラ、天然痘は集団発生するととんでもない事になるが、それほどお目にはかからない。とは言え結核はかなり蔓延している。麻疹だって流行すると大量の死人が出る。それ以外にもお産の後の産褥熱でかなり死ぬ。乳幼児の死亡率も高く、生まれて20歳まで生きられるのは半分くらいなのではないか。破傷風、風邪からの肺炎も多い。それに加えて戦で殺し合っている。正気の沙汰とは思えない。

 人の損失イコール当然経済的損失であり、それがとても大きいという事である。なんとかしなければいけない。

 織田領内では抗生物質と点滴で救える命は飛躍的に増えた。まだ少量しか作れないし、不安定で保存が効かないのでみんなに使えるものではないが、そう遠くなく改良されると思う。結核の治療も研究が始まっている。ワクチンは無理そうだが、種痘とBCGはそう遠くない未来にできるかもしれない。

 方向がわかって、何かヒントがあるだけで、技術の開発速度はとんでもなく加速するのだ。俺の断片的な知識だけでも全く違う。

 のちに皆殺しの信長と言われる俺が何を言ってるって?戦国大名が戦で人を殺すのは、自衛でもあり、仕事でもある訳で、領民の健康を考えるのも仕事だから全然矛盾してないのだ。

 

 そっちの予算と人員を増やさねばなどと思いつつ、那古屋の城に戻った俺は、無理やり作った休息日に帰蝶と焼き菓子を食べながらお茶を楽しんでいた。自分が肉を食べたいのと、乳牛を飼って乳が得られるなら、料理のレパートリーが爆発的に増えると考え、放牧、養豚、養鶏を始めさせたのだ。動物性タンパク質を食事に組み込むのは領民の健康のためにもよいことである。

 魚は運搬上の理由もあり海から離れたところまで運ぶとどうしても塩分過多になってしまう現地で鶏を育てる方が安上がりで簡単なのだ。

鶏は尾張でも珍しくはなく、豚は九州にいたので取り寄せた。日本の牛は農耕用で、食べたり搾乳する目的で無い。牛乳も薬や酪を作るために少し作られているのだが、専門の牛というわけではなさそうで、今ひとつ物足りない。幸いイスパニア人がゴアやマラッカあたりまで連れできたアラビア馬と乳牛や肉牛を、金はかかったが輸入することができた。すぐに食べちゃうと増えないので、牧場を作って増やすことにした。とはいえ、鶏卵とミルク、バターは手に入った。手に入る小麦も微妙なのだが、文句は言うまい。砂糖きびの繁殖もうまくいっており、砂糖が手に入り酵母もあるので、パンのような物、ケーキのような物などをつくらせてみた。甘いものなど、干し柿といちじくくらいしか知らない帰蝶がとても喜んでくれたので、俺は大変幸せな気分になった。子はできぬが、あまり気にならない。帰蝶は相変わらず綺麗で優しい女である。本能寺の乱の時共に殺された信忠は優秀だったらしいが、残ったのは皆ぼんくらだったらしい。ただ信忠が優秀だったって言うのも本当だかわからない。いま俺が無双しているのも信之の知識と経験があるからであり、俺が特別優秀ってわけじゃない。子供が優秀でなくても全然不思議じゃない。秀吉や家康でなく、この国を導けると俺が見込んだやつを養子にして継がせたって良いのだ。だいぶ歳が離れているが、弟も何人かいる。親父殿は元気である。


 秀吉といえば、木下藤吉郎。ちゃんと家臣にいた。こいつは前の世界と同じ猿ヅラの小男である。代々の家臣でなく、親父殿に拾われたらしい。気も効くし、裏表もなくまじめで有能なのだが、光秀を操り俺を謀殺したとかいう説もあるので、油断はできない。

 まぁ、やってもいない事で神隠しにあわせるのもしのびないので、3階級特進で足軽から、美濃の山奥の代官に出世させて飛ばした。どんなに頑張っても、出世するような手柄を立てられるわけもなく、一生そこにいさせるつもりである。


 話を戻して、帰蝶とラブラブしていたら、親父殿が訪ねてきた。隠居してからとても楽しそうだ。最近は美濃から尾張に引っ越してしまった蝮親父と共に俺が教えたルアーを使った釣りにハマっている。この2人が何度も戦でタマの取り合いをしていたとは信じられない。

 ちなみに、ルアーも金持ちの道楽として名品なども生まれ、俺に富をもたらしてくれている事は言うまでもないない。

 親父殿が言うには、知り合いの公家から、続く戦乱で主上が困窮しており、御所も雨漏りがするほどであるという。

 隠居した身ではあるが、なんとかしたいので、力を貸せと言うのだ。実は織田信秀、かなりの尊王家であったりする。俺は信之でもあり、そのせいか、天皇と言われても、漠然とした敬意を持っているだけなのである。主上なんて更に別の世界の人である。全くピンとこないのだ。そう言えば没落将軍の足利義輝からも

何度も、上洛して将軍家に仕えよって使者が来ていた。面倒くさいので、無視してたが、

まだ、制度上は武家の棟梁。一度くらい謁見しておくか。という事で上洛することになった。


 13代将軍足利義輝は、一言で言うと熱い。

いや、熱苦しい人物であった。歳は俺よりふたつ下。身体はこの時代の人としてはかなり大柄。伝説の剣豪、塚原卜伝に剣を学んだ剣の達人でもある。京に限れば人気者。頭の回転も良く、なかなか男前で快活な人物であるが、生まれた時代が悪かった。あと5〜60年前だったら、足利幕府中興の祖として名を残したのであろうが、領地も無く、直属の部下はごく僅か。幕府の財政も周りの支持する大名頼り。それだって全員が義輝を慕っているわけでは無い。利用価値が無くなったら裏切りそうな奴がゴロゴロしている。

 育ちのせいか、生まれつきのキャラなのか、本気で室町幕府を中心に天下の騒乱を鎮めて政を行いたいと思っているらしい。ただ、こいつが潰れると跡を継ぐのは陰険馬鹿の足利義昭で、こいつは前の世界では俺の足を引っ張る事を生き甲斐にした奴だ。陰険な馬鹿より陽性の暑苦しい奴の方が付き合いやすい。室町幕府を中興する気はないが、このままではこいつは近未来に殺されてしまう。悪いやつじゃないし

なんとかしようと思う俺であった。

 将軍御所を綺麗に直す手配をして、銭10万貫と絹織物を沢山、銘刀と織田印の金銀で装飾した鉄砲などを献上したらとても喜ばれた。もちろんちゃんと使える品である。

 親父殿の知り合いの貴族を通じて御所に、銭20万貫を納めてさせて頂き、珍奇なる品々を献上したら、主上にお会いできる事になった。と言っても、部屋の遥か向こうのほうの御簾の向こうから声をかけていただいただけであるが、織田のような自称藤原一族が、直接声をかけて頂くというのは破格である。誠にありがたい事であって、俺は大いに面目をほどこしたのであった。

 

 那古屋に戻った俺は城を建て直し始めた。那古野城が古くなってきたのと、政務をとるのに狭くてどうにもならなくなってきたのだ。現在は城の周囲に各役所の建物が乱雑にしかも、組織の巨大化に伴い増築に増築を重ねた状態で非常に危なっかしく建っている。

 地震や火事でも起きたら目も当てられない。

そこで、城というより、堀で囲んだ区画に3階建ての鉄筋コンクリートの建物群を作ったのだ。

 籠城戦などは一切考えていない。名前が城というだけである。ここまで攻め込まれらなら、どんな堅固な城を作ろうと俺の命運はもう尽きているだろうし、外からの応援の無い籠城戦に意味がないことは大阪城で戦った豊臣家を見ればわかる。ここが中央官庁と俺の居住区。その外側が商業区やら、医療院やら、中央市場やら。道や防火区域も作って樹木を植え、住宅地も瓦を乗せた家屋を基本とした。警察組織と消防組織は前からあるので、その駐屯所も機能的に配置した。

多分世界最大の大都市である。名前も心機一転、名古屋に変更。

 信之世界の過去のように安土あたりに本拠地を置いた方が、琵琶湖の水運を使って、京に行くのも楽だし、今だけを考えれば良いのであろうが、島国である日本を考えると港の無い首都は考えられない。モーターの概念も教えたし、しばらく前に塩水と金属板で作った電池でカエルの脚をぴょこぴょこやってたので、そのうち電信もできるだろう。


 永禄8年。名古屋の工事が始まったのを確認した俺は織田軍1万5000を率いて京に進軍を開始した。今回はただの上洛でなく、京の周辺の有象無象をきれいにするための軍事行動である。

 織田の常備軍は現在、文官や輜重隊も含めて7万くらい。財力があるから維持できているのではあるが、兵は軍人として高度に訓練されており、逆に他の大名みたいに兵力が足りないからちょっと百姓から徴発というわけにもいかないが、武器も含めて今地球上にある軍隊の中で最強であると自負している。

 京に着いた俺は、思いっきり目立つ振る舞いを始めた。町衆を集めて祭りを催し、主上の御所を立て直す工事を始めた。橋を直し、芝居小屋をいくつか建て、その周囲に文芸を楽しめる場所を作った。京での織田の人気は鰻のぼりである。義輝に呼び出されてこっちはどうなっているのだと責められたが、まぁ待て。

物には順番がある。


 ある日、大和の松永久秀が訪ねてきた。松永弾正と言った方が通りが良いかもしれない。俺よりひとまわりばかり歳上の、眼光鋭い一癖も二癖もありそうな男である。将来、主筋に当たる三好を殺し、奈良の大仏殿を焼き、息子が義輝を殺す男である。並の男でもあるはずもない。

 平伏の後、顔をあげ、俺の事をじっと見ていたが、再び畳に額をこすり付けんばかりに平伏し、俺の配下に加えていただきたいと言う。なんなら大和一国を差し出しても構わないとまで言う。いつ裏切るかわからないような男だが、不思議にこいつから目が離せない。何か運命的な縁を感じるのだ。前世界の信長も何度も裏切られてもその度に許している。そんな扱いをしたのはこの男しかいない。俺は願いを聞き届けることにした。

 この時俺は、この松永弾正という男がその後の俺の人生と不可分な関わりを持ってくるとは夢にも思わなかった。

 

 今、京は表向きは主上と足利将軍家の支配下にあることになっているが、三好一族の影響下にある。

 今、日本で大きな大名と言えば、上杉、武田、北条、そして織田、三好、毛利、九州の大友と言ったところだろうか。中でも都に近い三好一族は気位が高い。織田など新興の田舎大名としか思っていない。そんな三好にとって俺の振る舞いが面白い訳もなく、三好は越前の朝倉や周囲の小大名を誘って攻めかかってきた。俺にとって予定通りの行動である。

 敵が全員揃うまで待つ必要も無いので、朝倉と京の周囲の雑魚は無視して三好の主軍に向かう。騎馬と馬車を使った移動だ。この時代では立派な機械化部隊である。情報部により、正確な地図もつくられている。勝手に布陣し、こちらの準備が整うと、物見の報告通りに布陣していた三好軍5万に対し攻撃開始。

いつもの通り、両軍が向かい合って戦い始めるような事はしない。立派な鎧をつけたやつから射殺される。後ろ込めの薬莢式となったので、褐色火薬の特性上、一発打つたびに銃身をきれいにしなければならないにせよ、この時代の単発の銃としては驚異的な早さで連射できる。三好の別働隊1万が横手から攻め込もうとしているとしているという報告があったので、1000をそちらに向けようかと、考えていたら松永軍の5000がそれに突っ込んだ。この辺りが戦場になると考え向かっていたらしい。配下になるにしても犠牲を払わねば信用して貰えないと考えたのか。三好と一緒になってこちらを攻撃してくる選択肢もあったろうし、合流して一緒に三好を攻撃する選択肢もあったはずだ。単独で倍の数の敵に突っ込むのは本当に配下になりたいという事だろう。存在は掴んでいたため、松永軍がどのように動こうと対処可能ではあったのだが、敵対するやつが多いほど死人が増える。味方になった事を素直に喜ぶ。

 2門しかないが、臼砲が使われ始める。口径は小さいが榴弾である。程なく三好軍は総崩れとなり、淡路を抜けて本拠地でもある四国に逃げて行った。

 自分達の2倍の三好軍に突貫した松永軍は満身創痍なので、一旦引かせ、数名の軍医と看護兵を医薬品と共に残して、俺たちは三好軍を追う。

 京で三好を挑発したのは、大義名分を得るため向こうから仕掛けさせたかったからであり、思惑通りであった。今回の勝利も含めて計画通りであり、情報部を通じて四国の長宗我部と話をつけてあった。

 三好が敗退して四国に逃げ込んだ場合、俺が三好を滅ぼすまでに手に入れた三好領は切り取り自由。という約束だ。三好が簡単に負けて逃げてくるとは思わなかったようだが、三好が負ければラッキー。勝っても損はない。しかも俺が勝った場合は俺に恩を売れるのだ。

 父の急死により、家督を継いだ長宗我部元親は今回の騒動で四国の三好領の3割を手に入れた。軍の半分と、後を追ってきた戦後処理のための文官集団を残し、俺は急遽軍を京に戻す。こんなに早く三好が破れると思っていなかった朝倉は近江を蹂躙しながら都に向かおうとしていた。だが旧態依然とした朝倉軍は機動性に欠け、動きが悪い。三好軍を壊滅させて直ぐに俺が引き返したため、戦意を無くし、慌てて軍を返し一乗谷に引き籠った。

 囲んで毎日臼砲を撃ち込んでいたところ、家臣どもが義景と一族の首を持って降伏してきた。

 余り人望がなかったのだろうか?

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